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ゼミ選択のために説明会に訪れている多人数の学生らの面前で、公然と原告に恥をかかせる行為である。また、ゼミ選択への妨害行為でもある。この時点で、誰一人、問題行動を注意する者もなかった。名前というのは、人の人格権を象徴するものであり、これへの悪戯というは、極めて悪質な他人の人格を傷つける行為である。
この動機としては、次のようなことが考えられる。この数年前、原告の研究室前の廊下で、兼平氏が同人の指導する院生と大声で立ち話をしていたのを、原告が注意したことがあり、自己の院生の前で恥をかかされたと感じた兼平氏がこのことを根に持ち、原告に腹いせをしたものである。また、裁判における原告陳述書に描写したように、平成22年に兼平氏が教授に昇任した際に、その人事教授会において、研究業績の不備について鋭く追求したことがあった。その後も、氏による原告への些細なハラスメントは継続していた。

ハラスメントの集団性及び人権調査の不当の証拠
一見、たわいもないことのように見える。 しかし、次の諸点を証明する事実であると考えられる。
第一に、このようなことが許されて当然であるという、法学系教員ら全体の雰囲気が存在するということである。
次に、一層重要であるのは、大学によるハラスメント調査が恣意的で公平を欠くということを立証できるからである。重要なことは、前訴控訴審口頭弁論終結後に、原告が以上の事実関係について、大学の人権相談窓口を通じて大学に調査申立をしたことである。このときの大学側調査の不公正が明白である。

調査結果の伝達
対策委員会による調査結果を伝達した事務部とのやり取りを全て録音している。以下は、その内容を正確に伝えるものである。
平成26年10月2日に原告より人権問題相談員連絡協議会という大学内組織に対して相談を開始した。
1回目回答
これに対して、同年12月18日午前10時大学本部3階会議室において、人権問題対策委員会より決定が伝達された。伝達者はハラスメント防止対策室長の猪野周宣氏と人事課副課長久保修二氏(いずれも事務部)である。
猪野氏が「対策委員会委員長(担当理事副学長・曲田清維)の命を受けて、同委員会の決定を伝えます。文書ではなく、口頭で伝えるように指示されている」と述べ、結論的に、「原告の訴えるような事実関係があったことを確認するが、ハラスメントには当たらない」とした決定内容を伝えた。
これに対して、原告(前訴の)より、次の諸点の質疑を行ったが、猪野氏より、自分は権限がないので、持ち帰り、委員長の見解を質すとされた。
すなわち次の諸点である。
兼平氏の行為は名前を汚すような行為であり、重大な人格権の侵害である。ゼミ選択のためのガイダンスにおいて、セミ選択のための投票直前に、70名ほどの学生の面前で行われた点も重大な権利侵害に当たる。不破を「不和」と故意に書いたもので、特定の意味内容を有し、原告のした裁判提起に対するものとしてそれぐらいされて当たり前との兼平氏の発言も聞かれた。以上について、少なくとも謝罪に値すると考えるが、この点の見解を伺う。
調査の、対象・範囲、内容がどのようなものであったかを伺う。
本決定及び以上の質疑について、責任を有する者の名前で、文書により回答願いたい。
以上である。
2回目回答
これに対して、翌27年1月22日第2回目回答において(時間、場所、伝達者は同じ)、対策委員長代理(猪野氏)として次の回答が伝えられた。文書での回答は行わない。決定理由についての原告の問い合わせに対しては、「対策委員会はいかなる意味においても理由を決定するものではない」。
兼平氏の行為が意図的であったかについては判断しない。
少なくとも謝罪が相当の不適切な行為であったのではないかとの指摘に対しては、「ハラスメントには当たらないと判断したのだから、対応しない」。
調査対象及び方法について、「回答しない」とされた。
以上の回答に対して、原告(前訴)としては、70名を超える学生がゼミ選考のために集まる前で、コース所属教員全員がいるところで、兼平氏がこのような所為に及んだことで、大勢の前で恥をかかされたのあり、大変ショックを受けた。重大な問題であるとの考えを伝えている。そして、上記の態様でなされた兼平氏の行為は極めて不自然なもので、意図的行為に間違いない。そこで、意図について判断せず、しかもハラスメントに当たらないと決定された、判断のプロセスが知りたいとして、再度質問したところ、猪野氏より、これを委員長に持ち帰るとの回答を得た。
