<和解>

消えない記憶、癒されない傷
受容真実和解委員会「公聴会」

松野明久

昨年4月に仕事をスタートさせた東ティモール受容真実和解委員会。その活動のひとつが「公聴会」(Public Hearing)だ。テーマ別に行われる公聴会は、人権侵害の被害者の語りを中心に、専門家の意見陳述や関係者の証言などを聞 く。


真実探求と公聴会

 委員会の真実探求部(Truth Seeking Division)は、1974年4月から1999年 10月までにおきた人権侵害についての真実を探求することを任務としている。 ポルトガル植民地下で非植民地化が始まった時点から(インドネシア侵略からではない)、インドネシアの正式撤退までの間、すべての関係当事者による人 権侵害について調べることになっている。調査の結果は最終報告書に組み込ま れ、来年10月、報告書は大統領に提出される。報告書はとるべき施策について の提言を含むが、提言の基礎となるのは何といっても人権侵害の調査だ。
 公聴会は、委員会の7人のナショナル・コミッショナーが前に座って、被害者などの陳述を聞くという体裁をとる。公開なので聴衆も大勢いるし、ラジオやテレビで生中継されたりもする。委員会はこれまでナショナル(全国)レベルでは「政治囚」(2月)と「女性と紛争」(4月)についての公聴会を行った。これからは「政党対立(内戦)」、「強制移動と飢餓」、「虐殺」といったテーマの公聴会が計画されている。公聴会は真実探求部の調査がベースとなって内容がつくられる。
 公聴会の目的は、事実を見極め、被害者の受けた傷を分かち合い、ある場合には被害者の名誉を回復し、こうしたプロセスをへて和解を促進するということにある。この公聴会によって委員会の名前もずいぶん知られるようになった。委員会の真実探求はスタートが非常に遅れ、また調査内容も原則としては非公開であるため、一般には何をやっているのだろうと思われていたのではないだろうか。公聴会のインパクトは想像されていた以上に大きいようだ。

「政治囚」公聴会

 2月17-18日、「政治囚」公聴会は真新しい委員会の中央事務所で開かれた。というより、この事務所のオープニング企画がこの公聴会だったのだ。この事務所は、ポルトガル時代からある刑務所を日本の援助によって修復したユニークなもので、「植民地刑務所から和解と人権のセンターへ」というのがうたい文句になっている。インドネシア占領下では多くの政治囚がこの刑務所に投獄されていた。したがって証言者たちの何人かはここに「思い出」をもっている人たちだ。そもそも、この刑務所を委員会事務所にするという案は、旧政治囚協会(ASSEPOL)というNGOの発案によるものだった。彼らが投獄されていたときに残した落書きは、ていねいに透明なアクリル板をかぶせて、今でも保存されている。
 公聴会は、事務所のオープンも兼ねていたので大統領シャナナ・グスマォンがスピーチを行った。彼もまた7年間投獄されていた元政治囚だ。ジャカルタのチピナン刑務所にいたとき、インドネシアの民主活動家たちと交流し、それまでいだいていたインドネシアというものに対する憎しみの気持ちが消えていったという話をした。そして、公聴会に呼ばれていた2人のインドネシア人を紹介した。東ティモール人政治囚の弁護を引き受けていたインドネシア法律扶助協会(YLBHI)の人権弁護士、ルフト・パンガリブアンと、監獄訪問を行って東ティモール人政治囚に対する人道援助を続けていたアデ・ロスティナ・シトンプルの二人だ。
 公聴会に寄せられた数々の証言は、どれも今さらながら胸を痛めつけるようなものばかりだった。公聴会の記録からいくつかを紹介しよう。

