<和解>

受容真実和解委員会
強制移動と飢餓に関する公聴会

松野明久

東ティモールの受容真実和解委員会は、4月の「女性と紛争」公聴会に続き、7月28-29日に「強制移動と飢餓」に関する公聴会を開催した。1975年の侵攻以後、多くの住民が山へ避難し、深刻な食糧不足、医薬品不足におちいった。その結果、少なくとも数万人が死亡したと考えられる。証言者たちは当時の苦しみを、力をこめて語った。以下、配付資料からいくつかの話を取り上げる。


老人を置き去りにして逃げた

 ディリの学校に行っていたマリア・ダ・コスタは、休暇のためソイバダ(マナトゥトゥ県)に帰っていたときに、インドネシア軍の侵攻が始まった。インドネシア軍がソイバダに到達したのは1977年のことで、その時彼女は13才だった。ソイバダが攻撃されるとアラスへ移り、「支援と連帯委員会」をつくって避難民の支援を始めた。しかし、1978年になると包囲作戦が始まった。包囲作戦の方法は、海からの艦砲射撃、空からの爆撃の次に、野原が焼かれ、陸路インドネシア軍が包囲してくるというものだ。インドネシア軍はガソリンをまいて、野原を焼いた。多くの人が逃げられず死んだ。
 マリアのおばあさんは艦砲射撃で、焼け死んだ。おばあさんは水をくれと叫んでいた。髪の毛まで燃えていた。マリアは水を入れた容器を3つおばあさんの首にかけて、逃げた。途中、家族におきざりにされた老人を見た。まるでミサにでも出るときのように、伝統的な装飾品を身につけてただ坐っていた。マリアたちはただそれを見るだけで、何もできなかった。結局、マリアたちはインドネシア軍第700空挺部隊につかまった。

イリオマルの収容キャンプ

 フランシスコ・ピントは1978年11月末、マテビアン山の陥落とともにインドネシア軍に投降した。まずバギアの収容キャンプにいられれたが、インドネシア軍が帰郷を命じたため、彼は6000人の住民とともにイリオマル(ラオテン県)に帰った。イリオマルはまったくもぬけのからで、一人も住民が残っていなかった。
 最初は自由に暮らせたが、1978年12月28日、インドネシア軍の第328大隊がやってきて、その2日後に住民は収容キャンプから1km遠くへ以上行ってはならないと命じた。この命令によって、深刻な事態が発生した。
 彼らはイリオマル周辺のココナッツを食べ尽くし、以後、食糧がなくなった。そして一人、また一人と、収容キャンプの中で人が死んでいった。人びとはバナナの幹を皮をむいて煮て食べた。しかしバナナの幹は下痢を引き起こす。薬もないので、1日に5人から10人の割合で人が死んでいった。1週間で40-50人が死んだ。子どもだけではなく大人も死んだ。彼自身の計算によれば、1978年の飢餓でイリオマルでは200人ぐらいが死んだ。
 1979年になると、赤十字国際委員会の援助が入り始め、状況は幾分改善されたが、それでも子どもや老人はまだたくさん死んだ。
 インドネシア軍は1984年になって、遠くへ行くことの禁止を解いた。

性奴隷

 サメのロザリナ・ダ・コスタの夫は、ファリンティル兵士で森にいた。1981年、アントニオ・ダ・シルバ(リウライ)とベント・ドス・レイスが、彼女の夫に投降するよう呼びかける手紙を、森の中のどこかにおいてこいと命令した。二人はその後、彼女と彼女の義理の妹エルメネジルダ(トゥリスカイ出身)をとらえるよう、軍司令部に通報した。彼女たちは軍司令部に連行され、司令官のアスモウコリにレイプされた。エルメネジルダの夫も森にいた。彼女はすでに妊娠していた。
 その後、ハトゥ・ウドから連れてこられた2人の女性も彼女たちに加わった。そのうちの一人、ブイランテの夫も森にいた。エルメネジルドはマウビシに連れて行かれ、残った彼女たちは7ヶ月間、レイプされ続けた。その後、彼女はサメのKODIM(県軍司令部)に拘束されたが、そこではレイプはもはやされなかった。
 その後、彼女と2人の息子(6才と4才)はアタウロに送られ、4年7ヶ月を過ごした。

アタウロ収容島

 バウカウ県ケリカイのジョアナ・ペレイラは、1981年8月29日、ケリカイの軍司令部(Koramil)が「家族が森にいる者は、罰せられなければならない」と言って、とらえられた。ジョアナは13才、弟のマテウスは9才だった。彼らはアタウロ島に送られた。
 9月1日に島に到着。彼女は弟と分けられ、弟は22番の家に60人とともに住み、彼女は24番の家に70人とともに住むことになった。最初は食糧も与えられず、二人はケリカイから持ってきたものを食べた。一月後、とうもろこしを3缶与えられた。それは2週間に1回1世帯に与えられる援助だった。
 食糧不足のため、パパイヤやさつまいもの葉を地元住民からもらって食べた。蛇の毒にあたって死んだ人もいた。死んだ人の多くはロスパロスやビケケの人たちだった。1日2人から5人が死んだ。子どもや老人が多かった。ジョアナたちは1982年11月に釈放された。
 アイナロ県マウシガの人たちの話は、委員会の調査の中で注目を浴びたケースだった。1982年8月、ファリンティルは近隣の2つのインドネシア軍司令部を攻撃した。その報復としてマウシガの人たちは、逮捕、拷問、虐待などいろいろな人権侵害を経験した。ファリンティルの攻撃(住民とタイアップして蜂起する)に対する住民への報復、という人権侵害のパターンは1980年代前半に東ティモール各地にあったと考えられるが、マウシガはその典型だ。ただ、マウシガのケースはそれまであまりよそでは知られていなかった。
 アビリオ・ベロはマウシガの地下組織のメンバーで、1982年7月10日におこなった蜂起に関する地下会議の情報がもれて、逮捕され、拷問され、拘束された。その後、ファリンティルの軍司令部攻撃が8月20日におき、それに対する報復の嵐が吹き荒れた。
 アビリオは8月29日にディリに連れて行かれ、それからアタウロに送られた。アタウロでは、毎日1缶のとうもろこしが1世帯に与えられた。それは3ヶ月で終わったが、アイナロに戻ってからも、食糧不足は続き、子どもや老人が死んだ。


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