賠償問題>

日本政府へ申し入れ

未解決の東ティモールへの戦後賠償問題

東ティモール全国協議会(元東ティモールに自由を!全国協議会)

 2004年2月19日、東ティモール全国協議会等を呼びかけ団体として、(旧)日本軍の東ティモール侵攻に関する「申し入れ」を日本政府、小泉首相、川口外相に行いました。その「申し入れ書」ならびに東ティモール人戦争被害者から川口外相宛の手紙(翻訳:原文ポルトガル語)を掲載します。
 1942年2月20日、当時中立国であったポルトガル領東ティモールに(旧)日本軍は侵攻を開始し、敗戦までの3年半にわたって占領しました。その間多大の犠牲・被害を東ティモールの人々に与えました。敗戦後、日本政府はポルトガルが中立国であったと言う理由で戦後賠償を行いませんでした。東ティモールでは現在も多くの戦争被害者や家族がおりその傷は癒されていません。
 1975年からインドネシアは不法で苛酷な軍事占領・支配を行いました。その間、日本政府はインドネシア・スハルト政権を経済的にも外交的にも支援し続けました。
 1999年8月の「住民投票」で東ティモールが勝利した後、日本政府は東ティモールに経済援助を始めました。しかし、それと引き替えに戦後賠償問題をうやむやにしようとする動きがあるとの噂があります。 過去を見つめ過ちを謝罪することなく良好な関係を築くことはできないと考え「申し入れ」を行いました。


申し入れ書
内閣総理大臣 小泉純一郎殿
外務大臣 川口順子殿

 第二次大戦中の1942年2月20日、日本軍は当時中立であったポルトガル領ティモールに侵略を開始し、1945年8月15日の敗戦まで約3年半にわたり占領を続けました。その間、日本軍は主に連合軍の支援者とみなされたティモール人を殺害・虐待し、住民から作物、家畜、軍用道路建設のための労働力を厳しく徴発し、さらに女性を性奴隷化(軍慰安所での、あるいは特定の将校への性行為の強制)するなど、甚大な被害を東ティモールの人々に与えました。
 2000年 12月、「<日本軍性奴隷制を裁く>女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、ふたりの東ティモール人女性が自らの被害体験について証言しました。東ティモールの女性が日本軍性奴隷制の被害者として公に証言したのは初めてのことで、私たちは彼女たちの勇気ある行動に心を動かされるとともに、彼女たちがその忌まわしい日本軍の行為のために、半世紀以上たった今でもとても苦しんでいることに心が痛みました。謝罪や賠償・補償などを一切おこなっていない日本政府の無責任な対応が、その苦しみをさらに深めています。その後、現地では、その他の被害者や、軍隊慰安所への女性の挑発および慰安所での女性の使役に関して日本軍に協力させられた人びとも証言を行っています。
 日本軍による被害実態の全体像が今なお解明されていないまま、被害者の多くはすでに高齢となっておられます。
 以上に鑑み、私たちは日本政府に対して以下のことを要請します。
 1.日本政府の責任においてすみやかに、占領中の被害に関して、現地調査やポルトガル・オーストラリアなど関係各国での調査等を含む、徹底的な実態調査を開始すること。
 2.日本政府の責任においてすみやかに、謝罪、賠償、補償を行うこと。被害者にとって被害の事実が認定されることは、彼らの名誉回復、人間としての尊厳の回復の第一歩です。日本政府は自らの責任において、占領中の行為について正式に謝罪し、被害者の苦しみに誠実に応えるよう求めます。

2004年2月19日
【呼びかけ団体・個人名】
東ティモール全国協議会
札幌東ティモール協会
仙台・東チモールの会
東京東チモール協会
東ティモール支援・信州 名古屋YWCA東チモールを考える会
大阪東ティモール協会
岡山・東ティモールの声を聞く会
下関・東チモールの会 大分・アジアと日本の関わりを見つめる会
東ティモールと連帯する長崎の会 長崎東ティモール協会
日本カトリック正義と平和協議会
個人1名(割愛させていただきます)

【賛同団体・個人名】(賛同順)
あづみの道草あかとんぼの会
VAWW-NETジャパン(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク)
「慰安婦」問題を考える女たちの会(岡山)
社団法人アムネスティ・インターナショナル日本
日本カトリック東ティモールデスク
アジア女性資料センター
マレーシアの人権問題を考える会
アジア太平洋資料センター(PARC)

個人18名(割愛させていただきます)


川口順子外相への手紙
第二次大戦の東ティモール人犠牲者に補償を
レアォン・ペドロ・ドス・レイス・アマラル

(Cc. ジョゼ・ラモス・ホルタ外務協力大臣(東ティモール政府))