拷問センター「サン・タイ・ホー」

 ディリ市内の商店街コルメラの交差点には「Sang Tai Hoo」と書かれた商店らしき建物がある。漢字では「號泰聲」と書かれているようだ。ここはインドネシア占領期の初期、拷問センターとなっていたところだ。
 1975年12月にはまだ4歳ぐらいだったマリア・ジョゼ・フランコ・ペレイラの母親は、侵攻してきたばかりのインドネシア軍に拘束され「トロピカル」(これも拘束・拷問センター)に1年間入れられた。母親は看護婦で、息子がフレテリン兵士だったにも関わらず、山に逃げないでディリにいたのだった。母親はトロピカルから釈放されたあと、すぐにサン・タイ・ホーに入れられた。今度はマリアも一緒だった。そこで、マリアは母親が拷問されるのをいつも脇で見ていた。他にも拷問された人がいて、大声を上げるたびに汚物の入った瓶を口につっこまれ無理やり飲まされていた。気絶すると水をぶっかけられ、また拷問は続けられた。 幼い彼女も拷問された。インドネシア兵は彼女の耳をつかみ、体をもちあげて窓から突き出し、抵抗を続けると子供を道路に落とすぞと母親を脅した。
 あるとき、母親は朝から紅白旗(インドネシアの国旗)の下にひざまずいたままでいるよう命令されていた。その日、サンタクルス村(ディリ市内)の知りあいの華人が彼女たちに差し入れをもってきてくれた。その中に豆のスープがあった。彼女はインドネシア兵からそのまだ熱いスープを母親の頭にぶっかけるよう命令された。しかしそうするには彼女はまだ低すぎた。そこでブロックが与えられた。彼女はその上にたつと、また耳を引っ張られ、早くスープを母親にかけるよう怒鳴られた。彼女は、ひざまずいたままの母親の頭にスープをかけた。母親は黙っていた。母親の顔は赤くなり、体はびしょぬれになった。母親は拷問をしていた兵士の前にひざまずいたままの格好で来るよう命令され、そこで立たされた。マリアはそのとき初めて自分がおしっこをもらしているのに気づいた。
 その後、彼女と母親は1997年にバリデ刑務所(委員会の事務所となった監獄)に移された。母親はそこでも尋問を受けていたが、彼女はもう同席することがなかったので、どういうことがなされていたかは知らない。しかし、母親はひどく具合が悪いといって薬を他の人からもらったことがあった。あるとき、ひとりの女性が(ソイバダ出身という背の高い美人)が夜、房にもどってきて彼女たちの横に寝たが、翌朝その女性は死んでいた。その女性の知り合いで肌の白いメスティーソ(ポルトガル人との混血)がいたが、その人は気が変になってしまった。 マリアと母親は1979年に一旦釈放されたが、母親はあるときから具合が悪くなって、1983年に亡くなった。
 委員会のナショナル・コミッショナーのひとりで、元政治囚協会の代表でもあるジャシント・アルベスもサン・タイ・ホーで拷問を受けたひとりだ。彼は1978年、そこに入れられていたが、拷問用ヘルメットで拷問された。それは内側の真ん中にくぎがでっぱっていて、それをかぶせられ、木片で上からたたかれるのだ。それを使うのが好きなインドネシア兵がいて、あだなが「ヘルメット」だった。

フレテリンによる虐待

 委員会の調査の範囲は「すべての関係当事者による人権侵害」であるため、フレテリンやファリンティルのやったことについての証言も寄せられた。フレテリンはインドネシア軍に降伏のためなど接触した仲間を厳しく問い詰め、場合によっては処刑もしている。
 フレテリンの地区の指導部の一人だったジョアォン・ビエナスは1977年11月、地区の他のフレテリン指導部と一緒にフレテリンに拘束され、手を後ろに縛られたまま豚小屋に入れられた。警備のフレテリン兵士からは小屋の上から小便をひっかけられた。彼の弟、ジョゼ・ドス・サントスはフレテリンのある管区の司令官にもなった男だったが、おそらく上のような「裏切り」を理由に処刑されていた。その弟が彼にコム(ラオテン県の港町)まで行ってインドネシア軍と接触するよう命じなかったかどうかが、フレテリンの関心事だったようだ。
 その後、彼と他の囚人たちはラオテン県のルロまで連れて行かれ、そこでまた投獄された。食事は家族が半日かけてもってきてくれた。そこで殴られるなどの虐待を受けながら6ヶ月。あるとき、司令官がシャナナに変わって、ひもが解かれ、囚人の待遇は幾分ましになった。そして、彼は釈放された。しかし、彼の父親は彼の拘束と弟の殺害に気を病み、彼が会いに帰ったとき、息を引き取った。彼はまたフレテリンの管区のアシスタントの地位を与えられた。
 ジョアォン・ビエナスはマテビアン爆撃の直前に投降したが、彼の妻は爆撃で死亡した。彼はインドネシア軍からロスパロスで尋問を受けたと語っている。

証言の信憑性

 公聴会で出された証言は、どれも詳細なもので、内容的にこれといった矛盾は見当たらない。したがって信憑性は高いと言える。しかし、だからといって十分な証拠となるかという点については、批判も寄せられた。
 地元紙ティモール・ポスト(2月22日)には、社民党国会議員でディリ大学法学部でも教鞭をとるルシア・ロバトの、「証言はまだ抽象的だ」のコメントが載せられた。「原則として証言はよかったと思う。しかし、証拠としての正確さというような条件を満たしているかどうかがまだ問題だ」と彼女は語った。

「女性と紛争」公聴会

 4月28-29日、今度は「女性と紛争」公聴会が開かれた。証言はテレビとラジオで生放送され、かなりな注目を浴びた。どれもこれも悲惨な内容の証言だったが、証言者はみな堂々と、時には涙をこらえながら語った。そうした彼女たちの真実を語る勇気に、聴衆も圧倒された。

