ベロ司教、ラモス・ホルタ氏
1996年ノーベル平和賞受賞


ノルウェー・ノーベル委員会の発表

 ノルウェー・ノーベル委員会は、1996年ノーベル平和賞を、東ティモールにおける紛争の正義ある平和的解決に向けてのその仕事にかんがみ、カルロス・フィリペ・シメネス・ベロとジョゼ・ラモス・ホルタの二人に平等に与えることを決定した。

 1975年、インドネシアは東ティモールを掌握し、その住民を組織的に抑圧し始めた。その後、東ティモール住民の3分の1が、飢餓、疫病、戦争、そしてテロ行為によって命を失ったと推計される。

 東ティモールの司教、カルロス・ベロは、東ティモール人民の最高の代表者であり続けた。彼は命を賭けて、権力の座にある者たちによる侵害から人々を守ることに努めてきた。また東ティモール人民の自決の権利に基づいた正義ある解決を生みだす努力において、彼は非暴力とインドネシア当局との対話のたえざるスポークスマンであり続けた。ラモス・ホルタは1975年以後、東ティモールの大義の指導的な国際的スポークスマンであり続けた。最近、彼は「和解会談」を通じて、また当該地域のための和平案を策定したことによって、意義ある貢献を行った。

 ベロとラモス・ホルタに今年のノーベル平和賞を授与するに際し、ノルウェー・ノーベル委員会は、二人が少数ながらも抑圧された人民のために行ったたえざる自己犠牲的貢献を讚えたい。委員会はこの賞が東ティモール人民の自決の権利に基づいた東ティモール紛争の外交的解決を見いだす努力を促進することを希望する。

ノルウェー・ノーベル協会

ノーベル平和賞は、他のノーベル賞がすべてスウェーデンにある機関によって決定されるのと違って、ノルウェー・ノーベル委員会が決定する賞である。その委員はノルウェー国会が指名する5人であるが、現在は国会議員は委員になることができない。候補者を推薦できるのは、ノーベル委員会の元・現委員と顧問の他、平和賞受賞者、議員、法学・政治学・歴史学・哲学の教授、国際仲裁裁判所・国際司法裁判所判事など。委員会は毎年100件を越える推薦を受け、外部からの一切の干渉なしに受賞者を決定する。委員会は候補者を事前に公開することは決してなく、受賞キャンペーンはむしろ逆効果であることも多い。毎年10月半ばに発表される。

受賞者プロフィール

カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ司教
Bishop Carlos Filipe Ximenes Belo

 1948年2月、東ティモール東部、ワライマカ村に生まれる。地元の小学校を出て、ディリの神学校、高等神学校を卒業。1979年から1981年まで、ローマの教皇庁立サレジオ大学に学ぶ。1980年、リスボンにて司祭叙階。1983年5月、東ティモールの教皇行政官に任命され、ディリに赴任。1988年6月に司教叙階。
 ベロ司教の前任者はロペス・ダ・コスタ師で、彼はインドネシア占領に批判的であったためか、教皇行政官たる職をとかれてリスボンに移された。ダ・コスタ師はすでに亡くなっている。
 ベロ司教は、コスタ師の後任として東ティモールの教皇行政官となったが、やはり、占領インドネシア軍.政府の政策に対して批判的とならざるをえなかった。そしてインドネシア軍による人権侵害から住民を守る役割を担うようになった。
 1989年2月、ベロ司教は、当時のデクエヤル国連事務総長にあてて、国連監督下の住民投票の実施を求める書簡を送った(書簡和訳参照)。書簡でベロ司教は、東ティモール人が自決権を行使する機会を与えられていないこと、このままでは東ティモール人は民族として死に絶えてしまうことを切々と訴えている。
 この書簡は大きな反響を呼んだ。中でも日本の相馬信夫司教は、アジア・オセアニア地域の教会関係者にベロ司教応援を呼びかけ、1989年8月、集まった5名の枢機卿、122名の大司教・司教を含む1257名の署名をたずさえて、国連非植民地化特別委員会でベロ司教支援の陳述を行った。署名は国連事務総長に提出された。
 ベロ司教は日常的にはディリにいて、住民の福祉、囚人訪問、人権侵害への対応、軍・政府との交渉などを行っている。
 ベロ司教は宗教家として政治問題への発言を控えてきたが、1995年から始まったいわゆる「全東ティモール人包括対話」で大きな役割を果たすことになった。この「包括対話」は国連が便宜をはかって、東ティモール域内と海外の東ティモール人指導者たち約30人を一同に集め、東ティモールの現状と将来について議論し、宣言をまとめるというものである。ベロ司教はそこで併合派・抵抗派の両者から尊敬される人物として対話成立のキーパーソンとなった。