まず初めに自己紹介をさせていただきます。私はレアォン・ペドロ・ドス・レイス・アマラルと申しますが、簡単にレアォン・ペドロ・アマラルとも呼ばれています。86年と8ヶ月になる者です。 私は、1947年4月12日発行官報15号に掲載された1946年9月5日の1197号発令により、ポルトガル政府によって、ルカ(という町)の主たる指導者たちとともに顕彰されている者で、それは、同封の(のちに郵送いたします)小冊子の82-83頁において書かれている通り、第二次大戦、すなわち1942年2月20日から1945年8月にいたる時期、私たちが行ったある行為によってでありました。
 私は3回拘束されました。まず最初は、33日間で、憲兵による身体的・心理的拷問も受けました。場所はビケケ県のひとつの行政地であるオッスというところで、そこでビケケ県の行政本部の監獄に入れられました。
 2度目は7日間でしたが、この時も拷問されました。
 3度目は1日だけで、この時は拷問されませんでした。キタバヤシという将兵が、ルカの憲兵隊の前で私を擁護してくれたからです。彼はルカの王領の宣撫班にいました。 彼は私のことをよく知っていて、たいがいいつも事務所にいて、よく周辺の掃除などしていたものですから、私は鶏、卵、鹿肉などを時々もっていっていました。いつもすべてお金を払ってくれました。
 私は、ディロール(ビケケ県の町)の村長であるルイス・ダ・フォンセカの一人娘、パスコエラ・ダ・フォンセカ・ソアレスと結婚しました。(私の妻は)もうこの世にはいませんが、その(村長の)名前は元東ティモール総督マヌエル・デ・アブレウ・フェレイラ・カルバリョの『ティモール報告 (1942-45)』の752頁に出ています。
 私の兄はまたディロール町の長、モイゼスであり、彼の名前もまた同報告752頁に出ています。
 古沢希代子さんという女性が大戦中おきたこと、そして日本軍兵士が現地住民に対して行った犯罪となる可能性のある行為について調べて回っていることを知った際、私自身がよく知っているビケケ県一帯での彼女の調査がよきものとなることを願って、彼女のお伴を申し出ました。
 さて、外務大臣閣下に、インドネシアの新聞「ジャワ・ポス」の「日本は慰安婦、労務者などの補償に30兆ルピアを用意」という記事のコピーを送らせていただきます。(別途郵送します)私は、日本がいくつかの国の犠牲者たちに補償をしたと聞きました。 私は、外務大臣閣下に対し、閣下の誠実さと人道的感情から、すでに受け入れられた規範であろうと私が思うところのものにしたがって、他の犠牲者たちと同様、私に対しても補償をくださいますよう、ここに申し出を行いたいと思います。その際、そのことが日本がわが祖国東ティモールに対して行っている援助に対してまったくの悪影響を与えないこともまた、肝要であるかと思います。
 私が古沢希代子さんに同行してディロール(ラクルタの行政の中心地)に行った際、日本軍がいた時代のいくつかの出来事についていくつかの証言をまじかに聞くことができました。
 こうして証言を聞いた後、私たち一向はビケケ(町)に戻り、彼女たちには の自宅に泊まっていただきました。
 次に、オッスを通りかかった際、私は墓地の近くのある地点を見に行こうと誘いました。そこは、私が殺されそうになったところで、そこには私と看護士だったアントニオ・ルイス・デ・オリベイラ、そしてあるひとりの中国人のために、すでに穴がほられてあったのです。
 古沢さんは、私の申し出を快く受けてくださり、私たちはもはやかつてとはだいぶちがっているその場所へと行きました。
 そこで私は彼女に、私は手を縛られ、その看護士と名前を知らない中国人と一緒に、目かくしをされて、そこへ連れてこられたのだと話しました。
 私たちはそこへ着くやいなや、目隠しをとられ、穴を見せられ、「これからまもなくおまえたちをこの穴に放り込む。おまえたちがオーストラリア人、オランダ人、ポルトガル人に味方したことへの報復だ」と言われました。
 こう言い終わると、彼らはその中国人を穴の中に放り込みました。そして、私たちが見ている目の前で、銃剣をその中国人の左のわき腹につきさし、続いて同じ銃剣で、彼の心臓のあたりを突き刺しました。それが彼を死に至らしめました。
 彼らは死体をまっすぐにして、その穴を閉じました。
 その後、銃剣を洗浄する儀式が行われました。その儀式の最中に、ひとりの男が一片の書類をもってやってきました。彼らはその書類に目を通すと、私と看護士アントニオに向かって、「おまえたち二人はまたの機会にする」と述べました。
 私たちはまた付き添われて出発しましたが、今回は目隠しはされませんでした。憲兵隊事務所の2メートル手前で、彼らは私たちの上に塩をまきました。そして、塩がわたしたちにちゃんとかかったかどうか聞きました。それはどうしてもやらなければならない儀式だったようです。
 フランシスコ・ドス・レイス・カルバリョ(65才)の父親であるエステバォン・デ・カルバリョも、総督の報告書の753頁に登場し、ポルトガル政府がその忠誠を、他の18人の犠牲者とともに讚えて記念碑を建立した際、そこにその名を刻んだ人物です。
 私とフンラシスコ・ドス・レイス・カルバリョは家族による一種の委員会のようなものをつくり、この手紙を書き、署名をしたという次第です。
 外務大臣閣下の人道的感情と日本国民の誠実な良心に、私たちは訴えます。どうか、第二次大戦の犠牲者に対し、他国の犠牲者との関係を考慮して採用した基準にしたがって、補償をしていただきたい。そして、繰り返しになりますが、その際、日本政府が東ティモールに対して行っている寛大な援助になんらの影響を及ぼすことがないよう、改めてご配慮をお願いする次第です。
 手紙を終えるにあたり、この手紙の中に私たちの意図せぬ過ちや配慮の欠如があったとすれば、そのことについておわび申し上げるとともに、そのことにおける閣下のお慈悲をお願い申し上げます。
 最後に、私たちの閣下への尊敬の気持ちをお伝えして、筆をおかせていただきます。

 ディリ、2004年2月17日
 1.レアォン・ペドロ・ドス・レイス・アマラル
 2.フランシスコ・ドス・レイス・カルバリョ


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