<子ども>

東ティモールの孤児調査

文珠幹夫

 既に、6号で東ティモールの孤児の予備的な心理調査の報告を行った。また9号で UNICEFの報告と現地調査をまとめた報告を行った。今回はその後の調査の継続状況について報告を行う。心理調査の結果については別に改めて発表する事になる。


 24年間のインドネシアの軍事支配はあまりにも残虐であったため、東ティモールの人々に大きな犠牲を強いた。東ティモールで生活している人々(や亡命せざるを得なかった人も)の受けた身体的、精神的な傷は大きい。特に1999年8月30日に行われた「住民投票」前後の殺戮・破壊・強制連行は人々の心に大きなダメージを与えた。そのためか、現在、東ティモールではドメスティック・バイオレンス(DV)対策が政府の重要政策の一つとなっている。子供、特に親を亡くしたり、親から見放された子供たちの心の傷は大人以上に深刻であると思われる。いずれ子供達は親になり、子供をもうけ新しい家庭を作ることになる。その時、心に受けた傷が負の遺産としてDVや子供への虐待へと繋がらないか危惧の念をいだく。
 2001年に、子供たちの心理状態の予備調査を始めた。主としてバウムテスト(注1)を行った。孤児と(比較のために)両親のいる子供に行った。孤児院3カ所とストリートチルドレン・シェルターの協力を得、約120名の子供たちにテストを受けてもらった。さらに、2003年から、HTPテスト(注2)を行った。これには上述の孤児院の内2カ所とストリートチルドレン・シェルター、さらにもう2カ所の孤児院の協力を得た。このときには通訳を介しながら子供たちが描いた絵の内容について質問に答えてもらった。バウムテストと一部重複するが約130名の子供たちが協力してくれた。また、孤児院の院長や職員に子供達のことや来所理由になどを調査票に記入してもらった(一部は次回訪問時に受け取り)。ここでは、院長や職員からの聞き取りと、調査票に基づいて孤児たちの状況をお知らせしたい。なお、今までに見学も含め訪問した施設の数は10カ所である。 今回の調査票に協力してもらった孤児院は、ディリのFaundasaun Hadomi Timor Oan 孤児院(以下FHTO)、PRR孤児院(以下PRR)、St.Clara孤児院(以下ST)である。これらの孤児院は、1999年の「住民投票」後の騒乱の後、設立されている。

孤児院の概観

 孤児院の状況を概観してみよう。多くの孤児院はカトリック系の修道会などが運営している。一部は医療施設や幼稚園も併設している。インドネシア支配時代に地下活動などを担った元留学生や元学生たちが運営している孤児院もある。ディリ市内に比べると地方における孤児院は、孤児の数が多い。ディリ市内の孤児院は15名〜25名程度の子供たちを預かっているが、地方では50名〜120名である。預かっている子供の年齢は1才から18才くらいまで。多くの孤児院では18才になると自立するようにさせている。孤児やストリートチルドレンを世話している職員は、修道会系はカトリックのシスターとその見習いの若い女性や神父と助祭であり、それ以外では、他に仕事を持ちながらボランティアで活動している人々である。20、30才台の人がほとんどである。専門的な教育やトレーニングを受けた人は少ない。また、子供の数に対し職員の数は少ない。子供の少ない孤児院で職員1人あたり5名〜8名の子供の面倒を見ている。子供の多いところでは15名〜30名の面倒を見ている。食事の用意や後かたづけ洗濯は職員と共に子供たちが行っている。また、幼児の世話も年かさの子供がよく面倒を見ている。一般的に、東ティモールでは子供が家のお手伝いをするのは日常的な風景であることは申し添えておきたい。
 経費は何処も基本的に自前である。政府から援助を受けている孤児院は無かった。修道会系の孤児院では同じ修道会などからの寄付を得ているようであるがそれほど多いわけではない。1999年の大規模な破壊を受けた後、国際機関や国際NGOから建物の修復などの支援を受けていた。食料はWFPから支援を受けていた。しかし、こういった支援は一時的か2002年5月の独立式典くらいまでの期間の限られたものであったようだ。その後支援の延長があったかは調査していないので不明である。多くの孤児院は寄付などを集めるのに苦労していると思われる。特に、地方にある孤児院は大変なようである。最低限の食料の確保にどの孤児院も苦労している。動物性タンパク質の食事が出ることはほとんど無い。子供の成長を心配する声を院長や職員から聞かされた。衣服はTシャツ程度で過ごせる国であるが、洗濯されているもののかなり着古した服装をしている。子供の就学に関して、地方の孤児院は子供が多い分苦労している。特に高校へはほんの一部の子供しか進学できていない。
 職員の能力とやる気の問題は、孤児院などの経営や子供たちに大きな影響を与えているように思える。上述の孤児院では躾は厳しいものの職員と子供の距離が近く子供たちへの世話が行き届いているように思えた。中でもFHTOはよくやっている印象を受けた。初めて訪れたときに比べ、訪問する毎に設備が改善されているのがよくわかる。寄付集めなどもこまめに色々な所に「お願い」に行き、小口の寄付や資材をもらい受けている。建物の修繕も自前で行っている。日本のNGOなど見習うべきものがある。しかし、ある孤児院では院長にストレスが溜まり気力が萎えているのか、状態が改善されない孤児院もある。そこでは孤児たちの表情があまりに暗く笑い声も無く子供の持つ活気が感じられなかった。訪問時、心理調査の話を持ちかけたが断られた。見学はさせてもらったが、子供たちに近づくと後ずさりし、話しかけても無言であった。建物や設備は「住民投票」後に破壊され、その後応急修理はされたものの荒れるに任せた状況であった。

