<和解>

受容真実和解委員会
「虐殺」についての公聴会

松野明久

 紛争中の人権侵害についての真実追求をひとつの任務としている、東ティモール受容真実和解委員会は、この11月、「虐殺」(massacre)をテーマに公聴会を開いた。友人や家族を殺された人、虐殺を生き延びた人の記憶は、長い時を経てなお鮮明であり、これを単なる過去とせず、正義(司法的対応)を求める声が多く聞かれた。


関心が高い「虐殺」

 虐殺についての公聴会は、1119-21日の3日間、委員会の本部の中庭の屋根付きオープン・スペースで行われた。このスペースは500人が収容可能で、公聴会は一般公開で行われる。しかし、ウイークデーの昼間に行われるので、仕事のある人はもちろん、学生ですら簡単に参加することはできない。そのため、無料の上、2度のおやつ・昼食(お弁当)付きになっている。虐殺についての公聴会は、3日間でのべ1200人ぐらいが参加しただろうと思われる。とくにサンタクルス虐殺の証言が行われた2日目は、500人分用意された昼食があっというまになくなり、500-600人が参加したと見ていいだろう。
 連日、政府高官、国会議員、国連司法関係者などが訪れた。日本の旭大使(正確にはまだcharge d'affaire)も2度、証言を聞きに訪れた。元刑務所である委員会本部の建物修復、こうした公聴会などの活動でにおいては日本政府の援助が大きな割合を占めている。また、公聴会はすべてテレビ、ラジオで生放送された。CNNのウェブ・ニュースでも証言の一部がニュースになった。

外国人証言者

 証言者は合計19人。そのうち外国人証言者が3人いた。 外国人証言者は、サンタクルス虐殺現場を撮影したドキュメンタリー・ジャーナリストのマックス・スタール(イギリス)、サンタクルス虐殺で殺されたただ一人の外国人だったオーストラリアの大学生カマル・バマダージュの母親ヘレン・トッド(ニュージーランド)、80年代末から90年代半ばにアムネスティ・インターナショナル国際事務局でインドネシア・東ティモール担当リサーチャーをつとめ、住民投票の際の国連東ティモール派遣団で政務官となり、現在カリフォルニア大学ロサンジェルス校教授をつとめるジェフリー・ロビンソン(カナダ)の3人。
 ちなみに、マックス・スタールは現在ユネスコの東ティモールフィルム・アーカイブ構築のプロジェクトを依頼され、ディリに数ヶ月間滞在している。完成すれば、東ティモール各地の様子や歴史的映像を瞬時に呼び出して閲覧できるシステムができ上がるそうだ。マックス・スタールは東ティモール人にとっては英雄も同然で、現地新聞の1112日(サンタクルス記念日)版には彼のことが大きく取り上げられていた。われわれのような外国人は彼の話を何度も聞いているが、東ティモール人はサンタクルス墓地で逃げ惑う若者たちの映像を見たことがない人も多い。彼が証言をした時、会場はあふれんばかりの聴衆で埋まった。
 ヘレン・トッドは、スアイでコミュニティ開発のNGOに関わっている。殺されたカマルの日記はその後本として出版され、彼がひとりのアジア系の青年としてインドネシアの民主化運動や東ティモールの解放に強い関心を寄せていたことが読み取れる。おそらくそんな息子の遺志を継ぐ気持ちからか、彼女自身、東ティモールでの仕事を引き受けてスアイに滞在している。彼女が仕事をしているNGOは、PKFに参加し国境での銃撃戦で殺害されたニュージーランド兵、レオナード・マニング兵士にちなんでつくられたものだという。
 ジェフリー・ロビンソンは、アムネスティのリサーチャーとしてサンタクルス虐殺を担当し、住民投票の際政治状況分析の専門家として仕事をし、人道に対する罪に関するインドネシア軍・民兵の組織的関与について内部レポートを国連から依頼されるなど、東ティモールとは関係が深い。学界では、1965年のインドネシアにおける大虐殺(いわゆる9月30日事件以後のスハルト少将率いる国軍による共産党員及びその支援者に対する大量殺害。犠牲者は50万とも100万とも言われる)について、とくに虐殺が激しかったとされるバリ島をフィールドに、インドネシア共和国史の流れの中でこの政治的暴力の爆発を記述した博士論文で知られる(すでに出版)。言ってみれば、虐殺とずっと向き合ってきた学者だ。

