<新連載>

東ティモールにおける日本軍性奴隷制(第9回)

古沢希代子


■ラクルタへの道

 3月末、東ティモールを訪ねると、セリナさんはまだポルトガルから戻っていなかった。そこで、日本軍に殺害された19名の記念碑があるというラクルタにはセリナさんの娘夫婦と訪ねることになった。セリナさんはこの件を娘のエウジェーニアさんに託していた。
 さて、今回の調査には、レアオン・ペドロ・ドス・レイス・アマラルさんが、ご自身の強い希望で、同行した。レアオンさんの妻の父親、ルイス・ダ・フォンセカ・アマラルさんはこの19名のひとりである。エウジェーニアさんは調査の計画をたてる際にディリ在住の関係者と連絡を取ってくれたのだが、その結果、このレアオンさんと、セリナさんの父、マリアノさんのいとこにあたるフランシスコ・ドス・レイス・カルバーリョさんに出会うことができた。
 レアオンさんはポルトガル時代、東ティモールの製糸工場で事務員をしていた。日本軍が侵攻するとヴィケケ県のルカで日本軍の宣撫班とともに働き、鶏や米や野菜を人々に命じて集めた。しかし後に反日活動をしているという容疑で憲兵隊に捕まり、殴る蹴る、イスの脚で足指をつぶされるなどの拷問を受けた。捕まったのは全部で3回、最初は33日間、次は1ヶ月後の5日間、3度目は7日間拘留され、最後は「キタバヤシ」という宣撫班関係の将校の取りなしで釈放された。日本軍の慰安所について問うと、オッスのウエキランにあり、ルカからも女性が連れていかれたし、ジャワから連れてこられた女性もいたという。
 フランシスコさんはラクルタの記念碑の写真を携えてきた。記念碑は町から離れた場所にあること、道はあるが車が入れるような道ではなく、歩くか馬で行くしかないことなどおしえてくれた。
 ラクルタに行くには、バウカウからベニラレ、オッス、ヴィケケと一気に南下し、ヴィケケから西北の方角に戻ることになる。もしマテビアン山を南北に貫通するトンネルがあればマナトゥトの先から南海岸めざすと3分の2ほど下ったあたりになる。バウカウを通った時、2000年の「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」にVTR証言を提供してくれたエルメネジルドさんの話をすると、エウジェーニアさんたちは、エルメネジルドさんを知っていると言い、そしてエルメネジルドさんが今年亡くなったことをおしえてくれた。エルメネジルドさんは生前、日本政府による誠実な対応を心から望んでおられた。謝罪や賠償に関して何の進展もないことに恥じ入るばかりだ。バウカウにはエウジェーニアさんの兄がいる。私たちはこのお兄さんの家で車をとめ、ラクルタにいるセリナさんの叔父(セリナさんの父、マリアノさんの弟)でカテキストをしているエリアスさんの近況を確かめた。

ラクルタの記念碑

 オッスをすぎると道は下り坂となり、海が見えてくる。ヴィケケの町を過ぎると南岸のルカに到達する。ルカの町にはジェレミアス・ドス・レイス・アマラルの記念碑があった。ジェレミアスはルカのリウライだったが、ポルトガル人の反日分子や豪蘭軍を助けた容疑で日本軍に殺された。
 ラクルタに到着するとある建物の前に人が集まっていた。何か会合でもあるのかとたずねてみたら、彼らが待っていたのは私たち一行だった。その中にエリアスさんもいた。記念碑に刻まれた犠牲者の遺族の方たちもいた。電話も通じないところでなぜこのようなアレンジが可能になったのだろう。その秘密は、ディリで出会ったフランシスコさんにあった。フランシスコさんは、私と会うとすぐ、ディリにいるラクルタゆかりの人々と連絡を取り、便を探し、ヴィケケ経由でラクルタに伝令を飛ばしていた。思えば、フランシスコさんに出会えたのはエウジェーニアさんのおかげで、ラクルタでエリアスさんの他に遺族の方々と会えたのはフランシスコさんのおかげだ。こうした人たちの心遣いのおかげで私は遺族の方々からもお話を聞かせてもらうことができたのだ。
 まず、記念碑について。残念ながら今回記念碑を見に行くことは断念した。お前は馬に乗れるかときかれたがそれは無理だったし(試してみたい気持ちはあったが)、ある事情で翌日にはベニラレまで戻らなくてはならず、歩いて往復する時間はなかった。しかし、そういう道路事情をみこして、なんと、遺族のひとりであるヒポリト・カルバーリョさんが写真とそこに刻まれている文字の写しを用意していた。ヒポリトさんは現在ヴイケケに住んでいるが、フランシスコさんからの連絡を受け、ラクルタに来ていた。ヒポリトさんの記録によると、殺された人々の名前は以下である。当時ラリネ村の村長だったヒポリトさんの父、エステバオン・デ・カルバーリョさんの名前は3番目に出てくる。セリナさんの父、マリアノ・デ・カルバーリョさんは11番目である。
 