3回目回答
同年2月23日第3回目回答(時間、場所、伝達者は同じ)があった。猪野氏が委員長代理として次の様に述べた。
「ハラスメントに当たらないという結論は、総合的に判断したものである。これ以上の回答は行わない」。
原告からは、事実関係を認めた上で、そのような結論に至った理由が分からない。 調査対象及び内容と判断の根拠が分からないので、今後、情報開示請求の手続きによらざるを得ない、と伝えた。

情報開示請求
同年3月2日に次の法人文書開示請求を大学に対して行った。次の内容である。
「開示請求者が平成26年9月に人権問題相談員に申告し、同年10月2日に面談が実施された、法文学部総合政策学科における兼平裕子教授のアカデミック・ハラスメントに関し、同年12月18日に、事実関係の存在を認めながら、ハラスメントに該当しないとする人権問題対策委員会の決定が通知された。このことに関する人権問題対策委員会における審議の具体的内容が分かる資料及び当該人権問題対策委員会に提出された相談員等による調査に係る関係人らに対する聴取内容などの調査資料の一式」
これに対しては、同年3月26日、独立行政法人等の保有する情報の公開に関する法律第五条1号に該当する個人情報が含まれるとの理由で不開示決定が通知された。要するに、個人情報が含まれているので開示しないという。ハラスメント加害者として名指しされている兼平氏を巡る内容がここでいう個人情報ということである。
同年4月3日、同様の内容で、原告の個人情報の開示請求を行った。
これに対しては、一部開示が認められた。
一つが、人権問題相談員らが行った原告からの聴取内容についての報告書である。上記内容と同一の内容が報告書として纏められている。
本当は、対策委員会において考慮したはずの、加害側関係人らに対する聴取内容等の資料一式の開示請求を行ったのである。加害側である兼平氏らに対する事情聴取が有ったかどうか分からないが、有ったとするとその内容から、対策委員会の判断の妥当性が検証できると考えられる。被害側及び加害側の聴取内容がどの点で一致し、どの点で対立しているのか、そして対立点をどのように判断したかが重要である。兼平氏が原告の名前を異なる漢字で板書した基本的事実関係を認めているのである。判断の基礎となったこれらの資料は開示されない。
なお、全部開示となっているが、原告への聴取内容のみであり、その全部と言うようである。
他が、上記決定を行った平成26年11月25日付け人権問題対策委員会議事録要旨の一部開示である。但し、審議のプロセス、過程及び内容に関する部分については一切不開示とされている。結論部分のみあり、その他がほぼ真っ黒に塗られているもののみが送付された。「この案件をハラスメントとは認められない」とするが、事実を否定する結論ではない。事実関係を前提として、ハラスメントとはならないとする趣旨である。
以上より、大学におけるハラスメント調査というものがいかに片手落ちであり、不公平なものであるかが分かる。

前の裁判との関係
直近の訴訟の前提となった調査の担当副学長である曲田氏がこの調査の担当ともなった(外部者の入らない対策委員会の委員長)。
兼平氏の板書の問題は、前の訴訟において、最初の調査申立書に含まれない最近のハラスメント事例として、詳細に主張されていた。全く同一内容で(原告準備書面をコピー・アンド・ペーストして)、新たな人権調査申立てを大学に行ったものである。
裁判では何故か認定に至らなかった事実が、少なくとも基本的には大学によって認められたのである。曲田氏からすれば、「こんなことを再び蒸し返して煩く言う」と腹立たしく感じたのであろう。裁判ではこのようにいう。事実があったか、無かったか、それが重要である。両当事者が事実の存否に関して対立するなら、証拠のない限り立証責任のある方が負ける。しかし、基本的事実自体が自白されたなら、その事実があったのである。兼平氏が原告の名を「不和」と表記したのである。
人権調査が不当であることの特段の事情が、立証されたと考える。

大学が前の裁判でいかに嘘をついたか
次に、視点を変えて、この兼平氏の一件と裁判との関係について述べたい。これにより、大学が裁判でいかに嘘をついたかが明らかになる。