公聴会はどう行われるのか

 公聴会は今まで「政治囚」(20032月)、「女性」(4月)、「強制移動と飢餓」(7月)について行われ、「虐殺」は4つ目になる。今後、「政治的対立 1974-1976年」(12月頃)、「子ども」(20042月頃)、「国際的アクター」(3月頃)の3つが用意されている。公聴会は、7人のナショナル・コミッショナー(委員)が証言を直接聞き、質疑応答を行うという形式で行われる。内容はテレビ、ラジオで生放送される。目的は証言の聞き取りと質疑応答を通じて真実を追求する、犠牲者・被害者をいたわり彼らの苦悩を認知する、人権侵害の実態を広く国民と分かち合い再発防止を確認するなどで、そのため部局を越え委員会全体として取り組んでいる。
 真実追求部調査班の虐殺担当者はこの1年あまり虐殺についての調査を行ってきた。真実追求部には車が1台しかなく、なかなか地方調査ができない中で、各地を訪ね歩き、生き残り証言者の話を聞いた。その人たちの中から公聴会のために16人の証言者が選ばれた。彼らの証言は通常テトゥン語で聞き取られ、テープおこしがなされ、要約がインドネシア語、英語、テトゥン語でつくられ、公聴会で事前に配付される。
 公聴会は調査班の調査結果を公表する場ではない。調査結果は200410月に大統領に提出される最終報告書ではじめて明らかにされることになっている。 関与した人物の特定など厳密さを要求される難しい問題をかかえているため、「この虐殺はこういう事件だった」という程度の背景解説を含め、一切途中報告はしないのだ。公聴会はあくまで証言者の話で構成される。
 ただ、一般参加者は公聴会を委員会が行う外向け企画とみるので、事件についてまったく解説をしないのは「わかりにくい」との批判もあった。サンタクルス虐殺ぐらいなら誰でも知っている。しかし、今回証言が出た多くの虐殺は、東ティモール人でも知らないものだった。

「虐殺」について

 虐殺という言葉はかなりインパクトがある。しかし、これは国際法や人権分野では定義のない用語だ。通常は超法規的処刑に分類される「殺人」であり、殺人は一人殺せばひとつの罪にカウントされ、複数の人を殺せばそれが加算されていく。どこかで線引きがあるわけではない。通常のことばとしての虐殺は「むごい方法の殺人」を意味し、またしばしば「大量殺人」を意味することもある。
 東ティモールの委員会では、グアテマラの真実和解委員会の定義を借用して「5人以上が同じ場所、同じ時に殺された出来事」を虐殺としている。「同じ場所、同じ時」は解釈の仕方で多少の広がりをもつことがあるが、それらの殺人が「ひとつの出来事」の範囲内にあることが要件となる。
 これまでに出版された本や報告書から事件を抜き出すと、東ティモールでの虐殺(5人以上殺害)の数はゆうに100件をこえる。しかし、これらの記述はサンタクルス虐殺を除けばほとんどが伝聞情報によるもので、委員会はできるだけ生き残りを含む目撃証言者を探すようつとめている。
 虐殺を行ったのはティモール民主同盟(UDT)、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)およびファリンティル(東ティモール民族解放軍)、そしてインドネシア軍およびその司令下にある民兵組織で、時々、東ティモール人の県長・郡長といった文民公務員が関与している。数と規模ではインドネシア軍によるものが一番多いと推測できる。しかし、UDTとフレテリンの対立(1975年)という局面での双方による虐殺、フレテリンおよび独立派による東ティモール人のインドネシア協力者に対する虐殺、フレテリンの内部粛正の過程での虐殺、東ティモール人民兵による虐殺など、文脈は異なるが、東ティモール人が東ティモール人を虐殺した事例も少なくない。東ティモール人の「国民和解」を考えるとき、むしろこうした事例の方が意味が重い。
 もちろん、東ティモール人同士の人権侵害は、インドネシアの介入・侵攻・占領といった大状況を背景としてもっており、東ティモール人が加害者にさせられていった側面を無視することはできない。
 以下、いくつかの証言をひろってみよう。

