受容真実和解委員会
「国際社会」と「子ども」に関する公聴会

松野明久

受容真実和解委員会の最後の2つの公聴会が3月に行われた。自決権に関する公聴会は、改めて東ティモール人の自決権が国際政治の現実の中で無視されたことを明らかにした。また、子どもに関する公聴会では、これまでほとんど公表されることのなかった、子どもたちが紛争から受けた傷の深さが、証言を聞いた人びとの心をとらえた。


1.自決権に関する公聴会

 「自決権と国際社会」に関する公聴会は、3月15-17日の3日間委員会本部で行われた。証言は個人の資格で行われ、政府や団体を代表してのものではない。
 国連関係では、政務局で長年東ティモール問題の交渉の事務方をリードしてきたフランセスク・ベンドレル(スペイン人)、住民投票のための派遣団長イアン・マーティン(イギリス人)の2人。各国政府関連では、オーストラリア外務省スタッフのケネス・チャン、アメリカ国務省のギャリー・ゲイ、連帯運動関連ではオーストラリアで問題の初期から関わっていたデイビド・スコット、ポルトガル「マウベレ人民の権利のための委員会」(CDPM)のルイザ・ペレイラ、アメリカのロビーストであるアーノルド・コーヘン、日本の東ティモール全国協議会からシスター中村葉子の4人。インドネシアからは連帯運動関連でソリダモルのイェニ・ロサ・ダマヤンティとFORTILOSのヌグロホ・カチャスンカナ、インドネシア科学院の歴史学者で東ティモールなどをめぐる教科書改訂に関わってきたアスビ・ワルマン・アダムの3人。東ティモール亡命組を代表して証言したのは、メルボルンでCNRTの代表をつとめてきたアベル・グテレス(現在は在オーストラリア領事)だ。ポルトガル政府は証言すると返答していたものの、どういうわけか、最終的には証言者を派遣しなかった。シスター中村葉子の証言は、抄訳を掲載する。


二人の元外交官

 各国政府が東ティモールの自決権をどう認識していたか、というのが公聴会の焦点だ。この点について言えば、アメリカとオーストラリアの元担当部局スタッフの証言が、とくに内情を明らかにしたわけではないが、興味深かった。ちなみに現在、この二人は東ティモール国連支援団の政務局で政治分析を行っている専門家だ。
 今まで知られていることでは、オーストラリアのウィットラム首相(1975年当時)はスハルト大統領との会見で、オーストラリアも東ティモールのインドネシアへ統合をベストだと考えていると伝えていた。ケネス・チャンの証言は、ウィットラム首相とウィレシー外相との間には意見の差があったというもので、外相は、もし東ティモール人が独立を望めばオーストラリアはインドネシアにそれを受け入れるよう説得すべきだ、オーストラリアは東ティモールの独立を含めた真の自決権行使を尊重すると東ティモール人に伝えるべきだ、と考えていた。国防省もこれに近い考えだった。ただ、当時在インドネシア大使を務めていたリチャード・ウルコットについては、外務省内にも、彼はオーストラリアの意見をインドネシアに対して代弁していたというより、インドネシアの意見をオーストラリアに対して代弁していたとの見方があるが、ケネス・チャンも同感だと語った。ケネス・チャンは、オーストラリアの東ティモール政策は「失敗だった」とはっきり述べた。ウィットラム首相が決めた政策ラインは、東ティモール人にとっての選択肢を狭め、かえってオーストラリアの対インドネシア関係にフラストレーションをもたらし、オーストラリア国民の中に多くの批判勢力を生み出してしまったと。