子供たちの来所理由

 上記3つの孤児院の調査から、親の状況は、両親を亡くした23%、父親を亡くした(母親生存)45%、母親を亡くした(父親生存)20%、両親生存8%、不明4%である。親の死んだ理由に関し、FHTOでは父親の死亡理由の54%が1999年の「住民投票」前後にインドネシア軍によって殺されている。13%は1998年以前にインドネシア軍によって拷問などを受け殺害されている。不明が33%である。母親の死亡理由は夫がファリンティルのメンバーであったことなどからインドネシア軍に殺されたのは22%であり、病死が11%。不明が67%である。PRRでは、父親の死亡理由は「住民投票」前にインドネシア軍に殺された1名以外、病死である。母親は全員病死である。STでは、父親の死亡理由は「住民投票」後にインドネシア軍に殺されたのが1名。犯罪に巻き込まれて死亡したのが1名。他は病死である。母親の死亡理由は全員が病死である。
 子どもの出身地も、FHTOでは東のロスパロスが目立つが南のスアイやアイナロからも来ている。PRRではアイレウ出身者が目立つ。STではビケケ出身者が目立つ。 孤児院によって子供の来所理由や出身地に偏りが見られる。本格的に聞き取りはしていないが、ある地方の孤児院では、ファリンティルのメンバーでインドネシア軍との戦闘などで死亡した父親を持つ子供が多いと聞いている。
 両親あるいは片親の死亡により貧困に陥った家庭がほとんどである。また、父親が死亡した後、母親が無気力になり子供の面倒を見られなくなった家庭もある。STでは、子供を引き取ったとき、ほとんどの子供が栄養失調であったと記されている。さらに複数の病気にかかっていた子供もいたとのことである。
 全体の15%の子供が養育拒否などの虐待を受けている。

子供たちの健康状態

 複数の健康指標の記入をお願いしたが、測定機器が無いためか身長と体重のみの記入が多かった。身長に関して、同年代の日本の子供に比べ2〜3才小さい。体重に至っては3〜4才小さい子供と同じである。東ティモール人は小柄な人が多い。町中で子供を見ても2才ほど若く見えるように思える。それでも、孤児院の子供たちの発育状況は悪いと言わざるを得ない。特に体重の少なさは問題と思える。孤児院に来所する前の状況が酷かったと想像される。上述したように孤児院の食事も予算の関係で粗末である。育ち盛りに充分な食事、特にタンパク質の摂取が不足しているためと思われる。中には、14才で身長135cm体重25kg、12才で身長114cm体重22 kgの子供もいる。来所前、母親から虐待を受けたり、栄養失調と病気であったことが原因と思われる。

子供たちの就学状況

 3つの孤児院では全員が学校に通っている。院長や職員の努力がうかがえる。就学のさせ方も杓子定規では無い。年齢で学年を決めていない。来所前に就学できていなかった子供に対しては、その子供の学力に合わせて学年を選んで就学させている。13才や12才で小学3年生、16才で小学6年生の子供もいる。
 FHTOには一人大学生がいる。ファリンティルの両親をインドネシア軍に殺された後、インドネシア軍の「協力者」にさせられた。そのことを告白したことで地域社会におられず孤児院に来所した。現在は孤児院に暮らしながら、孤児院の修理を手伝っている。
 学費の問題もさることながら、どの孤児院も文房具の不足を嘆いていた。2000年にはUNICEFや国際NGOなどからノートや筆記具の援助を受けたが、最近それがなくなり、消耗品である文房具の補充に苦労しているとのことであった。

(注1)実のなる木を描かせ、その木の根、幹、葉の形状や実をどのようにつけているかから心理的な状況を探るテスト。
(注2)家、木、人を描かせ、それらの関係から心理的な状況を探るテスト。


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