フレテリンがフレテリンを虐待

 マリア・アントニア・サントス・ソウザは、自身はフレテリンの女性組織OPMT(ティモール女性大衆組織)で活動していながら、父親と伯父がUDTのメンバーだったためにフレテリンから厳しい迫害を受けた女性だ。
 フレテリンに拘束されていた父親はインドネシア軍に投降し、そのことで彼女の残りの一家は1977年からフレテリンに拘束された。彼女も殴る蹴るの拷問を受け、父親と接触したことを自白するよう迫られた。彼女のいとこの男性は、焼けた金棒で体中を焼かれる拷問を受け、腐ったにおいがするようになったので、土の中の穴に入れられた。食事も与えられず、彼の体にはウジ虫もわいてひどいにおいになった。そして土をかぶせられて死んでしまった。
 レメシオで彼女たちは土に穴をほった監獄に入れられていた。男の囚人は地上の小屋に入れられていた。食糧も少なく、ねずみや蛇がいた。そこで彼女の伯母と祖母は死んだ。ねずみが死者たちの耳、鼻、目などをかじるのを見た。結局、そこで生き残ったのは女4人と男1人だけだった。1979年、インドネシア軍の攻撃にフレテリンは散り散りとなり、彼女たちは投降した。その後、父親とは再会した。

「レイプされない日はなかった」

 オルガ・ダ・シルバ・アマラルは、1982年8月から1983年4月まで、インドネシア軍兵士による暴力を受け続けた。
 1982年、インドネシア軍がマウシガというところで大作戦を展開し、彼女の夫はつかまってアタウロ送り。彼女はダレの司令部に連れて行かれ、そこで頭を血が出るまで殴られ、背中を歩けなくなるほど蹴られ、電気ショックをかけられ、まったく力がなくなったところでレイプされた。レイプされたあと、顔や手にたばこの火を押し付けられた。こうした拷問はひと月続き、その間も兵士のため炊事と洗濯をさせられた。彼女はまた軍服を着せられ、カブラキ山の掃討作戦に従軍させられた。カブラキ山では現地のインドネシア軍兵士に手渡され、そこでレイプされた。
 インドネシア軍は、夫がアタウロに送られた女性たちを集めて住まわせる建物をつくり、それを「学校」と呼んだ。そこで女性たちは尋問され、拷問され、レイプされた。妊娠している女性や赤ちゃんをもつ女性もレイプされた。子供が泣き叫ぼうと、兵士たちは気にしなかった。
 そこで彼女はたえ難い光景を見た。拘束されていたある女性の夫が手を後ろ手に縛られ、軍用車の後ろにくくりつけられて、ダレ中を引き回されたのだ。男性の体は完全にずたずたになって白い骨だけになり、顔の部分だけが完全に残っていた。また、別な男性は砂糖50kg用のビニール袋に入れられ、ケロシンをかけられ、生きたまま火をつけられ、焼き殺された。
 こうした状況にたえかねた彼女は逃げ出したが、再びインドネシア軍につかまり、殴打、電気ショック、たばこの火といった拷問を受け、レイプされた後、3ヶ月間トイレに閉じこめられた。その間一度も水浴びできなかった。
 ある夜、彼女たちは「ジャカルタ2」と呼ばれる、アイナロの有名な処刑場に連れて行かれた。そこは深い谷間になっていて突き落とされるのだ。男たちが突き落とされた後、彼女たちの番になったとき、彼女たちは兵士の足にしがみついた。兵士たちは「どうするね?」「あとの連中はみな死んだから、こいつらは連れて帰るか」などと言って、彼女たちは命拾いした。しかし、帰った後またレイプされた。レイプされない日はなかった。
 ある時、トイレに入れられていた彼女に、ある女性が「連中の言うことを聞いて、私をあなたのリーダーだと言いなさい」と小さな穴からささやいた。彼女は言う通りにしたら、釈放された。1983年4月のことだった。それからアタウロから戻った夫と再会した。長い間子供が産まれなかったが、伝統薬を使ったら妊娠し、4人の子を産むことができた。

「強制結婚」

 ベアトリス・ミランダ・グテレスは1982年に結婚してクララスに移り住んだ。1983年9月に有名なクララスの虐殺が起きるところだ。きっかけとなったのはティモール人民兵(ハンシップ)の蜂起で、インドネシア軍兵士が殺されたことで、インドネシア軍は住民への容赦ない報復を行い、多数の住民が死亡した。彼女の夫は森に逃げ、彼女はインドネシア軍に拘束された。当時彼女は妊娠していたが、拘束中に生まれた子供は14ヶ月で死んだ。
 クララスの住民はラレレク・ムティンという新しい村(といっても荒れ地)に移住させられ、彼女もそこに移された。そこには特殊部隊兵士Eがいて、どうも彼女に気があるようだったので、村長らの「彼を受け入れないと、みな殺されてしまう」という「説得」によって、彼女はしぶしぶEを受け入れた。その日から1年、Eと彼女は一緒に暮らした。妊娠したが、3ヶ月で流産した。Eはインドネシアへ帰った。
 その後、彼女は1991年にやってきた別な特殊部隊の兵士、1993年にやってきた第 408大隊の兵士の「妻」にされた。彼女は兵士の「妻」となったことで、周囲からは「ビフ(=スパイ)」呼ばわりされた。
 彼女の場合、3人の兵士と「結婚させられた」わけだが、いずれも周囲の説得によるものという事情が明らかにされた。最初は村長、二度目は田んぼにいた友人たち、三度目も村長。みな、彼女自身の、または村人の命を救うためと言い、村長などは彼女の家族には重々事情を説明するからと言っていた。しかし、結局、彼女は周囲の冷たい視線にさらされることになったのだ。