原告が、板書の件を裁判において主張していたのに、判決では認定されていない。原告側主張の整理にすら出て来ない。
裁判時における所属学部学部長(宮崎幹朗)の陳述書が重要な証拠として提出されていた。同氏は、原告採用手続における大学側担当者であり、以降、原告からの苦情対応に当たっていた者で、しかも問題の写真回覧等のあった当時、同一の宿舎に住居を有していた。大学に対する裁判であるが、個人として、裁判に最も関係の深い正に当事者的な存在である。この陳述書に次の様な件がある。
「私(宮崎)は直接にこの間の事情を了知しているわけではありませんが、原告が主張するようないやがらせの事実は認められず、むしろ、兼平教員は原告からの威圧的な言動に恐怖を感じて、研究室を移転したほか、原告と接触することを避けているものと聞いています。また、原告からの今回の訴えについても、原告への恐怖から関わるのが怖いとして、証言等を一切拒否しています」。
この陳述書の日付が平成24年9月6日である。板書の事件が、同年4月9日である。現在まで、同氏は他と談笑しながら会議等(少人数の会議であっても)に平気で、原告と同席している。板書の事件から、五カ月ほど後に、突然、恐怖に襲われ、自分にされたとする「言動」を証言することすら一切拒否するほどになったのであろうか。
この陳述書には、宮崎氏と原告との関わりから言って、他にも極めて重要な事実関係についての証言が含まれていた。愛媛大学における原告採用時の、採用担当者であったので、准教授までの昇任がほぼ確実であるとの説明、その他採用時の状況や当時の噂、講座及び学科の勧告文書(弁護士の頁参照)の内容等、全て、原告の主張を否定していた。事件を決定づけるべきものであった。
この明確な嘘が含まれている陳述書が信用できるであろうか。当然、控訴審終結後に原告からした兼平人権相談については、判決に反映されていない。新たなハラスメント調査の結果が、仮に、地裁判決前に出ており、原告主張に組み込まれていたなら、どのような結論になっていたのであろう。
しかも宮崎氏は、当初、証人として証言予定であるとして、裁判所及び原告に連絡していたにも関わらず、突然取りやめたのである。通常、陳述書とそれを書いた証人の証言を合わせて、信頼性のある証拠となる。人証を欠く陳述書というは、実は、とても危ない代物であり、裁判所によって、正反対に解釈されても仕方が無いのだそうである(知人の弁護士)。実際に、交代前の裁判官が、「人証のない陳述書ばかり出して、その意味が分かっているのですか」と叱りつけるように大学側に言っていた。しかし、交代した裁判官は、この宮崎陳述書も前提して判決を書いている。
最後に、兼平人権相談に関して、再度言及しておく。原告の裁判において、適正手続を欠く不適切な(第1回目)調査手続を行ったとされた対策委員会の委員長が、この新たなハラスメント調査を行った対策委員会委員長である曲田氏その人なのである。曲田氏自身が、前裁判において、大学が行った対策委員会の手続に問題が無かった旨の陳述書を提出している。

事務部の忖度事例
大学によるハラスメント調査というものが、いかに一方的で恣意的であって、権力側(教授等の上位者)に有利な結論先取のお手盛りであるか。よく分かるエピソードであろう。同時に、臭いものには蓋の隠蔽体質が鮮明である。
この新たな調査の一件が済んだ後に、別件で本部人事課に問い合わせたことがある。その返信メールが調査結果を伝達した二人の事務職員の一人である本部人事課・久保修二副課長からのものである。
その本文で、原告の名前を「不和」と表記していた。
これに対して原告が、強く抗議している。添付したPDFファイルは、原告からの抗議と別件問い合わせをしたメールであり、二頁目、久保副課長より原告宛メールの冒頭に「不和」先生とある。
久保副課長は、結果通知の際には、猪野氏の横に座り、黙々とメモをとっていただけで、一言も発していない。原告名の表記の誤りがこのように奇妙に連続するのは、官僚の忖度文化の一例である。
大学内パワハラ、アカハラ事件、例えば、ある教室・講座における教授と准教授との対立に伴うハラスメントの事件では、事務部は中立であるから、その提出する証拠(文書や証言)は通常裁判所に信頼される。原告の事件では、原告に不利な証拠として、大量の文書類が事務部から提出された。全大学組織を挙げて、原告1人に対してこの裁判を争っている。大学ぐるみであるとすると、事務部の証拠であっても中立性が疑われる。このメールの件は、このことを良く示すであろう。