 一方、アメリカ国務省の元スタッフであるギャリー・ゲイは、当時のアメリカの外交政策の枠組は冷戦にあったという点からスタートした。ベトナム戦争敗北などからして反共の砦としてのインドネシアの重要性は明らかだった。ただ、理論的には、専門家の分析が細かなニュアンスまでも把握し、それが政策決定に生かされることになっていても、現実には、東ティモールのような周辺的なケースについては、これが機能しないことがある。政策決定者はいきおい非常に単純化された結論に帰着するが、彼らは往々にして、専門家のあげる分析を読まず、外国政府の要人の話をうのみにしたりする。どうやら、東ティモールもこのケースに当たるようだ。
 例えば、UDTのクーデタ(1975年8月11日)直後、国務次官フィリップ・ハビブは、インドネシアは共産主義者が支配的なグループ(=フレテリン)が政権を取るのを許さないだろうと述べているが、この時期の国務省の分析は、フレテリンは「かすかに左翼的(vaguely left-wing)」というものでしかなかった。
 ギャリー・ゲイはまた、対東ティモール政策が、基本的には外交エスタブリッシュメント全体によって支持されていて、政党政治家が影響を与えることはなかったとも述べた。それは、共和・民主両党の政権がほとんど同じような政策をとっていたことからもうかがえる。そして、アメリカの対東ティモール政策は90年代に入るとすでに修正を要する段階に入っていたが、スハルトが大統領から退くまでチャンスはないという見方が支配的だったとも述べた。
 ただ、国務省人権局がインドネシアの東ティモールにおける人権侵害を非難するなど、巨大な組織である国務省はときに相互にくいちがうような行動をとることもあるという。

2.子どもに関する公聴会

 「子どもと紛争」に関する公聴会は、3月29-30日の2日間、委員会本部で行われた。子ども(17才以下)といっても、証言者は1人を除いてみな大人だ。かつて子どもだった頃の体験が中心となった。
 UDTとフレテリンの対立の中で恐怖を感じた人、フレテリンの内部対立に親が巻き込まれて自身も翻弄された人、子どもながら抵抗運動に身を投じインドネシア軍につかまって拷問・虐待を受けた人、インドネシア軍のTBO(作戦補助)にさせられた人、インドネシアに連れて行かれた人、1999年のリキサ教会虐殺を目撃した人などが証言した。その他、インドネシア軍がつくった養護施設「スロジャ」(1975年のインドネシア軍の侵攻作戦であるスロジャ作戦にちなんで名付けられた)の監督者をしていた役人も証言した。
 中でも非常に人びとの心を捕らえたのは、それまでほとんど語られたことのない悲劇という意味で、子どもの頃インドネシアに連れて行かれた2人の証言ではなかっただろうか。