サメのフレテリン活動家虐殺

 東ティモールでは一般に「サメUNETIM殺害事件」として知られている。UNETIM(フレテリン系学生団体)の書記長をしていたドミンゴス・ロバト(現在のロジェリオ・ロバト内相の弟)をはじめとする5人のUNETIM活動家と5人のフレテリン地方幹部の合計10人が、1975年8月28日未明、マヌファヒ県アラス郡マハキダン村で、UDTによって殺害された事件だ。一説には犠牲者は11人だが、遺体が10人しか確認されていない。
 ロバト家は、ニコラウ・ロバトがフレテリンの指導者として戦死し、その妻がインドネシア軍に侵攻の際殺害され、弟のドミンゴスがサメで殺されるなど、悲劇の一家として名高い。
 ジョゼ・マリアは、証言したイリディオ・マリア・デ・ジェススの父親でアラス郡のフレテリン代表をつとめ、殺された10人のひとりだ。UDTは8月27日にジョゼ・マリアを逮捕。イリディオを含む一家は山に避難した。その4日後、ファリンティルがメティ・オアンというところの海浜に11個の遺体を発見したと一家に伝えた。一家は海浜に行って父親の遺体を発見した。ジョゼ・マリアは腹部を銃で撃たれており、はみだした腸が手に巻き付いていた、とイリディオは語った。また、ドミンゴス・ロバトの手は切り取られていた。
 ジョゼ・マリアを連行したグループの指導的立場の人間に外国人(ポルトガル人)が含まれていた。また、ジョゼ・マリアを逮捕した3人の東ティモール人は現在まだ生きている。
 事件の背景は、1975年8月11日にディリでクーデター(反共主義を掲げ、植民地政庁に対して政権内左派将校とフレテリン左派の追放を要求した)を起こしたUDTが、マヌファヒ県で事件を起こしたというものだ。UDTの主要メンバーがディリからやってきて事件に関与したとも言われている。UDTのクーデター(UDTによれば「運動」)は全国展開したが、暴力の程度には地方差があり、ひどいところでは虐殺、殺人が発生したが、フレテリン幹部を一時的に拘束しただけのところもあった。
 UDTがクーデターをおこした理由に、インドネシアの圧力があったとUDT幹部は述べている。7月末から8月初めにかけてインドネシアを訪問したUDT幹部は、インドネシア軍指導者からフレテリンが政権をとったらインドネシアは行動すると脅された、独立を確保するために行動をおこしたと弁明している。

フレテリンによる一族虐殺

 アンジェロ・アラウジョ・フェルナンデスは、彼以外の家族全員、一族の多くを含む37人の虐殺について語った。1976年、インドネシア軍がラオテン県に迫っていた頃、ロスパロス郡ソウロ村イリマイ部落に住んでいた彼の家族の元に、フレテリン数名がやってきて、父親と兄弟2人を連行していった。
 インドネシア軍が町に近づいてきたというニュースに、フレテリンは彼の一家を別のロレIという村に移した。しかし、その村での2日目、フレテリンは彼の一家を崖っぷちで射殺しようとした。彼は兄と縄でつながれていたが、撃たれた兄が3、4メートル吹っ飛んだため、自分も吹っ飛び、がけにおちて縄が切れ、そのまま川を越えて逃げおおせたという。彼は翌日インドネシア軍に保護を求め、助けられた。彼によれば、その後フレテリンは彼の村に行って彼の一家と一族を虐殺した。子どもや妊娠した女性も含まれていた。
 彼は、今もってなぜ彼の家族がターゲットになったかわからない、と語っている。ただ、当時、フレテリンはインドネシア軍はおろか、インドネシア支配下にいる親戚や知人とコミュニケーションをはかるだけで、裏切り者とみなし、その人を捕らえたり、拷問したり、場合によっては殺害したりした。彼の家族の場合もそういうことだったのか、あるいは一家がUDTやアポデティでもともとフレテリンと敵対していたのか、詳しい事情はわからない。