家族計画についての証言

 主な証言は2つあった。ひとつは家族計画を無理やりやらされ、結局子供を産めなかった女性で、もうひとつはインドネシア国家家族計画院(BKKBN)の元職員の話だ。
 ナタリア・ドス・サントスは1979年、インドネシア軍兵士(第744大隊バウカウ駐屯部隊)となった東ティモール人男性と結婚した。まだ子供はいないにも関わらず、「国軍兵士妻の会」の会員として家族計画をやらなければならないと言われ、夫の地位のためと思って、参加した。
 最初の3年はピルを服用した。しかし、めまいや体の不調からピルをひそかにやめ、その結果妊娠した。ところがバウカウの軍兵舎では、小隊長による妻の毎朝の運動というのがあって、妊娠していると言ったにも関わらず、それに出ないと夫が処罰されると言われ、参加していたら流産してしまった。
 それから5年間、IUDを使用した。これは生理の度ごとに医師による管理が必要で、子供が欲しいからと言って、はずしてもらった。まもなく妊娠したが、今度は医師から彼女の子宮は問題があり胎児の成長に耐えられないとして、手術を受けた。そして胎児は死んでしまった。
 次はペッサリー(子宮頸部に装着する女性用のコンドーム)を使ったが、気持ちがよくないので、2ヶ月でやめた。すると医師は、注射(デポ・プロベラ)をすすめた。やはり夫が処罰されると言われ、それを受け入れた。
 注射は1999年9月まで3カ月毎に受け続けた。住民投票の後アタンブアに逃げて以後は、避妊はしていない。しかし、結局子供はもてていない。膣がかゆい、体重が減っているといった症状がある。インドネシア軍兵士の妻となった女性たちの中には同様の経験を持っている者たちがいる。彼女は、自分は家族計画を成功させるための実験動物だったのではないかと考えている。
 BKKBNの元職員だったジョン・フェルナンデスの証言は、関係者とあって注目を浴びた。彼は1983年から1999年までサメで家族計画推進の業務に従事した。
 彼自身も、家族計画はインドネシア人を増やす(つまりティモール人の割合を減らす)ための政治的な戦略だったと感じている。インドネシア人のアクセプター(家族計画参加者)には副作用を軽減するための特別な薬が処方されたが、東ティモール人はそのままにほっておかれたからだ。
 家族計画に人々が参加してのち、母子死亡率は低くならずむしろ高くなった。そして参加した女性たちの妊娠中にはさまざまな症状がみられた。めまい、子宮外妊娠、生理不順、食欲減退、体のむくみ、リューマチなどだ。出産時に過度の出血があったり、赤ん坊が障害をかかえていたり、口ひげをはやしていたり、耳がまるまっていたり、手足がまがっていたりしたこともある。
 インドネシア軍は家族計画の推進にも関与していた。ウダヤナ(第9管区)司令官の決定書があり、村で計画を推進する時は、警察や軍人が制服を着て立ち会った。バビンサ(軍人で村落指導員)や警官は村落家族計画補助員となって、家族計画院から1日3000ルピアを受け取っていた。(注:3000ルピアは現在のレートでは45円にしかならないが、以前は数倍の価値があった。)
 また、軍と家族計画院は、「Joint ABRI/BKKBN KB」、すなわち国軍・家族計画院合同家族計画というプログラムをやっており、これは郡レベルで通常、国軍兵士妻の会が制服を着て行った。毎年このプログラムは村レベルでも行われた。 家族計画に長く参加した女性、例えば5年、10年、15年と避妊を続けた女性は、表彰された。時にはジャカルタまで行って、大統領夫人から表彰されることもあった。

元州知事の証言

 マリオ・カラスカラォンは現在は野党社民党党首となっているが、インドネシア時代東ティモール州知事をつとめたことがある(1982-1992)。もともとUDTで、のちに統合派となってインドネシア支配の協力者となったが、一方では、その行政官としての有能さ、またときに東ティモール人の利益を保護する姿勢などから、独立派の人々からも一定の評価をされてきた。
 今回の公聴会で彼が2時間もの証言を行ったのは特筆すべきことだろう。彼はインドネシア軍兵士たちが女性を無理やり「結婚」させ彼らの性奴隷としていた、インドネシア軍は彼女たちの夫を殺した、レイプなどの訴えを何千通ももらっていたが、彼女たちの身元を知られないようにするため破り捨てた、州知事であっても軍のやることには手が出せなかったなどと語った。
 マリオ・カラスカラォンのこうした発言に、さっそくジャカルタのインドネシア軍は反応した。インドネシア軍報道官のジャザイリ・ナフロニ大佐は、マリオ・カラスカラォンを「多分、精神が不安定なのだろう」などと皮肉り、「そうした計画的、組織的な作戦はまったくなかった」と述べた。また、「こうした発言が、かつて祖国を裏切った州知事から出ているということを考慮に入れなければならない」と述べた。(AP, 29 April)★消えない記憶、癒されない傷
受容真実和解委員会「公聴会」