連れて行かれた子ども

 ペトルス・カンシウスはインドネシア軍侵攻前に両親をなくし、1977年、9才の頃、アイレウに住んでいたところをインドネシア軍兵士に学校に行かせるということでディリに連れてこられた。ディリではスロジャ孤児院に入れられ、そこからインドネシアに連れて行かれた。東ティモールから連れて行かれた20人の子どもたちは、スハルト大統領に面会するなど「大歓迎」を受け、マスコミもこれを報道した。スハルトは彼らを「インドネシア国家の子ども」などと言った。子どもたちはカトリックの施設に入れられ、月13000ルピアが与えられた。これは彼らの養育費として施設に与えられたものだが、施設はお金が少ないと不満をもらしていた。(ちなみに1979年当時のレートで1円=3ルピア。13000ルピアは4300円程度。決定的に少ないという額でもない。)スマランのカトリック施設では、東ティモールの子どもたちはいろいろとトラブルを起こしたが、そのたびに食事を抜くなどの罰が与えられ、それで子どもたちはますます反発した。
 彼のケースは、インドネシア軍がいかにも戦争孤児の面倒を見ているといった宣伝に利用されたものだ。必ずしも東ティモールで生きていけない子どもたちではなかったのに、親や親戚とも連絡をとれないまま、インドネシアに連れて行かれた。そして施設に預けられてわずかな金額を短期間もらっただけで、政府から面倒を見てもらったとは言い難い。
 もう一人証言台にたったアルフレド・アルベスは、今では東ティモール海軍司令官だ。1995年、東ティモールから「ボート・ピープル」となってオーストラリアのダーウィンに漂着した一団があったが、その船長をつとめたのは彼だった。それは抵抗運動の指示による脱出作戦だった。
 侵略の際、彼の父親(ポルトガル人)と姉はオーストラリアに亡命。母親(ティモール人)と彼はマウビシからトゥリスカイ方面へと逃げた。インドネシア軍の爆撃は激しく、人びとは逃げ惑い、死んだ。彼は大人が子どもがうるさいといって殺すのを見た。ついて逃げれない老人や子どもたちは、木の下にいくばくかの食べ物とともに置き去りにされた。彼は証言の途中「これは映画ではない。本当に起きたことだ」と言った。
 彼はインドネシア軍のTBO(作戦助手)となった。仕事は料理、水くみ、皿洗いなどだ。ある時、もうかなり重い荷物をもっていた20才ぐらいのTBOにインドネシア兵がさらにものをかつぐよう命令した。そのTBOはそれを拒否した。怒った兵士は彼を殴ったり蹴ったりした。目的地につくと、すべてのTBOが集められた。兵士たちはもう先に並んでいた。司令官は、荷物をかつげと言われたらノーと言ってはだめだ、われわれ(インドネシア軍)は諸君らを解放するためにやってきたんだから、と言った。そして荷物かつぎを拒否したTBOを前に呼び出し、こいつがしたことを絶対するなと言って、彼を崖っぷちに立たせた。そのTBOは泣き、祈った。司令官は言った。同じことをすれば、お前たちも同じ目にあうからな。そして、そのTBOが刃向かったあの兵士が、TBOに近づいて、彼を2度撃った。TBOは空中に飛び上がったようになって、その後地面に落ちた。誰も彼を埋葬しようとしなかった。
 1980年、彼はスラウェシ出身の兵士に連れられ、スラウェシのクンダリの彼の実家に行った。しかし、ほとんど奴隷のような扱いを受けたため脱出し、仕事をして金をためたあと東ティモールに帰った。1987年には地下運動に参加し、1995年の船によるダーウィンへの脱出劇となった。

孤児院「スロジャ」

 問題となっている孤児院「スロジャ」は、インドネシア軍侵攻後すぐにインドネシア軍によってつくられ、「戦争孤児」を収容し始めた。軍人は理由もつげず、子供たちを連れてきたので、実際にはどういう子どもなのかはわからない。その後、東ティモール州政府社会福祉局に管轄が移り、以後、軍人はよくやってきたが組織的な関係はなくなったという。証言したギリェルミ・フェルナンデスは州政府から施設管理者として派遣された人で、フレテリンの子どもを収容して親が早く投降するよう促す意図があったと述べた。★


シスター中村葉子の証言
(抄訳)