アイレウの虐殺

 197512月末、インドネシア軍の侵攻後、フレテリンがアイレウ県の数ヶ所で捕虜にしていたUDTやアポデティの党員を多数処刑したことは、すでに知られている事実だ。フレテリンによる捕虜処刑はサメでも1976年に行われている。
 フレテリンは、解放闘争の暗黒面であるアイレウの処刑を正面から論じたことはない。インドネシアはフレテリンの残虐行為の象徴としてこの事件をとりあげてきたが、だからといって事実を究明したかというと、そうでもない。
 アレシャンドレ・ダ・コスタ・アラウジョは、今では耳の遠いかなりな老人で、証言もぼそぼそと語ったが、その内容は歴史的なものだった。
 アイレウ県サボリア村に住んでいたアレシャンドレはUDTの党戦士(パルチザン)で、フレテリンのカウンター・クーデターの後、フレテリンに拘束され、フレテリンの拠点があった近くのアイシリモウで懲罰としての労働に従事させられたあと、釈放された。しかし、自宅にいた時にフレテリンから呼び出され、夜中の処刑の手伝いをさせられた。
 フレテリン(実際にはファリンティル)の監獄警備兵は、10人の囚人を車から降ろすと、祈りの時間を与えた。10人のうち2人はアレシャドンレの知っている人だった。祈りが終わって警備兵が合図の発砲を行うと、他の兵士が一斉に発砲し、10メートルほどしか離れていなかった10人の囚人はその場で死亡した。警備兵はアレシャドレに地元の住民を集めてくるよう命じた。地元住民が来た後で、警備兵とアレシャドレは帰宅した。
 しかし、これが終わりではなかった。アレシャドレはある夜、100人の囚人がアイレウの監獄から連れ出され、マヌフニフンというところに連行されたとの人の話を聞いた。この話でサボリア村の人たちはパニックになったという。それで彼を含む何人かの村人がこっそりとその場所へ行ってみた。場所は川を越えてのぼったところにある。彼らは隠れて遠くから様子をうかがった。車が何台か止まっており、囚人たちが集まっていた。発砲は15分間ほど続き、人びとの叫び声が聞こえた。叫び声が静まると同時に、彼らは村に戻った。殺された人の数を160人と言う人もいれば、90人と言う人もいる。彼ははっきりとはわからないと言った。

インドネシア軍によるディリ侵攻時の虐殺

 フェリスミナ・ドス・サントス・コンセイサォンは、インドネシア軍がディリ侵攻をした時、まだ子どもだった。ディリのビラ・ベルデ地区に住んでいた一家は、UDTのクーデターの際、近くの社会事務所(福祉を扱う植民地政庁の事務所)に避難した。今では東ティモール大学のカイコリ・キャンパスとなっているところだ(インドネシア時代の東ティモール大学キャンパスで、現在PKF「オブリガード・バラック」の隣)。
 侵攻後まもなく、インドネシア軍は彼女たちの避難していた社会事務所にやってきて、男性と女性を分け、男性だけを連行していった。その中に彼女の父親と兄が含まれていた。その後発砲音がして、それはかなり長く続いた。様子を見に行った人から、連行された男性たちが殺されたと聞いて、フェリスミナたちはそちらに向かって歩き出した。すると彼女の父親が血だらけになって歩いていた。彼女はすぐに父親の体がけがをしていないかどうか、さわって調べた。父親は、これは自分の血ではない、おまえの兄貴の血だといった。「あいつは撃たれて、水をほしがっている」と父親は言った。
 彼女は兄のところへ行って、兄の頭をひざにのせ、口に水を注いだ。彼女は自分のひざが濡れるのに気づいた。兄ののどはけがのため裂けていて、口に注いだ水はそこからこぼれていたのだ。あたりを見ると人の頭がころがっていたり、人間の肉が木や鉄線にこびりついているのが見えた。
 他の家族もこの虐殺の現場にかけつけてきたが、インドネシア軍はそこに発砲してきた。人びとはすぐにその場から逃げた。彼女は、銃剣が突き刺さったままのアラブ系と思われる人の死体が排水溝にあるのを見た。
 インドネシア軍は女性を一人連行していった。2日後に戻された彼女はひどい状態で、その後、彼女はひとりの赤ちゃんを産んだ。その後もインドネシア軍は女性を求めてやってきたため、彼女たちはいつも浴室(兼トイレ)に隠れていた。彼女たちはディリ市内を難民となって転々とし、ビラ・ベルデの自宅に戻れたのは、だいぶたってからだった。

