追悼

アンドリュー・マックノータンさん逝去

松野明久

 東ティモールの支援者であっても、日本で彼のことを知っている人はそれほど多くないかも知れない。日本には一度しか、来たことがない。しかし、彼は会った人に強烈な印象を残した。つまり「がんこで、あくまで自分の主張を通す」。「ああ、アンドリュー、ああ、アンドリュー」と、われわれも何度も口にしたものだ。
 アンドリュー・マックノータン、49才。昨年の12月22日、シドニーの自宅で孤独な死を迎えた。バイク・レーサーから医者になり、医者をやめて東ティモール活動家となった。東ティモールに何度か行き、地下活動家から重要な情報をもらってオーストラリアに帰る。インドネシア当局から国外退去にあったこともある。今年1月2日に行われたシドニーでの葬式には数百人が参列し、その中にはラモス・ホルタらの姿もあった。また、12月30日にディリのサンタクルス墓地で開かれた追悼式には、タウル・マタン・ルアクも出席した。
 彼の死後、東ティモールの国際的なメーリング・リストで、追悼文が次々と流れた。それは「アンドリュー現象」ともいうべきもので、いかに、彼がみんなに愛されていたかを雄弁に物語っていた。それらのメールの中には、彼の「偉業」の事実をあかしたものもいくつかあった。
 クリントン・フェルナンデスの追悼文は、アンドリューが1998年、インドネシア軍が東ティモールから部分的撤退をしているといいつつ、実は軍をむしろ増強していたというインドネシアの虚偽をあばく内部文書を持ち出したというエピソードについて詳しく書いている。日本ではあまり取り上げられなかったが、海外のメディアでは大きく取り上げられ、これはハビビ政権に対する圧力となった。
 アンドリューはその年の8月から9月にかけて、ディリのホテル・トゥリズモに泊まっていた。内部文書を入手したのはジョゼ・アントニオ・ベロ君で、彼は東ティモール大学の英語専攻の学生として来日したときから日本でも多少知られている地下活動家だ。今ではAP通信社の記者をしている。ジョゼ君は軍の内部に仲間がいたらしい。アンドリューはそれをフロッピーで受け取り、何でもそれが古いWordStarというワープロソフトだったため、シドニーであけるのに苦労したらしいが、最終的には成功した。それは200ページにも及ぶ、インドネシア軍の要員名簿で、ジョージ・アディチョンドロ(当時ニューキャッスル大学講師のインドネシア人)に相談し、その内容を確認。インドネシア軍に詳しいジョン・ローザ(当時インドネシア在住のアメリカ人研究者)も参加し、オーストラリア議会ではローリー・ブレレトン(野党労働党のシャドー内閣外相)の政策アドバイザーの力を借りて国会対策を行い、シドニー・モーニング・ヘラルドのベテラン東ティモール担当記者、ヘミッシュ・マクドナルドに電話した。
 この裏話は、アンドリューによるみごとなコーディネーションが成功の鍵だったことをよく示している。 アンドリューは1995年の夏、第二次大戦中の被害者であるアントニオ・マイアさんとその妻ベロニカ・マイアさんを連れて初めて来日した。東京での戦後補償フォーラムに参加し、京都などを訪れた。アンドリューはその時、大戦中のポルトガル領ティモールを撮った何枚かの写真を展示用にもってきた。住民が「反乱」をおこして家を燃やしているといった写真や、クパン(西ティモールでオランダ領)で解放されたジャワ人の女性たちといった写真だ。こういうのをキャンベラの戦争博物館で見つけたということだった。 マリア・ド・セウ・フェデレルによると、アンドリューは1999年、ダーウィンの東ティモールサポートセンターのメンバーとなってからは、月々1000豪ドルをファリンティルに寄付していた。それは彼の受けていた報酬の8割にもなった。2004年1月には、被害者のためのトラウマ・ヒーリングに役立つ瞑想の講座をディリで行うつもりだった。それが実現しないまま、彼は逝ってしまった。
 冥福を祈りたい。


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