2004年3月17日

 もし東ティモールの連帯運動に関わっていなければ、私の人生はこれほど充実して意味あるものとはなっていなかったでしょう。そういう意味で、私は自由と正義のための闘いに身を捧げてきたすべての東ティモールの友人に感謝したいと思います。
 インドネシアの侵略直後、大阪と東京には大使館・領事館前で抗議行動をした若者たちがいましたが、現在の日本の東ティモール連帯運動は、1981年に広島の女性団体からスタートしたものです。1985年にはラモス・ホルタ氏が来日し、日本で初めて直接に東ティモール問題を紹介した東ティモール人となりました。翌年、市民団体がマルティニョ・ダ・コスタ・ベロ師を招待し、できたばかりの東ティモール問題を考える議員懇談会とも話をしました。
 日本のカトリック教会は、1986年、故相馬司教が東ティモール連帯運動を始めました。当時カトリック正義と平和協議会(正平協)の議長をしていた相馬司教は、ロペス師の連帯を求める訴えにつき動かされたのです。翌年、私は正平協の中で東ティモール担当に指名されました。私は東ティモールについて勉強し始めましたが、その情報が伝えるあまりの状況のひどさにがく然とし、自分の目で行って確かめてみたいと思うようになりました。
 私は1981年10月に初めて東ティモールを訪問しました。到着後ただちにラハネのイエズス会司祭たちのところに行き、そこからビケケ、バウカウ、オッスなどを案内していただきました。かの悪名高いフランボヤン・ホテル、バウカウの軍の空港、フレテリン・ゲリラがインドネシア軍と戦っているという山などを見ました。ビケケでは、マリアという名前の16才の少女と話をしました。彼女は父親がポルトガル語の教師だったというだけで何度も拷問されたと語りました。私が見たもののひとつひとつが、私が読んだ情報がまったくもって真実だったということを証明していました。それ以来、東ティモールとの連帯が私のライフ・ワークになりました。
 1988年、日本の支援グループは「東ティモールに自由を!全国協議会」を結成しました。その主たる活動は東ティモール人を招いてスピーキング・ツアーをすることでした。ロケ・ロドリゲス(現国防長官)、アビリオ・アラウジョ(現国民党党首)、アジオ・ペレイラ(現大統領補佐官)、マリ・アルカティリ(現首相)、ジョアン・ディアス、アビアノ・ファリア、フェルナンド・デ・アラウジョ(現民主党党首)、マリア・ドミンガス・アルベス(現男女平等推進首相顧問)、ラウラ・アブランテス、ミカ・バレトといった人たちが招待されました。スピーキング・ツアーは2002年まで続き、最後の招待者は受容真実和解委員会の委員ジャシント・アルベスでした。
 全国協議会は国連でロビー活動もしました。非植民地化委員会の公聴会、人権委員会・小委員会などに人を派遣しました。1991年には、かつて国連につとめていたアメリカ在住の日本人のイニシャティブで「国際東ティモール連盟」(IFET)ができ、国際的なロビー活動の集約点となったほか、1999年の住民投票では最大の国際選挙監視団を組織しました。その時の体験によってトラウマをかかえ、いわば「ティモール人化」した監視団参加者が、今独立した東ティモールで、みなさんとともに仕事をしています。
 カトリック正平協も国連にはいろいろとアピールをしましたが、中でも重要だったのは、ベロ司教が1989年に国連事務総長にあてて書いた住民投票を求める手紙への支援でした。1989年、相馬司教がアジア太平洋の聖職者たちに呼びかけたところ、1257人の署名が集まり、それをもって司教は国連非植民地化委員会の公聴会に臨み、それをペレス・デクエヤル事務総長に提出したのです。相馬司教は、あるとき、バチカン法王庁の役人から、一体誰の許可をえてそれをやったのかと問う手紙をもらいました。でも司教は、正しいことをするのに誰の許可もいらないよと、ほほ笑みながら言ったのです。
 私は1991年7月、東ティモールを再び訪れました。その時、私はシャナナと会うことができ、一緒に行った仲間は、このファリンティル司令官のインタビューをビデオにおさめることに成功しました。その映像は、サンタクルス虐殺が起き、ニューヨークの国連本部ビルで記者会見が行われた際に、一部発表されました。その後、私はサンタクルス虐殺の犠牲者のリストをもらいましたが、その名前がまさにAからZまで並んでいるのを目にしたとき、涙をこらえることができませんでした。
 全国協議会はいろいろな活動をしました。結局、日本政府の政策をあまり変えることはできず、それが何をなしとげかたを判断するのは難しいのですが、ただ1995年には、自社連立政権のもとで、日本の東ティモール政策は国連の仲介プロセスを「見守る」から「支援する」へとほんのちょっとだけ変わったのです。
