今日の話題・松山人について考える

 

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松山はわたしの故郷です。このお盆に帰った時、久しぶりにお城山に登ってみました。登山家を目指して?中学の頃から毎週のように駆け上った皿ケ峰の山々も懐かしく眺めました。

松山は江戸時代の城がある城山を真ん中にして発展してきた近代的な城下町です。いつの間にか高いビルが立ち並び、子供の頃の個性的な街の様子が薄れているのに驚きました。もうすぐ、人口も50万人。そこに住む人々の暮らしも、心も、個性が薄れて、どこにもある近代的な都市のそれと同じになっていくのでしょうか。

しかし、昔は個性豊かな松山人がいたのでは、と、ふと思ってこのペ−ジを作っています。

一口で 『松山人はどんな人?』 を語るのは難しいですが、松山人について書かれたよい本があります。
正岡子規、秋山真之、秋山好古、高浜虚子をはじめとする松山人達(嬉しい事にみんな高校の先輩です)と彼らの友人であった夏目漱石など、明治の青春群像と、明治という時代を見事に描いた、司馬遼太郎の 『坂の上の雲』 を読むと、古き時代の松山人の事がよく分かります。ただ、この本、最初の頃はよいのですが、中頃から、簡潔に書く作業が放棄され、司馬遼太郎の作家として能力に疑惑を感じさせます。が、名作。ぜひ、お読み下さい。


 【 愚陀仏庵 】 

 

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東京の、同じ学校で、机を並べて学んだ正岡子規と夏目漱石。二人の友情は生涯かわることなく続きました。

子規は東京で失意の境にあった漱石を松山にくるように誘い、また、漱石もその友情を思って、松山に来て、松山中学(わたしの高校です)の英語の教師となりました。小説 「坊ちゃん」は我が母校が舞台になっていますが、小説に書かれた出来事は、東京でのできごとです。漱石が松山で住んでいたのはこの家、愚陀仏庵です。

そして、俳句の改革者として有名であった正岡子規が病気療養のために松山に帰り、短い間ですがこの家で漱石と一緒に暮らしました。1階と2階は同じ間取りで、二部屋づつ。子規は1階に漱石は2階に。漱石が松山中学から帰ると、1階の部屋では子規を慕う松山人が集まって俳句の会。呼び止められて漱石も加わって俳句を詠む。漱石は松山時代もその後も俳句をよみつづけています。漱石は1年で松山を去りますが、二人の篤い友情は生涯かわることはありませんでした。

 

 

 【 一草庵 】

 

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小さな頃から外で走り回るが好きで、10分でも暇があれは家からすぐの山、御幸寺山(164m)に登って 『バカヤロ−』と叫んでいました (-.-;)y-~~~ 

その登り口の左手、墓場のすぐ下に、一草庵 という小さな家があって 『山頭火・・・』 の看板が立っているのはずっと知っていました。が、一草庵??それ何?? 山頭火??それ何??で、
中学2年になって山頭火が人の名前で、住んでいた家が一草庵ということを初めて知りました。種田山頭火は昭和15年10月11日にこの一草庵で生涯を終えています。

山頭火の後半生の漂泊の旅は、この一草庵を拠り所としています。松山の一草庵から各地への旅に出ています。そして、、旅先で困窮すると松山人が旅先まで迎えに行き、助けにいき、また、彼の句集を出版し、彼の伝記を編み、彼の最後を看取ったのは松山人です。山頭火のブ−ムは静かに続き、各地に記念館のようなものもありますが・・・・。あんたらね〜死んでから褒めてどうする!生きている間に親切にしなくてどうする!と、ひそかに思っています。

 

四国は弘法大師の国。松山もまたお遍路さんが歩く街。漱石も山頭火も心の旅人。そんな旅人に優しいのが松山人というものです。

 

 

【 誠振庵 】

 

まったくの市井の人だった私の 祖父、周五郎 も生き方の面白さでは、松山人であったかもしれません。

私の先祖達は江戸時代には 「あべ」 という姓を名乗っていて、代々の家は松山城がよく見える、他国からの侵略があれば最初の戦闘がおこる要害の地、東長戸にありました。おそらくは松山藩の傭兵?野武士? 山賊?の家系であったと叔父の日記に書き残されています。

しかし、江戸時代には戦争もなく、実際には農家であったようです。その家屋敷跡を今は亡き父に幼い頃教えてもらいましたが、記憶では確かに広大な敷地でした。しかし、父の代には、家を継いだ長男の事業の失敗によって家屋敷は他人にわたり、往時を偲ぶ、家や門などは既にありませんでした。

