<巻頭言>

メンテナンス

主権委譲(ないしは独立)からほぼ2年がたとうとしている。 初期にあった熱気、やる気、ゼロからスタートするんだという意気込み、そしてそれにともなってあったあらゆる不足に対する寛容、許容、余裕というものが、急速になくなりつつある。
 いつだったか、きれいにペンキが塗り替えられて真っ白になった東ティモール大学の校舎をみて、とてもすがすがしい気持ちを味わったのは、私だけではないだろう。あれは生まれ変わった東ティモールのひとつの象徴だった。それが今、白壁のあちこちがはがれ、かえって見苦しい感じだ。
 メインの政府庁舎は今でも見た目にはきれいだが、トイレの水が出ない、蚊がたくさんいて職員が次々とマラリアにかかっている、ジェネレーターが火事をおこすといったトラブルが発生している。 発電施設がちゃんと動いていないようで、各地で電気が供給されない問題がおきている。燃料を買うお金がないのが一因だ。ディリでも夜中の12時から朝5時までは毎日停電する。消費者が電気代をちゃんと払わないので、燃料が買えない。
 東ティモール政府は予想外の車修理費とガソリン代の支出に頭をかかえている。おそらくどの組織、団体も同じ問題に直面している。車に加えてコンピューター、コピー機など、数年ごとに入れ替えないといけない高額設備は、数年後確実に財政を圧迫する。
 国としての初期投資は、ほとんどの部分が、外国政府からの援助によってなされた。しかし、投資されたものを維持するための費用まで面倒をみる外国政府というのは少ない。
 サステイナビリティ(維持可能性、継続可能性)は、今後の東ティモールを構想するキーワードだ。機械だけではない、この国が国としてやっていくためには、いろんな分野のサステイナビリティを確立していかないといけない。人びとの意識も含めて。
 卑近な例で恐縮だが、昨年4月私が東ティモールの今の職場に赴任したとき、部局にひとつの小さな冷蔵庫があった。電気は通じているが、中がひどく汚れていて、不衛生でもあるし、みなあまり使っていなかった。でも電気は入っていた(!)
 私はそれを中庭に出して、長いホースでもって水をじゃぶじゃぶかけながら、布でふいた。そして元に戻して、使えるようになった。どうして誰も掃除をしなかったのか、今でも不思議に思う。
 また、私たちが住んでいる家のわきはきたないごみの川だ。みんながごみをすて、誰も掃除しない。雨季の大雨でごみがみな流れてしまって、きれいになるから、ますます気にしない。しかし、下流は大変なことになっているはずだ。
 一般的な傾向としては、自分のものはかなりとことん整備するが、共有のもの、公共のものとなると、とたんにメンテナンスが悪くなる。メンテナンスとは公共の精神のことだと言えないか。
 この問題は、援助する側とされる側がともに取り組むべき課題だと思う。援助する側も機械を入れたり、設備をつくったりするときに、メンテナンスにかかるコストと知識(これもコストだが)をきちんと示しているのだろうか。また、援助を受ける側はそれを意識しているだろうか。
 マリアナに捨てられるようにおいてあった耕耘機などはいい例だ。東ティモールでは、初期の援助ラッシュの時に、もらえるものは何でももらう式の発想があった。農民に聞くと耕耘機が欲しい、と確かに言われた。それを東ティモールの指導者たちが外国政府に言い、耕耘機がやってきた。
 それが今、うち捨てられている。この事態、誰が責任をもつべきか。
 メンテナンスや共同管理といった仕事に取り組んでいく、というのも国造りの重要な側面だと思うこの頃だ。(ま)


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