松野明久

昨年4月に仕事をスタートさせた東ティモール受容真実和解委員会。その活動のひとつが「公聴会」(Public Hearing)だ。テーマ別に行われる公聴会は、人権侵害の被害者の語りを中心に、専門家の意見陳述や関係者の証言などを聞 く。

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 委員会の真実探求部(Truth Seeking Division)は、1974年4月から1999年 10月までにおきた人権侵害についての真実を探求することを任務としている。 ポルトガル植民地下で非植民地化が始まった時点から(インドネシア侵略からではない)、インドネシアの正式撤退までの間、すべての関係当事者による人 権侵害について調べることになっている。調査の結果は最終報告書に組み込ま れ、来年10月、報告書は大統領に提出される。報告書はとるべき施策について の提言を含むが、提言の基礎となるのは何といっても人権侵害の調査だ。 公聴会は、委員会の7人のナショナル・コミッショナーが前に座って、被害者などの陳述を聞くという体裁をとる。公開なので聴衆も大勢いるし、ラジオやテレビで生中継されたりもする。委員会はこれまでナショナル(全国)レベルでは「政治囚」(2月)と「女性と紛争」(4月)についての公聴会を行った。これからは「政党対立(内戦)」、「強制移動と飢餓」、「虐殺」といったテーマの公聴会が計画されている。公聴会は真実探求部の調査がベースとなって内容がつくられる。 公聴会の目的は、事実を見極め、被害者の受けた傷を分かち合い、ある場合には被害者の名誉を回復し、こうしたプロセスをへて和解を促進するということにある。この公聴会によって委員会の名前もずいぶん知られるようになった。委員会の真実探求はスタートが非常に遅れ、また調査内容も原則としては非公開であるため、一般には何をやっているのだろうと思われていたのではないだろうか。公聴会のインパクトは想像されていた以上に大きいようだ。

「政治囚」公聴会
 2月17-18日、「政治囚」公聴会は真新しい委員会の中央事務所で開かれた。というより、この事務所のオープニング企画がこの公聴会だったのだ。この事務所は、ポルトガル時代からある刑務所を日本の援助によって修復したユニークなもので、「植民地刑務所から和解と人権のセンターへ」というのがうたい文句になっている。インドネシア占領下では多くの政治囚がこの刑務所に投獄されていた。したがって証言者たちの何人かはここに「思い出」をもっている人たちだ。そもそも、この刑務所を委員会事務所にするという案は、旧政治囚協会(ASSEPOL)というNGOの発案によるものだった。彼らが投獄されていたときに残した落書きは、ていねいに透明なアクリル板をかぶせて、今でも保存されている。
 公聴会は、事務所のオープンも兼ねていたので大統領シャナナ・グスマォンがスピーチを行った。彼もまた7年間投獄されていた元政治囚だ。ジャカルタのチピナン刑務所にいたとき、インドネシアの民主活動家たちと交流し、それまでいだいていたインドネシアというものに対する憎しみの気持ちが消えていったという話をした。そして、公聴会に呼ばれていた2人のインドネシア人を紹介した。東ティモール人政治囚の弁護を引き受けていたインドネシア法律扶助協会(YLBHI)の人権弁護士、ルフト・パンガリブアンと、監獄訪問を行って東ティモール人政治囚に対する人道援助を続けていたアデ・ロスティナ・シトンプルの二人だ。 公聴会に寄せられた数々の証言は、どれも今さらながら胸を痛めつけるようなものばかりだった。公聴会の記録からいくつかを紹介しよう。

