<追悼>

ステファニ・レナトさん逝去
アツサベの社会再建支援の道半ば、崖から車転落

文珠幹夫


 行動の人であり、不正義を憎み、困っている人を見捨てることのできない人あり、そして神父であったステファニ・レナト(ステファニが姓、レナトが名)さんが10月6日(月)に逝去された。運転していた車が崖から転落し、帰らぬ人となった。
 その日、学生寮建設作業員のためにトウモロコシ等の食料や資材をディリで購入、車に満杯の荷物を載せた。車には高校教師のジョアンさんが同乗していた。帰路、アッサベへ帰るルシアナさん母子とステファニさんのプロジェクト責任者で財務担当のカリストさんが同乗を依頼、断りきれずに乗せた。車には6人と300kgを超える荷物があった。東ティモールは雨期に入りかけていた。
 ディリから南西へ約50km、山岳地域のエルメラ県レテフォホ村を4、5キロ過ぎた山道、霧と雨の中、アスファルトがそこかしこ剥がれた荒れた道で、おそらく右後輪がパンク。右側の崖から約30m下に転落。ステファニさん、ルシアナさん、カリストさんの3人は即死であった。ジョアンさんとルシアナさんの子供(5才と、1才)は奇跡的にも軽傷ですんだ。ルシアナさん、カリストさんを善意で乗せてあげたのが仇となった。
 アツサベは重い空気に包まれていた。昨年からアツサベ支援をされている大阪そねざきロータリークラブの4名の方々と15日訪れた。メンバーの方が、事故の数日前に支援の内容についてステファニさんと話をしたばかりであった。事故死のニュースは東ティモール支援へ出発の6日前であった。
 アツサベ教会への途中にルシアナさんの家とカリストさんの家があった。手を合わせが残された家族のことを思うと胸が詰まった。
 建設なった独立記念館の近く、花で覆われたステファニさんの墓の周りには、多くの村人が沈痛な表情で立ちつくしていた。1年と9ヶ月、決して長くない時間にも関わらず、その存在と活動は大きいものであった。
 ステファニさんと東ティモールの関わりは、1986年に始まった。1991年11月12日、サンタクルス虐殺の現場を目撃。それを撮影したジャーナリスト、マックス・ストールさんからVTRテープを託され東ティモールを脱出。全世界にサンタクルス虐殺を知らしめた功績は大きい。アツサベとの関わりは1999年8月30日の「住民投票」選挙監視をしたことに始まる。「インドネシア支配の拒否」が圧倒的多数と発表された後、インドネシア軍と民兵による殺戮と破壊の中、9月5日東ティモールを離れざるを得なかった。私は、偶然トランジットのバリ空港で出会った。「アツサベの人を見捨た」のではないかという悔悟の念を話されていたのを思い出す。そのこともあってか、2001年1月に愛知県からアツサベに赴任。精力的に活動を始めた。独立記念館建設、学生寮建設、奨学金事業、小学校修理と机や椅子の調達、授産施設立ち上げ、水牛プロジェクト、少額融資のクレジットユニオン、道路の修復などそのプロジェクトの多彩さには驚かされる。ミサでもアツサベの人々に復興への心構えを説かれていたと言う。多くの日本の人々、団体が支援を申し出られたのも彼の熱意が伝わったからだ。
 ステファニさんは東ティモール支援以外にも多くの足跡を残した。名古屋NGOセンター「ステファニ・レナトさんの志を引き継ぐ会」資料などによると、「刈谷働く人の家」を設立、不登校の青年たちや労働者と共に歩み労働問題に関わる。在日外国人として指紋押捺を拒否。「ニカラグアに医療品を送る会」で活動。「名古屋第三世界交流センター(現、名古屋NGOセンター)」設立に関わり代表(理事長)を務める。97年に起こった日系ブラジル人少年エルクラノ君が日本人少年らに暴行・殺害された事件で被害者家族を支援。JANICの理事も務めた。また、カトリック青年労働者組織(JOC)の担当司祭も務めた92年には名古屋弁護士会から人権賞を授与されている。
 疾走し続けたステファニさんの志と「遺産」はアツサベの人々と日本の支援者の手に託された。


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