刺され生き埋めにされた夫

 虐殺の話はどれもこれも悲惨だが、途中からずっと涙を流しながら語ったマリアナ・マルケスの話に、胸をしめつけられるような思いだったのは、私だけではないだろう。また、彼女が今もって夫を殺した人たちと同じ村に住んでいるという重い現実に、どう言葉をかけていいのかすらわからなかった。
 彼女の夫、アンジェロ・ダ・コスタはフレテリンのラオテン県ムアピティネ村の代表者をつとめていたが、198311月にインドネシア軍に逮捕された。彼の他にも、前後で7名程が同じ村で逮捕されている。
 1983年という年は、3月にフレテリンとインドネシア軍の停戦が成立し、一時平和的なムードが全土に出現したが、8月にはビケケのクララスでインドネシア軍司令下の民兵組織(ハンシップ)が反乱をおこし、報復としてインドネシア軍が住民を虐殺したことで(クララスの虐殺)、停戦が破綻するという経過をとった年だ。停戦中にフレテリン関係者は、いわばカミング・アウトしており、停戦破綻後、インドネシア軍は彼らの摘発に乗り出した。ムアピティネの事件も、こうした文脈でおきたものではないかと考えられる。
 12月7日、村長は、翌日インドネシア軍司令官が村に来ることを発表した。人びとは、拘束された者たちが釈放されると予想して、朝6時に村役場に集まり、司令官が到着したときにはダンスを踊って歓迎した。司令官は、県長と5人の囚人をともなって到着した。その一人が彼女の夫だ。
 司令官と県長は、5個のコップにヤシ酒を注ぎ、5人の囚人に飲ませた。そして司令官は立ち上がって、これから5人は罪を犯したことを悔やんで自殺する、と発表した。その後、村長が前に呼ばれ、アンジェロ・ダ・コスタを刺すよう命じられた。村長はアンジェロに向かって「アンジェロ、頭を上げろ。おまえの咽を切るから」と言った。アンジェロが頭を上げると、村長は銃剣で彼の首に斬りつけた。アンジェロは倒れたが、まだ息をしていた。そして、次にリノ・シャビエルが呼ばれた。村長が山刀で彼に斬りかかろうとした時、彼は一斬りで死ぬよう頼んだ。村長はリノの胸に山刀をふりおろした。しかし、リノはすぐには死ななかった。村長は人びとにリノを切り刻むよう命令し、人びとはそれに従った。
 それからさらに3人が公開で処刑された。アンジェロはまだ死ななかったので、県軍司令部の民兵(ハンシップ)に彼を突き刺すよう命令した。ハンシップは彼を9回刺したが、それでも彼は死ななかった。県長はそれぞれを出身の部落に返し、埋めるよう命令した。
 プアケル部落に戻されたアンジェロは、それでも死ななかった。軍ポストの兵士が県長に電話をすると、県長は生きていても埋めろと命令したという。結局、アンジェロは生きたまま埋められることになった。穴に入れられたアンジェロは、妻のマリアナに手を差し伸べ、「手にキスをしてくれ。二人の子どもの世話をちゃんとしてくれ。子孫がいないのはいやだから」と言った。マリアナは彼に近づいて手にキスをした。その後、614大隊の兵士が彼女を引き離し、その日の午後6時きっかりに、アンジェロは生きたまま埋められてしまった。

クララス虐殺

 クララス虐殺は、1999年の諸事件を別にすれば、おそらくサンタクルス虐殺の次ぎぐらいに有名な虐殺事件ではないかと思われる。ただ、1983年という閉鎖された時代、ビケケという奥地ゆえに、ほとんど情報が伝わっていなかった。私自身も、リスボンの難民から伝聞情報として聞いたぐらいだ。住民投票後、自由になった東ティモールで、クララスの虐殺を生き延びた住民が語るようになり、虐殺の記念行事を行ったりしたことで、マスコミの取材もなされるようになった。また、国連暫定行政下では文民警察による事件の調査も行われている。
 当時のクララスの人びとは、その後強制移動の対象となり、現在住んでいるところは事件のおきたクララスではなくて、ビビレオ村のラレレク・ムティンという部落だ。
 証言者ジョゼ・ゴメスによれば、1983年8月8日、ファリンティルとインドネシア軍民兵(ハンシップ)、住民が一緒になってクララスに駐屯する施設部隊を襲撃し、 14名を殺害した。この反乱の背景を彼は詳しくは知らないが、施設部隊のインドネシア人兵士たちはハンシップの妻たちに性的ハラスメントを行ったこと、別なインドネシア軍部隊によって7人のファリンティル兵士が殺害されるという事件があったことが、関係しているようだと語った。
 翌日、インドネシア軍はクララス村がからっぽになっていることを発見し(住民はみな報復を予測して山に逃げていた)、住民に帰還を命令した。戻った住民の50人ぐらいが殺された。また、9月にはブイカレン村に入れられた人びとのうち100人ぐらいが殺された。さらに、ラレレク・ムティンに強制移動させられた人びとのうち17人が殺された。そして1984年の5月か6月、少なくとも8人が県軍司令部に呼び出されて殺された。
 ジョゼ・ゴメスはクララスの反乱後山に逃げ、1984年2月23日にインドネア軍に投降した。したがって、かなりな部分が伝聞情報ということになる。