大学はハラスメントの巣窟-集団的組織的ハラスメントの場合の調査の無意味
大学という組織はハラスメントの巣窟である。集団的組織的ハラスメントを生じる背景及びその場合の調査が無意味となる理由をまとめる。
大学によって、名称や人的組織の大きさが異なるが、一般に、文系においては「講座」、理系においては「教室」という単位が、大学組織内において最も緊密な人的関係のまとまりを示す。例えば法学系学部であれば、私法講座、公法講座、基礎法・政治学講座等となり、それぞれの専門分野の教員が所属する。
医学部であれば、診療科毎のまとまりがある。山崎豊子の有名な小説『白い巨塔』では国立大学医学部の「第一外科」の教授争いを巡る権謀術数が描かれていた。各診療科が、ただ一人の教授に対して、准教授、講師、助教・助手のヒエラルキー型組織を構成している。大学病院の教授回診では、教授を先頭に、准教授以下多人数の医師を引き連れて狭い廊下を歩いて行く有様を見たことがあるかもしれない。よく知られているように、所属医師の人事権や、人脈という意味における系列病院への就職斡旋の事実上の権限集約により、教授の権力が絶大である。
他の理系教室や文系講座では、このような意味での絶対的な教授の権力というものはない。しかし、中講座や大講座と呼ばれる文系講座では、一般には、少数の教授に対して、相対的に多数の准教授以下が所属し、研究業績が優れている又は性格が強い、政治力のある教授に、実質的な権力が集中しやすい。助教、講師、准教授、教授の位階を昇任していくことで、権威及び給料が昂進する。そして学部長等の管理職になるためには教授であることが前提とされる。早くから教授に昇任して準備できるもののみが管理職になれる。
この人事権を実質的に握るのが講座のボスたる教授なのである。
講座の構成員はこのボス教授を中心として人的なまとまり(派閥)を作り、そのほぼ言いなりとなる。このような講座が束ねられて学部を構成する。各講座のボス教授達は仲が良く、その結果、学部運営の実権を掌握する。もっともボス教授間で仲が悪いと、その所属講座に所属する教員の全てが互いに険悪な関係となる。その場合は、講座間の合従連衡による駆け引きが通常の決定方法となる。
最近の法制上、国立大学の各学部運営についても形式的には学長が行うものであるが、実質的には従来通り教授会ないし学部執行部に委ねられることが多い。国立大学では、教授会決定は構成員による多数決による。人事については、構成員である教員らの関心も高く、もめる場合もあるが、他講座の「内政」不干渉が通常である。講座のボスら及びこれらと親しい有力教授らには根回しが済んでいる。斯くて学部の重要事項はこれら教授らが話し合いで決めることになる。その他の教員らは余程のことがない限り、上層部の決定したことに、異論を唱えることがない。これが文系学部の組織的統制のあり方なのである。
講座のボス教授に睨まれることで、やがて学部全体に及ぶ集団的ハラスメントに発展する場合があるわけである。。
更に、各学部の学部長及び管理職は相互に人的関係を築き「親しい間柄」となる。そしてこれら各学部の学部長その他管理職の中から、学長、及び大学の理事や副学長などの役付きが専任されるのが通常である。
各学部の問題について、他学部が干渉しない、内政不干渉が基本的態度である。そして、大学全体の問題にせよ、日本的な、「あの人がいうのだから間違いない」・「あの人の言うことは聞いて挙げよう」型の人的関係に基づく決定方法が採られる。最高の学問の府たる大学なのだから、合理的にものを考えているだろうなどというのは、お門違いも甚だしい。
調査申立て当時の原告所属学部には、学部長を一年間、その後労務担当副学長を努めた要職経験者(湯浅氏)がいた。この人物を中心として、学部長や関係する有力教授らが、学長や大学内部組織の一つである対策委員会(その委員長が理事兼副学長である)に働きかけて、自らにとって好都合な結論のために根回ししていたとしても不思議はない。
「調査申立てなど完膚なきまでに葬り去れば良い。被害側はそれで意欲を消失するだろうから、それでことを納める。後は任せておいてくれ」、と言われればそれまでなのである。よほど明白な証拠がなければならない。あるいは、被害者が外部の市民団体を引き込み、マスコミが騒ぎ出す必要がある。