 一緒に活動をともにした人たちの中で、ふたりだけをご紹介します。
 一人はレナト神父です。日本に長く住んだイタリア人神父で、1991年サンタクルス虐殺のとき東ティモールにいて、すぐに日本に帰って記者会見を開きました。2002年には余生を東ティモールに捧げるためエルメラ県のアッサベに移り住みましたが、昨年交通事故で亡くなってしまいました。
 もう一人は、太平洋戦争中、バウカウ県バギアにいた元日本兵の岩村正八さんです。戦争への反省と東ティモール人の闘いへの共感から連帯運動に参加し、国連非植民地化委員会の公聴会に行きました。また、オーストラリアに行ってオーストラリア人元兵士たちと和解の交流をしました。彼は独立を見ることなく亡くなりました。
 サンタクルス虐殺の前は、アジア太平洋の東ティモール連帯運動は限られたものでした。香港を拠点とするアジア学生協議会(ASA)や太平洋に広がるプロテスタント教会のネットワークが東ティモールに注目していました。1987年、マニラで開かれた非核独立太平洋(NFIP)会議は、東ティモールについて関係者が集まって議論するいい機会となりました。この会議がマルコス政権崩壊直後のフィリピンで開かれたということは、注目すべきことです。フィリピンに生れた民主的空間は、アジア太平洋で東ティモールについての意識を高める上で、決定的に重要な役割を果たすことになるからです。
 サンタクルス虐殺は、アジア太平洋の各地に連帯運動を誕生させました。インドネシアは言うに及ばず、フィリピン、韓国、マレーシア、シンガポール、タイ、スリランカ等。フィリピンのNGO「国際的対話のためのイニシャティブ」が音頭をとって、1994年、アジア太平洋東ティモール会議(APCET)が開かれました。ご存知の通り、この会議ではインドネシア政府が開催に強く反発し、フィリピン政府がそれを禁止しようとしましたから、かえって話題を呼んで、フィリピンで東ティモールは一躍有名になってしまいました。APCET IIはクアラルンプールで開かれ、この時もマレーシア政府が弾圧しました。APCETの名誉議長となっていた相馬司教や私を含むすべての外国人参加者が強制退去にあいました。しかし、司教はこれを非常に喜んでおられました。「一銭も使わず、東ティモールを宣伝できたよ」と言って。私は生れて初めて鉄格子のはまった車に乗せられ、なんとその夜、相馬司教と一緒のホテルの部屋に入れられそうになりました。
 APCETにはインドネシア人が参加していました。クアラルンプールには、当時インドネシアで勉強していたヘルダ・ダ・コスタ(現東ティモール大学研究センター所長)が参加していて、みな彼が強制退去でジャカルタに帰らされたらどういう目に会うだろうかと心配しました。私は日本の友人に電話をして、助けを求めました。その友人はジャカルタの知り合いの記者に電話し、ヘルダ・ダ・コスタがジャカルタに到着するのを取材だといって出迎えてもらうよう頼みました。その後の話では、彼がジャカルタに着いたら記者がたくさんいて、彼は難を逃れることができたそうです。
 私たちの活動の出発点は何だったかを振り返って考えてみれば、それはすべての人権の基本に自決権があるという認識でした。国際的な連帯運動を、政治的だとか、特定の政治的目的、例えば独立といったものをめざしている、特定の政党を支援していると批判する人たちもいます。これらの批判はすべてまちがっています。私たちは、結果が独立であれ何であれ、一貫して東ティモール人の自決権を支援してきたのです。
 私は、自分の活動経験から、人間がいかに権力と金への欲望から自由になることが難しいかを学びました。また、他の民族や社会、個人を尊重することが、国際的平和の基礎であることも学びました。
 東ティモールは外国支配から自由になりました。しかし、連帯グループのメンバーの多くは、インドネシア軍と彼らの監督下にいた者たちがおかした罪が扱われているその方法に憂慮しています。私は、これらの罪を国際法廷で裁くことが報復だなどとは思いません。国際法廷は、公正な世界秩序をつくりたいのであれば、正しい、適切な方法です。免責は同様の犯罪を助長しますが、すでにそれが起こっているのを私たちは見ています。したがって、今日ここに来ることのできなかった世界の連帯グループを代表し、私は国際法廷の設置を改めて求めます。
 ありがとうございました。

(後日談)シスター中村は証言を全編テトゥン語で行った。テトゥン語でしゃべった外国人証言者は7回の公聴会でシスター中村だけ。公聴会の証言はテレビ・ラジオで全国生中継された。シスター中村はその後、テレビに出たあのシスターですね、といって丁重に扱われたことがあったそうだ。


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