拷問センター「サン・タイ・ホー」
 ディリ市内の商店街コルメラの交差点には「Sang Tai Hoo」と書かれた商店らしき建物がある。漢字では「號泰聲」と書かれているようだ。ここはインドネシア占領期の初期、拷問センターとなっていたところだ。 1975年12月にはまだ4歳ぐらいだったマリア・ジョゼ・フランコ・ペレイラの母親は、侵攻してきたばかりのインドネシア軍に拘束され「トロピカル」(これも拘束・拷問センター)に1年間入れられた。母親は看護婦で、息子がフレテリン兵士だったにも関わらず、山に逃げないでディリにいたのだった。母親はトロピカルから釈放されたあと、すぐにサン・タイ・ホーに入れられた。今度はマリアも一緒だった。そこで、マリアは母親が拷問されるのをいつも脇で見ていた。他にも拷問された人がいて、大声を上げるたびに汚物の入った瓶を口につっこまれ無理やり飲まされていた。気絶すると水をぶっかけられ、また拷問は続けられた。 幼い彼女も拷問された。インドネシア兵は彼女の耳をつかみ、体をもちあげて窓から突き出し、抵抗を続けると子供を道路に落とすぞと母親を脅した。 あるとき、母親は朝から紅白旗(インドネシアの国旗)の下にひざまずいたままでいるよう命令されていた。その日、サンタクルス村(ディリ市内)の知りあいの華人が彼女たちに差し入れをもってきてくれた。その中に豆のスープがあった。彼女はインドネシア兵からそのまだ熱いスープを母親の頭にぶっかけるよう命令された。しかしそうするには彼女はまだ低すぎた。そこでブロックが与えられた。彼女はその上にたつと、また耳を引っ張られ、早くスープを母親にかけるよう怒鳴られた。彼女は、ひざまずいたままの母親の頭にスープをかけた。母親は黙っていた。母親の顔は赤くなり、体はびしょぬれになった。母親は拷問をしていた兵士の前にひざまずいたままの格好で来るよう命令され、そこで立たされた。マリアはそのとき初めて自分がおしっこをもらしているのに気づいた。
 その後、彼女と母親は1997年にバリデ刑務所(委員会の事務所となった監獄)に移された。母親はそこでも尋問を受けていたが、彼女はもう同席することがなかったので、どういうことがなされていたかは知らない。しかし、母親はひどく具合が悪いといって薬を他の人からもらったことがあった。あるとき、ひとりの女性が(ソイバダ出身という背の高い美人)が夜、房にもどってきて彼女たちの横に寝たが、翌朝その女性は死んでいた。その女性の知り合いで肌の白いメスティーソ(ポルトガル人との混血)がいたが、その人は気が変になってしまった。 マリアと母親は1979年に一旦釈放されたが、母親はあるときから具合が悪くなって、1983年に亡くなった。
 委員会のナショナル・コミッショナーのひとりで、元政治囚協会の代表でもあるジャシント・アルベスもサン・タイ・ホーで拷問を受けたひとりだ。彼は1978年、そこに入れられていたが、拷問用ヘルメットで拷問された。それは内側の真ん中にくぎがでっぱっていて、それをかぶせられ、木片で上からたたかれるのだ。それを使うのが好きなインドネシア兵がいて、あだなが「ヘルメット」だった。

フレテリンによる虐待
 委員会の調査の範囲は「すべての関係当事者による人権侵害」であるため、フレテリンやファリンティルのやったことについての証言も寄せられた。フレテリンはインドネシア軍に降伏のためなど接触した仲間を厳しく問い詰め、場合によっては処刑もしている。
 フレテリンの地区の指導部の一人だったジョアォン・ビエナスは1977年11月、地区の他のフレテリン指導部と一緒にフレテリンに拘束され、手を後ろに縛られたまま豚小屋に入れられた。警備のフレテリン兵士からは小屋の上から小便をひっかけられた。彼の弟、ジョゼ・ドス・サントスはフレテリンのある管区の司令官にもなった男だったが、おそらく上のような「裏切り」を理由に処刑されていた。その弟が彼にコム(ラオテン県の港町)まで行ってインドネシア軍と接触するよう命じなかったかどうかが、フレテリンの関心事だったようだ。 その後、彼と他の囚人たちはラオテン県のルロまで連れて行かれ、そこでまた投獄された。食事は家族が半日かけてもってきてくれた。そこで殴られるなどの虐待を受けながら6ヶ月。あるとき、司令官がシャナナに変わって、ひもが解かれ、囚人の待遇は幾分ましになった。そして、彼は釈放された。しかし、彼の父親は彼の拘束と弟の殺害に気を病み、彼が会いに帰ったとき、息を引き取った。彼はまたフレテリンの管区のアシスタントの地位を与えられた。
 ジョアォン・ビエナスはマテビアン爆撃の直前に投降したが、彼の妻は爆撃で死亡した。彼はインドネシア軍からロスパロスで尋問を受けたと語っている。

証言の信憑性
 公聴会で出された証言は、どれも詳細なもので、内容的にこれといった矛盾は見当たらない。したがって信憑性は高いと言える。しかし、だからといって十分な証拠となるかという点については、批判も寄せられた。 地元紙ティモール・ポスト(2月22日)には、社民党国会議員でディリ大学法学部でも教鞭をとるルシア・ロバトの、「証言はまだ抽象的だ」のコメントが載せられた。「原則として証言はよかったと思う。しかし、証拠としての正確さというような条件を満たしているかどうかがまだ問題だ」と彼女は語った。

「女性と紛争」公聴会
 4月28-29日、今度は「女性と紛争」公聴会が開かれた。証言はテレビとラジオで生放送され、かなりな注目を浴びた。どれもこれも悲惨な内容の証言だったが、証言者はみな堂々と、時には涙をこらえながら語った。そうした彼女たちの真実を語る勇気に、聴衆も圧倒された。