ジョゼ・ラモス・ホルタ氏
Mr. Jose Ramos-Horta

1949年12月26日、東ティモールのディリ生まれ。1974年、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)の設立に参加し、中央委員会委員(国際関係担当)を務めた。1975年11月28日の独立宣言後の政権では外務大臣を務めた。インドネシア軍による侵略直前に国際的支持をとりつけるため国外に出され、国連安保理で祖国への支援を訴えるなど、長い間ニューヨークでフレテリンの国連代表を務めた。
 1988年暮れ、抵抗派勢力を結集した「東ティモール民族抵抗評議会(CNRM)」がシャナナ・グスマォンによって組織されると、フレテリンを離れ、その海外特別代表となった。その後、シャナナが逮捕されると、コニス・サンタナ東ティモール民族解放軍司令官とともに、同評議会共同議長となった。
 その後も、獄中にある東ティモール人抵抗勢力の指導者であるシャナナ・グスマォンのスポークスパーソンとして、また抵抗勢力の外交活動の実質的リーダーとして、国連を中心に、東ティモール人の自決権のために働いてきた。1994年には、ブトロス・ガリ事務総長の仲介で、インドネシアのアラタス外相とも会見した。インドネシアの外相が侵攻後、抵抗派の外交指導者に会うのは初めてだった。
 今回の受賞理由にもある「和平案」は、「東ティモール民族抵抗評議会」の和平案として、1994年に欧州議会人権委員会でホルタ氏によって発表された(和平案の骨子は別紙を参照)。東ティモール人の自決権行使を3段階によって達成しようとするもので、インドネシアが交渉のテーブルにつけばこの和平案が抵抗勢力側の主張となるだろう。
 1995年、国連が便宜をはかっている「全東ティモール人包括対話」において、ベロ司教とともにホルタ氏は会議をリードする役割を果たした。
 1993年にトロロフ・ラフト人権賞、1995年にグライツマン賞を受賞した。
 米国アンティオック大学で平和学修士を取得。1987年にはオックスフォード大学のアンソニー・カレッジに客員研究員として滞在し、ハーグ国際法アカデミーや国際人権研究所(ストラスブール)で国際法の研修を受けた。後進の指導にも意欲的で、オーストラリアのニューサウスウェールズ大学法学部の「外交訓練プログラム」で、紛争地域出身の学生を対象として、外交や国際機構について教鞭をとっている。
 著作に『Funu: The Unfinished Saga of East Timor(フヌ・東ティモールの未完の冒険)』『Timor Leste: Amanha em Dili(東ティモール、ディリで会おう)』があり、さらにニューズウィークやファー・イースタン・エコノミック・レビューなどの雑誌にも評論を執筆している。