さて、明治の人 祖父周五郎 は幼い頃、両親と死別し、辛苦の生活をおくっています。しかし、非常に才覚があったようで、たちまり家を立て直しました。当時松山では珍しかった梨の栽培を手がけるなどもし、経営の才覚も優れていたようです。 『周五郎の作る梨は美味いと大阪でも評判になっていた』 と祖母はよく語っていました。

その、周五郎は一方では、若い頃から、華道、茶道、仕舞(能)、謡曲(宝生流) をたしなむ大変な趣味人でした。しかし、趣味に時間を費やす周五郎を快く思っていなかった長男の心情を察した祖父周五郎は、すばやく家督を長男に譲り、『花ばさみ一丁を持って』 家を出ました。そして、まだ独立していなかった私の父と妹(叔母)をつれ、、松山城のすぐ北の木屋町に小さな家を構えました。この 『花ばさみ一丁を持って』 というところも祖母は嬉しそうに語っていました。

花ばさみ一丁で華道の教師として生計をたてることにした、周五郎は 「薫香」 と号し、小さな家が、誠振庵 です。華道は池坊流。 『伊予に薫香あり』 と言われるほどの腕前であったようで、弟子は数百人、間接の弟子は数千人であったかもしれないと、叔父は書き残しています。

薫弘の物は昭和20年の松山空襲でほどんど焼けてしまいましたが、焼け残ったアルバムを見ると、そんな写真がたくさん残っています。どのくらいの人に教えていたかは正確には分かりませんが、薫香 は大した華道の師であったのは確かと思われます。
薫香は華道の他にも、茶道、仕舞、謡曲も優れ(特に茶道は)、どれも人に教えるほどの粋にあったので、あちこちの行事にも招かれて 『白足袋をはいて、よく出かけていた』 そうです。

池坊の本家、京都の池坊六角堂に 『伊予人 薫香』 と刻まれた石碑があるので(あったのは確かな事です)、それを見に、訪れたことがあります。しかし、六角堂は整備されていて、その石碑は発見できませんでした。事務所で尋ねると、「捨てた物は無く、どこかに移築されたはず。また、古くても門弟の記録はあるので調べてあげましょう」 と言われましたが、その折りは時間がなく、まだ、果たせていません。

 

news1017.jpg (11784 バイト) 薫弘の子供達は父も含めみな頭脳明晰でしたが、父も私も 薫弘の 文芸的才能をこれぽっちも受け継いではいません。私はマイナス100で、わずかに残っていた薫弘の花器で 「これは便利〜」 とオタマジャクシを飼っていた罰当たりな孫です。

周五郎の才覚と、薫香の才能を濃く受け継いだのは、父の兄 敬三郎 です。華道や茶道の腕前は不明ですが、俳句に精進していました。全国紙などにも投句し、かなりの数の賞をとっています。おそらくは相当な俳人になったはずですが、昭和18年に若くして病死しているのが惜しまれます。

我が家にはおそらくは句会の折りの俳句と思われる短冊が200枚ほど残っています(誠振庵でも句会が開かれたのでしょう)。その中の敬三郎の句です。

敬三郎は優しい字を書く人です。
表と裏に1句づつ。

『 蓑虫の ただ一つ見ゆ 芽のざくろ 』
『 芽ざくろの 濡れてゐるなり 春の雨 』

大変観察力のある人です。どちらの句をとったのでしょうか。
(どちらも名句とは言えませんが敬三郎の句を集めたノ−トはあります)

 

 

 

news1018.jpg (21948 バイト) news1019.jpg (17716 バイト) 薫香の短冊が2枚だけありました。敬三郎が「薫香、進境著しい」 などどと書き残しているので、敬三郎の影響によって晩年に俳句を始めたようです。

薫香はすごい字を書く人で、見ただけでも圧倒されます。

 

句の一つは、父が学校を終え(晩秋の頃)て職を得たことを(喜んで)詠んでいます。

『 俸禄の 墨附き得たる 朝冷(さむ)し 』

 

 

 

実は私は祖父がどのような人であったか知りません。というのも、私が生まれるずっと前、昭和13年3月10日に突然の脳溢血で亡くなっているからです(62歳)しかし、父の就職を祝った句を詠んだということを知って、嬉しく思いました。私は意外と照れ屋で(信じてもらえませんが・・・)、また、抱きしめ型人間でもありません(優しさはあります (-.-;)y-~~~)。が、祖父も意外とそうであったかもしれないと、身近な人に思えたからです。案外優しい人であったのでしょうか。

祖父の死を悼む句もありました。 『 花待たで 君は逝きける 忽然と 』 −耕平−

一度も会ったことがない祖父、周五郎、薫弘。もう少し長生きしてくれて、いろいろ話が聞けたなら、私も、もう少しは、ましな人間になれたかもしれません。

 

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