フレテリンがフレテリンを虐待
 マリア・アントニア・サントス・ソウザは、自身はフレテリンの女性組織OPMT(ティモール女性大衆組織)で活動していながら、父親と伯父がUDTのメンバーだったためにフレテリンから厳しい迫害を受けた女性だ。 フレテリンに拘束されていた父親はインドネシア軍に投降し、そのことで彼女の残りの一家は1977年からフレテリンに拘束された。彼女も殴る蹴るの拷問を受け、父親と接触したことを自白するよう迫られた。彼女のいとこの男性は、焼けた金棒で体中を焼かれる拷問を受け、腐ったにおいがするようになったので、土の中の穴に入れられた。食事も与えられず、彼の体にはウジ虫もわいてひどいにおいになった。そして土をかぶせられて死んでしまった。
 レメシオで彼女たちは土に穴をほった監獄に入れられていた。男の囚人は地上の小屋に入れられていた。食糧も少なく、ねずみや蛇がいた。そこで彼女の伯母と祖母は死んだ。ねずみが死者たちの耳、鼻、目などをかじるのを見た。結局、そこで生き残ったのは女4人と男1人だけだった。1979年、インドネシア軍の攻撃にフレテリンは散り散りとなり、彼女たちは投降した。その後、父親とは再会した。

「レイプされない日はなかった」
 オルガ・ダ・シルバ・アマラルは、1982年8月から1983年4月まで、インドネシア軍兵士による暴力を受け続けた。
 1982年、インドネシア軍がマウシガというところで大作戦を展開し、彼女の夫はつかまってアタウロ送り。彼女はダレの司令部に連れて行かれ、そこで頭を血が出るまで殴られ、背中を歩けなくなるほど蹴られ、電気ショックをかけられ、まったく力がなくなったところでレイプされた。レイプされたあと、顔や手にたばこの火を押し付けられた。こうした拷問はひと月続き、その間も兵士のため炊事と洗濯をさせられた。彼女はまた軍服を着せられ、カブラキ山の掃討作戦に従軍させられた。カブラキ山では現地のインドネシア軍兵士に手渡され、そこでレイプされた。 インドネシア軍は、夫がアタウロに送られた女性たちを集めて住まわせる建物をつくり、それを「学校」と呼んだ。そこで女性たちは尋問され、拷問され、レイプされた。妊娠している女性や赤ちゃんをもつ女性もレイプされた。子供が泣き叫ぼうと、兵士たちは気にしなかった。
 そこで彼女はたえ難い光景を見た。拘束されていたある女性の夫が手を後ろ手に縛られ、軍用車の後ろにくくりつけられて、ダレ中を引き回されたのだ。男性の体は完全にずたずたになって白い骨だけになり、顔の部分だけが完全に残っていた。また、別な男性は砂糖50kg用のビニール袋に入れられ、ケロシンをかけられ、生きたまま火をつけられ、焼き殺された。
 こうした状況にたえかねた彼女は逃げ出したが、再びインドネシア軍につかまり、殴打、電気ショック、たばこの火といった拷問を受け、レイプされた後、3ヶ月間トイレに閉じこめられた。その間一度も水浴びできなかった。 ある夜、彼女たちは「ジャカルタ2」と呼ばれる、アイナロの有名な処刑場に連れて行かれた。そこは深い谷間になっていて突き落とされるのだ。男たちが突き落とされた後、彼女たちの番になったとき、彼女たちは兵士の足にしがみついた。兵士たちは「どうするね?」「あとの連中はみな死んだから、こいつらは連れて帰るか」などと言って、彼女たちは命拾いした。しかし、帰った後またレイプされた。レイプされない日はなかった。
 ある時、トイレに入れられていた彼女に、ある女性が「連中の言うことを聞いて、私をあなたのリーダーだと言いなさい」と小さな穴からささやいた。彼女は言う通りにしたら、釈放された。1983年4月のことだった。それからアタウロから戻った夫と再会した。長い間子供が産まれなかったが、伝統薬を使ったら妊娠し、4人の子を産むことができた。

「強制結婚」
 ベアトリス・ミランダ・グテレスは1982年に結婚してクララスに移り住んだ。1983年9月に有名なクララスの虐殺が起きるところだ。きっかけとなったのはティモール人民兵(ハンシップ)の蜂起で、インドネシア軍兵士が殺されたことで、インドネシア軍は住民への容赦ない報復を行い、多数の住民が死亡した。彼女の夫は森に逃げ、彼女はインドネシア軍に拘束された。当時彼女は妊娠していたが、拘束中に生まれた子供は14ヶ月で死んだ。
 クララスの住民はラレレク・ムティンという新しい村(といっても荒れ地)に移住させられ、彼女もそこに移された。そこには特殊部隊兵士Eがいて、どうも彼女に気があるようだったので、村長らの「彼を受け入れないと、みな殺されてしまう」という「説得」によって、彼女はしぶしぶEを受け入れた。その日から1年、Eと彼女は一緒に暮らした。妊娠したが、3ヶ月で流産した。Eはインドネシアへ帰った。 その後、彼女は1991年にやってきた別な特殊部隊の兵士、1993年にやってきた第 408大隊の兵士の「妻」にされた。彼女は兵士の「妻」となったことで、周囲からは「ビフ(=スパイ)」呼ばわりされた。
 彼女の場合、3人の兵士と「結婚させられた」わけだが、いずれも周囲の説得によるものという事情が明らかにされた。最初は村長、二度目は田んぼにいた友人たち、三度目も村長。みな、彼女自身の、または村人の命を救うためと言い、村長などは彼女の家族には重々事情を説明するからと言っていた。しかし、結局、彼女は周囲の冷たい視線にさらされることになったのだ。