ベロ司教の国連事務総長あての手紙

ディリ、1989年2月6日

デ・クエヤル国連事務総長殿

 拝啓
 まず最初に私の貴下への心からの尊敬をこめたごあいさつを申し上げることをお許し下さい。
 こうして事務総長閣下にお手紙をさしあげますのは、ポルトガル領ティモールの非植民地化の過程が国連によってまだ解決されておらず、この問題は忘却のかなたに放置することはできないものだということを、閣下に知っていただくためであります。われわれティモールの住民としましては、わが国土の運命に関して、われわれも協議の対象となるべきものと考えます。したがいまして、本書簡を通じて、私はカトリック教会の責任者として、ならびにティモールの住民として、事務総長閣下にティモールにおけるより正常で民主的な非植民地化の過程、すなわち「住民投票」の実施を開始するよう要請するものであります。「住民投票」を通じて、ティモールの将来に関してその住民の意見が聴取されるべきであります。現在までのところ、住民の意見はまだ聴取されておりません。他の者たちが(ティモール)住民の名においてしゃべっているにすぎません。インドネシアは東ティモール住民がインドネシアへの合併を選択したと述べておりますが、ティモールの住民は一度もそのようなことは言っておりません。ポルトガルは問題の解決を時の流れにまかせようとしています。そしてわれわれは民族としても、国としても死に絶えようとしているのです。
 事務総長閣下は民主主義者であり、人権の擁護者でもあらせられます。事務総長閣下には、この地球上のすべての人々に、自己の運命を自由に自覚をもって、また責任をもって選択する権利を与えている国連憲章の精神と文言の尊重を、事実をもってお示し下さいますよう、お願いいたします。閣下、ティモール住民の多数の意志を知るより民主的な方法は、国連がティモール住民のために促進して行う「住民投票」の実現をおいてほかにありません。
 デ・クエヤル事務総長閣下にティモール住民へのあらゆる同上に感謝の意を表しつつ、私のごあいさつを繰り返して、筆をおきたいと思います。
敬具

ボン・カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ
名義司教
ディリ教皇行政官
(署名)


東ティモール民族抵抗評議会の和平案

(骨子のみ)

第1期(1〜2年間)

 ポルトガル、インドネシア両国が、国連事務総長仲介のもとで、ただちに会談を開始。東ティモール人が直接含まれる必要はない。この段階での交渉は次のものを達成することに焦点をしぼる。
1.すべての武力活動の停止。
2.東ティモール人政治囚の即時無条件釈放。
3.駐留インドネシア兵力を半年で千人まで削減。
4.重火器、戦車、ヘリコプター、戦闘機、長距離砲を東ティモールから撤去。
5.インドネシア文民公務員を50%削減。
6.国際赤十字の活動を全県に拡大。
7.ユニセフ、UNDP、WHO、FAOなど国連専門機関の現地アクセスを許可。対象活動分野は域内難民のふるさと帰還、環境の保全、開発プロジェクト、女性・こどものケアー、予防接種事業。
8.国連機関による人口調査。
9.人権委員会の設立。現地司教が委員長で、委員長が委員を指名。インドネシアの信望ある人権団体と国連人権センターの援助を受ける。
10.報道検閲を廃止。
11.政治活動と集会の自由。
12.ポルトガル語教育とポルトガル式教育の制限撤廃。
13.国連事務総長の任命になる駐在代表を1名おく。

第2期(5年間)

 第2期は次のようなことが行なわれる。

1.ポルトガルとインドネシアの関係正常化。
2.政党の合法化。
3.欧州共同体(EC)の公館をおき、ポルトガル人駐在官の存在でポルトガルを代表させる。
4.ポルトガル文化協会の設立。
5.国連の技術支援、監視下で地方議会選挙の実施。東ティモール人と認められた者のみが選挙権をもつ。こうして民主的に選ばれた議会が成立する。任期は5年。
6.知事の選挙。知事は東ティモール人であること。任期は5年。
7.当領域は貿易を行い、投資、土地所有、財産などに関する法律を発布することができる。
8.駐留インドネシア兵は3カ月以内に撤退する。その後当領域は軍隊をもたない。国連が警察を組織し、知事の指揮を受ける。
9.領域は独自の入国管理法をもつ。
10.インドネシア文民公務員のさらなる削減。