愛媛大学においては、対策委員会の役割が巧妙に仕組まれている。ここで、加害側、被害側の、証拠その他の力関係を図りつつ、醜聞を外部に出さないで済むなら出さないという処理が可能なのである。もうどうにも仕方が無いという案件は、加害教員の処分含みで調査委員会に送れば良い。ここがいわばバッファの役割を担う。
憲法上保障された大学の自治がある。 結局、大学の自治は、教授会の自治であり、教授会の自治は、実は講座の自治だったのである。
一旦、何かの偶然であっても、講座のボス教授や学部有力教授層の反感を買うと、講座所属教員の全て、学部所属教員の全てを敵に回すことになりかねない。教員ら相互の人間関係と学内政治により、ハラスメントの全体性と継続生が生じる。
大学教員となる者は学者である。偏固者、偏屈、あるいはコミュニケーションが苦手でも、研究能力があればやっていける。一般の公務員や会社員なら、平机の並んだ「島」の並列する執務室で大勢が顔を合わせながら仕事をしている。互いの協力が必須な職場であろう。以前、原告が勤務していた市役所でも、誰かが困っていると、優しく声を掛けて、手助けしてくれる人が必ず現れた。大学では、文系は特に、教育、研究の業務は自己完結的に行うことができる。その限りでは互いの協力は不要なのである。個別の研究室を与えられ、各人が一国一城の主となる。各々の独立心と自尊心のみが研究を進める上での支えとなる。
教員組織と事務部は、互いに協力し合うと同時に、対立する利益集団でもある。事務部は、各係毎、各課毎に独立した縦割り行政を行う官僚組織である。教員組織と事務部の間も、基本的に相互に内政不干渉であって、それぞれの決定事項につき不可侵と言っても良い。学部においては、形式的には学部長が教員組織と事務部を統括するが、実質的には事務長が事務部を統括し、この間の協力が行われる。事務職員は有力な教員の言うことを聞く傾向がある。
教員は、講座のようなグループを形成して、その一員として行動することで、組織全体の中で、かろうじて自己保全を図ることができる。仲良くなるのも、喧嘩するのも、講座単位で行動するのである。
原告は、採用時の噂によって、当初より疎外され、講座の一員として迎えられたことがない。そうすると、群れと対峙する一匹狼のようなものである。一旦、「潰し」の対象となると、どうにも救われない。もともと党派的な行動様式がどうにも苦手であってみれば、致し方ないのかもしれない。
今一度、まとめてみると、第一に、有力教授らの、人事に対する影響力を通じた、学部教員に対する支配的権力が存在し、第二に、集団心理によって惹起される自分も対象にならないかという恐れや、下位の者が上位者の顔色を伺い、乗り遅れることで有力者に睨まれる心配が惹起される。
確かに、人それぞれ温度差が有り得る。しかし、本来ならそのような卑劣な行為を行う人格ではない者であっても、日本的人間関係の中で、巻き込まれてしまう場合がある。郷に入れば郷に従えである。ハラスメントが集団の全体に及び、また長期間に渉って、構成員が入れ替わっても受け継がれていく。

大学の自治は治外法権?
この事件では、大学の自治が治外法権を意味してしまった。
判決の頁参照。
憲法法上保障される大学の自治により、警察が犯罪事実を関知しても、大学への通知及びその同意がないと、大学構内には立ち入ることができない。平成二三年頃、既に時効を迎えていたが、この事件に関して相談した警察官によると、例の写真事件の態様から、その当時所轄の警察が事件に気づいていた。そうだとしても、大学の自治の故に、面倒を避けてしまった初動の誤りがあったとされた。
「こういう事件(わいせつ物陳列)の類いは現行犯逮捕が基本だ。情報提供があったら現場に踏み込む。そこで証拠を押収する必要がある。大学に通知している間に、逃げられたら終わりだ。裸の写真といっても、所詮、被害者は男だし、むしろ騒がない方が良いかもしれない。こういう事件は、被害者が気づいていなければ、それで良いし、構わないだろう」と思われたのだった。
原告に対するそれは、要するに、前半は嫉妬とやっかみから始まり、所属学科教員らが特定の技術職員や宗教団体の一部の信徒らをその目的に使った結果、後半では、そのことが理由で彼らに使われることとなった。職員らを「使う」というのは、動機を与えた上で、その行動を利用する意図を有する場合を含む。無提携の提携と言えようか。多くの場合に、沈黙という方法が採られる。これが、それほど非常識なこと、通常では理解不能なことが行われた理由である。
