<巻頭言>

1975年

 今日、11月28日は、東ティモール民主共和国の独立宣言記念日だ。国民の祝日となっている。しかし、行事はいくつかあるにせよ、国民全体が祝っているという熱狂的ムードはない。
 ひとつには、この日を独立宣言の日とすることが、国民的コンセンサスというよりも、分断的問題(dividing issue)だということがある。独立派は住民投票では8割弱をしめた。独立は国民の選択だった。
 しかし、11月28日の独立宣言を「自決権行使」とする見方には抵抗もみられる。国民の意思を選挙で確認せず、フレテリンというひとつの政党の指導者たちの判断を「国民を代表したもの」とするものだからだ。これに変わるものとしては、8月30日の住民投票の日、5月20日の正式独立の日が考えられる。
 フレテリンは当時東ティモールに機能していた唯一の政党であり、したがって人民の唯一正統な代表としての地位を事実上えていた。それは軍事的に獲得されたものだった。
 一国の独立宣言が、住民投票など民主的な手続きをへず行われることはめずらしくない。アジア・アフリカのほとんどの国がそうだ。また、1970年代ポルトガルからの独立を果たしたアフリカの国々について、ポルトガルは自分が軍事的に劣勢なところには独立をそのまま承認し、優勢なところには住民投票を課した。当時、住民投票は、ポルトガルの利権を少しでも多く残すための新植民地主義的手法とみなされていた。こうした歴史的文脈が、フレテリンが1975年当時住民投票に反対し、独立を投票に付すべきものでない自明の権利だと主張した背景にある。それが「即時独立」の意味だ。「即時」とはすなわち、住民の意思を確認せず、ということ。
 先日ある元統合派の指導者と話をしたら、フレテリンが憲法に11月28日を独立宣言の日として入れ込んだことは、彼らが自決権を尊重していなかったことのあらわれだ、と批判した。もちろん、統合派は自決権を尊重したのかと聞かれれば、まったく答えはノーなのだが。
 他方、UDT(ティモール民主同盟)はこの8月、1975年8月11日におこしたクーデターを「記念」する行事を行った。これは多くの人をあきれさせた。このUDTのクーデターが端緒となってその後事態が収拾されなくなり、インドネシアの軍事介入がエスカレートしたことを考えると、「記念」するような性格の歴史的事件ではない。UDTはこのクーデターを「運動」または「革命」と呼んでいる。反共運動、反共革命という意味だ。
 結局、1975年はいかにあったのか、いかにありえたのか、あるべきだったのか、というような歴史的な省察をきっちり行うのには、まだまだ時間がかかりそうだ。 一方、インドネシア政府は歴史教科書再編のための委員会を設置し、東ティモール侵攻の部分を書き換える動きを見せている。東ティモールでも歴史教科書の編纂は必要だが、東ティモールの歴史家が勇気を持って真実と思うところのものを書かなければならない。それは簡単ではない。(ま)


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