サンタクルス墓地で耳を切られた

 シンプリシオ・セレスティノ・デ・デウスは、19911112日、多くの若者たちと一緒にサンタクルス墓地での独立要求行動に参加した。墓地の塀に若者たちが上がり、横断幕を広げたりしてまもなく、インドネシア軍による発砲が始まった。彼は、シコ・ビナラガというニックネームで知られるスポーツ選手がまず銃弾に倒れるのを見た。誰もが墓地の中に逃げ込んだ。
 彼は303大隊のメンバーにつかまり、耳を切られた。しかし、全部は切れず、次にやってきた警官に耳を切り落とされた。そんな中、ある軍人が彼について「そいつは殺すな。司令官が必要としている」と叫んでいるのを聞いた。彼はトラックに入れられ、病院に連れて行かれた。トラックには50-60人がいたが、生き残りは彼しかいないと彼は思っている。
 彼は9日間病院で治療を受け、警察に移されて90日を過ごした。それからロスパロスに駐屯する511大隊預かりの「囚人」となり、その後、陸軍戦略予備軍空挺部隊に預けられた。1993年にロスパロスで釈放された。
 シンプリシオの耳を切り取られた話は、インドネシアの小説家セノ・グミラ・アジダルマの短編小説「耳」を思い出させる。「耳」は東ティモールを題材としたブラック・ユーモア的小説で、戦地に兵士として赴いた恋人が切り取った敵の耳を送り届け、それを部屋に飾って自慢する女性の話だ。フィクションとは言え、「耳を切る」ということがそれほどあったことなのだろうか、と思わせる。
 シンプリシオはサンタクルス世代というものがあるとしたら、その代表選手だろう。「私は犠牲者だと自分を思っていない。私はあのとき闘っていた。死んでもいいと思っていた」ということばは、彼らに共通する思いなのだ。同じデモに参加し、今はもういい大人になっている仲間たちが職場から公聴会の会場にかけつけ、「応援団」を構成していた。また、彼は証言だけでなく、今の東ティモールの現状についてもおおいに注文をつけ、拍手喝采を受けていた。体をはって、命をかけて闘った若者世代として、指導者たちにいいたいことがいろいろあるようだ。軍は政治に口を出してはいけない、国内治安は警察が担当する、政治指導者はもっと国民のことを考えてほしい、などなど。
 シンプリシオの証言のあとは、マックス・スタールが映像をまじえながら話をした。話はすでに繰り返しなされてきた内容なのでここでは述べないが、第二の虐殺にフォーカスがあった。第二の虐殺(陸軍病院での薬殺など)については、1994年のジョアォン・ディアス、アビアノ・ファリア以降、証言者が出ていない。しかし、マックスはこれを追いかけているようだ。話の中に、日本の国会議員が1994年東ティモールを訪問し、陸軍病院を訪れ、ジョアォン・ディアスの証言について病院長に問いただしたことが出てきた。マックスは1994年日本に呼ばれ、NHKの番組にも参加しているので、この辺の経緯はよく知っている。

国際法廷を求める声

 3日間続いた公聴会の最後を飾ったのはジェフリー・ロビンソンだ。虐殺を含むインドネシア軍の組織的な人権侵害についての考察を行ったあと、国際法廷を呼びかけた。しかも、1999年の騒乱関係だけではなく、1975年にさかのぼっての裁判が必要だと明言した。会場の何ヶ所から拍手が上がった。
 その後、会場からの質問が受け付けられたが、やはり国際法廷の可能性についてのものが目立った。東ティモール人としては国際法廷はやってほしいが、インドネシア政府との関係を考えると要求できない政府の立場があり、また国際社会の政治的意思がない状況で、東ティモール人だけでできることでもないという思いがある。東ティモール人国会議員がまず先頭にたって質問したのはこのことだった。それに対するジェフの答えは、独立も昔は夢と言われた、国際法廷もそれを信じなければ実現しない、というもの。
 このジェフの答えを東ティモール人がどう受け止めたのかは、わからない。ジェフにしても今、これ以上の答えは、しようと思ってもないのかも知れない。ただ、虐殺の話をたくさん聞いたあと、少なくとも、これをこのまま何の対応もなく過去としてしないでほしいという証言者たちのメッセージは、聴衆の心に確実に残ったのではないかと思う。


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