Mortos Pelo Invasor -1942-1945
Em Sua Memoria Portugal Reconhecido
1. Luis Fonseca Soares (Chefe Suco de Dilor)
2. Casmiro Fernandes de Carvalho (Chefe Suco de Uma-Tolu)
3. Estevao de Carvalho (Chefe Suco de Laline)
4. Alexandre de Carvalho (Chefe Suco de Dilor)
5. Afonso Fonseca Soares (Chefe Suco de Dilor)
6. Mateus de Carvalho (Chefe Suco de Uma-Toru)
7. Francisco Soares (Chefe Suco de Ahic)
8. Tai-Bere (Chefe Povoacao de Fatucado)
9. Gilberto Soares (Chefe Povoacao de Fahi-Lain)
10. Miranda Ximenes (Ajudante Chefe Suco de Dilor)
11. Mariano de Carvalho (Catequista)
12. Jose Lino Ferreira (Catequista)
13. Vital de Noronha (Principal de Dilor)
14. Feliciano Soares (Agricultor)
15. Francisco Soares (Cabo de Moradores)
16. Tomas Soares (Agricultor)
17. Cai-Modo (Agricultor)
18. Funo-Uai (Agricultor)
19. Esperanca Fonseca Soares (Principal de Dilor)

侵略者による死 1942年-1945年
ポルトガルは彼らを記憶し称える(仮訳)
1. ルイス・フォンセカ・ソアレス(ディロールの村長)
2. カシミロ・フェルナンデス・デ・カルバーリョ(ウマ・トルの村長)
3. エステバオン・デ・カルバーリョ(ラリネの村長)
4. アレサンドル・デ・カルバーリョ(ディロールの村長)
5. アフォンソ・フォンセカ・ソアレス(ディロールの村長)
6. マテウス・デ・カルバーリョ(ウマ・トルの村長)
7. フランシスコ・ソアレス(アヒクの村長)
8. タイ・ベレ(ファトゥカドの長)
9. ジルベルト・ソアレス(ファヒ・ラインの長)
10. ミランダ・シメネス (ディロールの村長のアシスタント)
11. マリアノ・デ・カルバーリョ(伝道師)
12. ジョゼ・リノ・フェレイラ(伝道師)
13. フィタル・デ・ノローニャ(ディロールの助役)
14. フェリシアノ・ソアレス(農民)
15. フランシスコ・ソアレス(マラドレスの隊長)
16. トマス・ソアレス(農民)
17. カイ・モド(農民)
18. フノ・ウアイ(農民)
19. エスペランサ・フォンセカ・ソアレス(ディロールの助役) 

 写真で確認したこの記念碑は畳数個分という大きなものだ。
 大切なことは、記念碑の下には犠牲者の墓があり、そこに19名の遺体が眠っていることだ。19名が殺された時期はまちまちである。セリナさんの父、マリアノさんのように比較的早い時期に殺された人もいれば終戦後の8月、9月に殺された人もいる。日本軍は彼らを殺害した後、遺体を家族に返さず埋めてしまったが、家族は日本軍の人夫をしていたティモール人から埋葬場所を聞き出し、戦後この場所に殺された人たちを合葬した。殺害された人は実際は20名だったが、本来なら20番目にならぶはずのモイゼス・フォンセカ・ソアレスさんの遺体は見つからず合葬することはできなかった。
 記念碑が建った経緯についてはレアオンさんが説明した。戦後ポルトガルの統治が復活すると、レアオンさんはポルトガルの公務員になった。レアオンさんはまずポルトガルの地方長官に記念碑建立の陳情をした。しかし叶わないので、1961年にポルトガル政庁に手紙を書いた。最終的に記念碑は1964年にポルトガル政庁によって建てられた。