家族計画についての証言
 主な証言は2つあった。ひとつは家族計画を無理やりやらされ、結局子供を産めなかった女性で、もうひとつはインドネシア国家家族計画院(BKKBN)の元職員の話だ。
 ナタリア・ドス・サントスは1979年、インドネシア軍兵士(第744大隊バウカウ駐屯部隊)となった東ティモール人男性と結婚した。まだ子供はいないにも関わらず、「国軍兵士妻の会」の会員として家族計画をやらなければならないと言われ、夫の地位のためと思って、参加した。
 最初の3年はピルを服用した。しかし、めまいや体の不調からピルをひそかにやめ、その結果妊娠した。ところがバウカウの軍兵舎では、小隊長による妻の毎朝の運動というのがあって、妊娠していると言ったにも関わらず、それに出ないと夫が処罰されると言われ、参加していたら流産してしまった。 それから5年間、IUDを使用した。これは生理の度ごとに医師による管理が必要で、子供が欲しいからと言って、はずしてもらった。まもなく妊娠したが、今度は医師から彼女の子宮は問題があり胎児の成長に耐えられないとして、手術を受けた。そして胎児は死んでしまった。
 次はペッサリー(子宮頸部に装着する女性用のコンドーム)を使ったが、気持ちがよくないので、2ヶ月でやめた。すると医師は、注射(デポ・プロベラ)をすすめた。やはり夫が処罰されると言われ、それを受け入れた。 注射は1999年9月まで3カ月毎に受け続けた。住民投票の後アタンブアに逃げて以後は、避妊はしていない。しかし、結局子供はもてていない。膣がかゆい、体重が減っているといった症状がある。インドネシア軍兵士の妻となった女性たちの中には同様の経験を持っている者たちがいる。彼女は、自分は家族計画を成功させるための実験動物だったのではないかと考えている。 BKKBNの元職員だったジョン・フェルナンデスの証言は、関係者とあって注目を浴びた。彼は1983年から1999年までサメで家族計画推進の業務に従事した。 彼自身も、家族計画はインドネシア人を増やす(つまりティモール人の割合を減らす)ための政治的な戦略だったと感じている。インドネシア人のアクセプター(家族計画参加者)には副作用を軽減するための特別な薬が処方されたが、東ティモール人はそのままにほっておかれたからだ。
 家族計画に人々が参加してのち、母子死亡率は低くならずむしろ高くなった。そして参加した女性たちの妊娠中にはさまざまな症状がみられた。めまい、子宮外妊娠、生理不順、食欲減退、体のむくみ、リューマチなどだ。出産時に過度の出血があったり、赤ん坊が障害をかかえていたり、口ひげをはやしていたり、耳がまるまっていたり、手足がまがっていたりしたこともある。 インドネシア軍は家族計画の推進にも関与していた。ウダヤナ(第9管区)司令官の決定書があり、村で計画を推進する時は、警察や軍人が制服を着て立ち会った。バビンサ(軍人で村落指導員)や警官は村落家族計画補助員となって、家族計画院から1日3000ルピアを受け取っていた。(注:3000ルピアは現在のレートでは45円にしかならないが、以前は数倍の価値があった。) また、軍と家族計画院は、「Joint ABRI/BKKBN KB」、すなわち国軍・家族計画院合同家族計画というプログラムをやっており、これは郡レベルで通常、国軍兵士妻の会が制服を着て行った。毎年このプログラムは村レベルでも行われた。 家族計画に長く参加した女性、例えば5年、10年、15年と避妊を続けた女性は、表彰された。時にはジャカルタまで行って、大統領夫人から表彰されることもあった。

元州知事の証言
 マリオ・カラスカラォンは現在は野党社民党党首となっているが、インドネシア時代東ティモール州知事をつとめたことがある(1982-1992)。もともとUDTで、のちに統合派となってインドネシア支配の協力者となったが、一方では、その行政官としての有能さ、またときに東ティモール人の利益を保護する姿勢などから、独立派の人々からも一定の評価をされてきた。
 今回の公聴会で彼が2時間もの証言を行ったのは特筆すべきことだろう。彼はインドネシア軍兵士たちが女性を無理やり「結婚」させ彼らの性奴隷としていた、インドネシア軍は彼女たちの夫を殺した、レイプなどの訴えを何千通ももらっていたが、彼女たちの身元を知られないようにするため破り捨てた、州知事であっても軍のやることには手が出せなかったなどと語った。
 マリオ・カラスカラォンのこうした発言に、さっそくジャカルタのインドネシア軍は反応した。インドネシア軍報道官のジャザイリ・ナフロニ大佐は、マリオ・カラスカラォンを「多分、精神が不安定なのだろう」などと皮肉り、「そうした計画的、組織的な作戦はまったくなかった」と述べた。また、「こうした発言が、かつて祖国を裏切った州知事から出ているということを考慮に入れなければならない」と述べた。(AP, 29 April)★


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