第3期 自決

 第2期は双方の合意によって延長することができる。ただし、延長提案が住民投票に付されるに先立ち、延長賛成が議会の3分の2以上なければならない。もし住民投票が第2期延長を否決したならば、第3期がはじまる。もし議会が第2期延長提案を採択できなかったら、議会はインドネシア政府との交渉が続いている間、3年を限度に機能し続ける。もし住民投票が第2期延長に賛成したならば、3カ月以内に新しい議会と知事を選ぶ選挙が行なわれる。第2期が終了したとき、あるいは第2期の第2政権が終了したとき、いかなる場合においても、第3期は次のようになる。

1.1年以内に自決権に関する住民投票と、それに続く制憲議会のための総選挙の準備が行なわれる。
2.選挙で選ばれた政府への権力の委譲。
3.東ティモール人政治指導者たちによる国民連合政府を構成する。
4.東ティモールは安保理常任理事国およびアセアンによって保障される「平和中立地域」として宣言される。
5.アセアンと南太平洋フォーラムに参加する。
6.すべての国連人権条約を承認、批准する。


全東ティモール人包括対話
All Inclusive Intra-East Timorese Dialogue

 ベロ司教とラモス・ホルタCNRM共同議長が重要な役割を果たしている和平への努力として、「全東ティモール人包括対話」が注目を浴びた。ノーベル委員会はこの会合のことをカッコ付きで「和解会談」(reconciliation talks)と呼んでおり、このことが若干誤解を与えることになってしまった。
 「和解会談」の名称で呼ばれているものは、正式には、この「包括対話」のことではなく、インドネシア政府がイニシャティブをとって、海外の抵抗勢力の一派であったアビリオ・アラウジョ氏(元フレテリン海外代表)を交えた、かなりインドネシア寄りの東ティモール人を集めて行った会議のことをさす。この会議は、主要な抵抗勢力指導者が参加せず、数度開かれたのちは事実上消滅してしまっている。
 国連のすすめる「包括対話」は、これと似ているように見えるが、イニシャティブが国連にあり、主要な抵抗勢力指導者たちが合併賛成派とともに参加している点で、大きな違いがある。一部のマスメディアでこの2つの会議の区別がついていないようで、それが名称の混乱を招いている。  この対話は、ポルトガル・インドネシア外相会談と並行的に行なわれているが、権限がないため、提案はするがそれを実現することはできない。しかし侵略後20年たって、東ティモール人の中の抵抗派と合併派がテーブルについた意義は大きい。日本政府は第2回対話に対し、国連の仲介努力支援として、10万ドルの拠出を行った。これは明石特別代表(当時)と日本の「東ティモール問題を考える議員懇談会」の提案で実現したものである。

第1回対話

 1995年6月、オーストリアのブルグ・シュライニングに30人の東ティモール人指導者が集まって行なわれた。会議は、人権改善が必要、国連総会決議37/30にしたがった解決が必要、東ティモール人家族の東ティモールへの往来の自由を求めるなどを内容とする宣言を採択した。会議中、インドネシア側から参加したギリエルミナ・ゴンサルベス氏(元東ティモール州知事)は、合併派東ティモール人が1975年侵略直前に、フレテリンの独立宣言に対抗して合併とインドネシアの保護を求めた「バリボ宣言」から自分は撤退すると発言して話題となった。彼はその後、ジャカルタにいて、インドネシアの統治は失敗したのであり住民投票が必要だと発言している。

第2回対話

 1996年3月、同じくブルグ・シュライニングに30人の東ティモール人指導者が集まった。ベロ司教は参加を辞退し代理を送った。ゴンサルベス氏はインドネシア政府の妨害で出国できなかったと主張した。会議は、東ティモール文化センターの設立を求める、東ティモール大学への財政援助を求める、東ティモール人の行政への参加促進、女性の権利の保護などを含む宣言を採択した。


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