殺された人々

 ヒポリトさんによると、殺害が行われた場所は、ウエ・ラミロとカイ・コビ・ラリ、そしてオッスの日本軍司令部だそうだ。こういう情報は、日本軍に協力したティモール人から関係者に伝わっている。例えば、マリアノさん殺害に直接手を下したのはティモール人だという。
 では、これらの人々がなぜ日本軍に捕らえられ殺害されたのか。この問いに対して確たる答えを持つ人はいなかった。日本軍は人々に理由を示して殺害したわけではないからだ。ただ、当時日本軍はティモール人が日本軍にはむかうポルトガル人や豪蘭軍を助けてはいないか目を光らせていたので、そういう疑いをかけられたことが原因ではないかという。
 ではこれらの人々は思想的に「反日」で「親連合軍」であったのか。今の段階では確証はないが、人々の話しは外国人どうしの戦場にされた国の人々のひとつの悲劇を示唆するようである。
 例えばマリアノさんは何か組織的に「反日」の活動をしていたのだろうか。エリアスさん(殺害の現場は目撃していなかったことが判明)は当時マリアノさんといっしょに住んでいたが、少なくとも自分はそれは知らないと言う。しかし当時カテキストだったマリアノさんのように「読み書きできるティモール人」は日本軍に目をつけられていた。連合軍への情報提供者になるおそれがあると考えられていたからだろう。私たちの会合でエリアスさんの近くに座っていたある村人によれば、ある日、日本軍はマリアノさんの家で白人の髪の毛を発見し、それを証拠にマリアノさんを逮捕したのだという。つまり、マリアノさんは白人を家にかくまい、その白人の散髪をしてあげたと日本軍はとった。しかし、と人々は口々に言う。もしそういうことがあったとしてもそれは「困っている人を捨ててはおけない」という気持ちからの行為であり、自分たちはそういう人と出会ったらそれがどちらの側の人であってもそうするのが当然なのだと。マリアノさんの死後、妻のエルダさんが日本軍に連れ去られたことは集まった人たちみんなが知っていた。
 一方、ヒポリトさんの父であるエステバオン・デ・カルバーリョは、ラリネの村長として日本軍に協力したという。しかし、エステバオンさんは1945年の8月に殺されている。この殺害は何のためだったのか。父は最後まで敵性ポルトガル人や豪軍との関係を疑われたのか、日本軍は父を村長として利用した後で制裁を加えたということなのか、真の理由はヒポリトさんにもわからない。日本軍はエステバオンさんを捕えた後、エステバオンさんの家を焼き払った。
 しかし人々は「日本軍には良い人もいた」ことを忘れない。戦後50年以上が経過した今でも、良い人だった「タナベ」「ササキ」「ヤマシタ」の名前を憶えている。一方、日本の旧軍関係の方たちは自分たちがした「良いこと」と「悪いこと」をきちんと仕分けすることができているだろうか。

レアオンさんが処刑されそこなった場所

 帰路でオッスを通った時、レアオンさんが墓地の先にある草地に案内してくれた。そこはレアオンさんがふたりの友人とともに日本軍によって処刑されそうになった場所だった。レアオンさんは潜行する反日のポルトガル軍人に食料を運んだ。そのことが日本軍のスパイに密告されたらしい。まず中国系のひとりが殺された。必死で助命嘆願するレアオンさんともうひとりの友人に「マスダ」中尉からの指令が届き、彼らは処刑を逃れることができた。
 今回、人々の話をきいているうちに、かつて岩村正八さんからうかがった捜索四十七連帯を中心としたポルトガル人ピレス中尉の捕獲作戦を思い出した。
 ラクルタに関する調査は続く。★


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