<和解>

受容真実和解委員会
「政治的対立1974-1976年」についての公聴会

松野明久

 もっとも難しい公聴会と言われた、1975年8月のUDTによるクーデターを中心とした東ティモールの政治的対立についての公聴会が、2003年12月15日から4日間、ディリの委員会本部で行われた。クーデターは1500人ぐらいの犠牲者を出し、東ティモール人同士が暴力をふるうきっかけとなった。今でも苦い、つらい思いでをもっている人は多く、また、意図はどうであれ、このことがインドネシア軍による侵攻につながっていったわけだから、政治的な問題としても大きい。


■ 事前交渉

 この公聴会は最初7月に行われる予定だった。それが延び延びになって12月になった。大統領、首相をはじめ多くの現役政治家の参加を必要とする公聴会なのでとにかくスケジュール調整が大変だった。また、公聴会をどういうプログラムにするかは委員会だけでは決められず、各方面の意見を聞き、調整するのに予想以上の時間がかかったということもある。
 事前交渉は何度か行われた。委員会はそのプロセスを公開しないので、ここでは何も書くことはできないが、シャナナ、マリ・アルカティリ、ジョアォン・カラスカラォンなどが「プロセス・エージェント」として参加した。プロセス・エージェントというのは、日本語にしにくいことば(本来はアジェンテ・デ・プロセソというポルトガル語)だが、あえて訳せば歴史的行為者ということだ。
 UDTは「クーデター」と言われることに反対。そしてフレテリンは「カウンター・クーデター」と呼ばれることに反対だ。また東ティモールでは当時の状況を「内戦」と考えない人たちもいる。用語に窮した委員会としては、反対のないプロセスのエージェントということばにしたわけだ。
 政治家たちはおおむね協力的だった。この公聴会の重要性はよく認識されていたといえる。

■ 公聴会

 当時、フレテリンのメンバーで今回証言を行ったのは、シャナナ・グスマォン、マリ・アルカティリ、ラモス・ホルタ、ロジェリオ・ロバト。みな、フレテリンも過ちを犯したし、その点については謝罪すると述べた。
 ロジェリオ・ロバトの証言はとりわけ聴衆の心を打ったようで、自分は弟を殺された報復心から(弟を殺した)人をひどくなぐったと告白し、また自分が関わっているわけではないにせよファリンティル司令官として配下の兵士が行ったことには道徳的責任がある、と言明した。ロジェリオは、第二代大統領となった兄のニコラウがインドネシア軍によって殺され、弟のドミンゴスがサメでUDTの一団に殺害された。ロジェリオ自身はホルタたちと一緒に侵略直前に東ティモールを脱出し、モザンビークに長く在住した。現在は内相をつとめる。
 シャナナは、アイレウでフレテリンが行った大量処刑について、フレテリンの指導部は知らなかったことだと述べた。マリ・アルカティリは、フレテリンが行ったこともまた、当時の文脈において見なければならないことだと述べた。
 公聴会は、多くの指導者が一応の謝罪をしたということで、大成功との評判を獲得した。この公聴会についての評判は、私自身もその後いろんな人から聞いた。ややナイーブとも思える評価かも知れない。しかし、それほどうれしかったということだろう。委員会のスタッフたちも、最後の日は深夜まで会場に残って、後片づけをしながらわいわい騒いでいた。

■ 証言

 公聴会は政治指導者だけではなく、当時のいくつかの事件の被害者が証言を行った。インドネシア軍による人権侵害を言うのに気兼ねする必要はないだろうが、今回は、東ティモール人が東ティモール人に対して行った人権侵害であるから、UDTのおこした事件を言うにせよ、フレテリンがおこした事件を言うにせよ、かなりな躊躇があったとしても不思議ではない。
 しかし、モニス・マイアが行った証言はとくに勇気あるものだった。彼は、アポデティのメンバーとなってフレテリンに逮捕され、1976年1月、サメで処刑されそうになった経験をもつ。処刑の場所について祈るように言われ、祈りおわったときに銃が発射された。しかし、弾は彼の頭をかすめ、彼はがけから落ちて、逃げることができた。モニス・マイアはときおり涙を見せながら語った。
 アポデティのメンバーというと、すぐにインドネシアの手先のような言われ方がされる場合がある。しかし、現実には必ずしもそうではない。モニス・マイア自身、彼はそれがいいと思ってアポデティに入ったと言った。こうした考えは、UDTの支持者だった証言者たちからもくりかえし表明されており、ある程度、よく考えた上でインドネシアとの併合やUDTを支持した人も少なくないという事実が明らかになってきている。フレテリンがかなりな支持を集めていたというのも事実であるが、そうでなかった人たちがまったく非主体的にフレテリン以外の政党を選んでいたということではない。
 さらに注目されたのは、トマス・ゴンサルベスだ。彼は1975年10月、インドネシア軍の国境侵犯作戦に加わった東ティモール人「パルチザン」のリーダーだ。アポデティのメンバーで、インドネシア軍とともに攻め入り、その後エルメラの知事のポストを与えられた。しかし、1999年、住民投票をめぐって情勢が悪化するとともに、マカオに亡命し、そこでインドネシア軍の民兵組織化を告発した。
 具体的な事実についてはほとんど明らかにしなかったが、当時の文脈、自分の考えなどを述べた。彼が公の場でしゃべったということだけでも、また別な意味で非常に勇気ある行為であり、聴衆もそうした点は理解したのではないか。
 インドネシア軍の侵攻を手助けしたというと、それだけで東ティモールの歴史ではかなり重い意味をもつ。しかし、そういう人は少なくなく、現在の警察長官をはじめ、今もって現役でいろいろと仕事をしていたりもする。今回の証言は、そうした歴史、現在、未来をみつめるときにどういうふうにものごとを見たらいいのかという極めて基本的な点で、実はまだ議論が足らないということを改めて浮き彫りにしたともいえる。


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