梅小路物語−3


開館後の梅小路蒸気機関車館
開館当初は鉄道ファンの多くが訪れたこともあり、1日平均1000人を超える入館者があり、
好調な滑り出しを見せた梅小路蒸気機関車館だったが、思わぬ所から問題が起きた。
開館当時は全検・中検Bの検査担当工場として長野工場が指定され、中検Aは梅小路機関区で検査されることとなっていたが、
1976年(昭和51年)いっぱいで、定期検査を担当していた長野工場蒸気機関車検修施設が廃止されることになったのだ。
理由は長野工場で電車の検修を担当することになり、その設備用地として梅小路用のSL検修用地をを充当すると決まったためだった。
このため、検査切れになった動態保存機達は、検査切れと共に構内運転すら出来ない危機が訪れることになる。
こうしたなかで1978年(昭和53年)元旦に奇跡が起こった。
なんと当時の高木国鉄総裁が初夢で蒸気機関車が多くのファンを乗せ走る夢を見たのだった。
さっそく高木国鉄総裁は新年の記者会見で
「人類の偉大な文化遺産である蒸気機関車を走らせて、後世に伝えたい」
と発表したのだった。
正式には1979年(昭和54年)3月28日付け運車達第800号として通達された。
8630 9633 C612 C622 D51200号機の5両は展示走行用備品(有火状態での保存で構内走行のみ可)
C1164 C56160 C571 C581 D511号機の5両は引き続き動態保存機(有火状態で車籍を有し本線運転が可能)
検査施行工場として新たに鷹取工場が指定された。
残念なことにB2010 C551 C59164 D50140 D52468号機の5両は車籍を失い静態保存用備品となった。
この通達により動態保存機5両の本線運転の道が残され、同年8月1日の「SL山口号」の運転が可能になった。

その後、1987年(昭和62年)3月に再び車籍の整理が実施され、C612 C622 D51200号機が車籍を復帰、
代わりに、9633 C1164 C581 D511が火を落とし静態保存用備品となった。
1994年(平成6年)2月には、C621号機(静態保存用備品)を迎え、現在の16形式18両がそろった。

1995年1月17日の阪神淡路大震災では、鷹取工場内で全般検査中のC571が被災する事件もあったが、鷹取工場スタッフの努力により同年4月30日に出場、再び山口線に復帰した。
鷹取工場は震災復興再開発の対象になり広大な敷地は神戸市に譲渡されることになり、動態機の検査は梅小路蒸気機関車館内で全般検査まで出来るよう設備をととのえる事で、震災後の危機を乗り越えた。
以下の経過により現在(2001年8月)では、C56160 C571 C612 C622 D51200号機の5両が動態保存機。
8630号機は展示走行用備品(有火)、それ以外の12両は静態保存用備品となっている。


10月14日の鉄道記念日に、機関庫から顔を出す保存機達
2001年10月14日




現役時代C59164号は呉線で急行「安芸」を牽引していた。
鉄道記念日のこの日は、なつかしいヘッドマークを付けていた。
2001年10月14日




展示線を走る8630号の横を、山陰線のクハ111が走り抜けた。
2001年10月



紅葉いろずく梅小路公園脇の展示線を走行する8630号、右は東海道線の貨物を牽くEF66電気機関車。
2001年11月




大正生まれの彼は、今もスチーム号で活躍している。
2001年11月




梅小路からは、東寺の五重塔が遠望出来る。
2001年11月




スチーム号の横で記念撮影する観光客も、京都の観光名所になれば良いのだが。
2001年10月




9633号のロッドを磨く整備士、錆ひとつ無い保存機は梅小路蒸気機関車館ならではだ。
2001年11月




梅小路蒸気機関車館の入り口には、C5788の動輪が展示してあるが、
その横にはある開設の記念碑を読む人は少ない。


鉄道100年にわたる蒸気機関車の栄光をたたえ
ここにその雄姿を永く保存する。
昭和47年10月10日 日本国有鉄道


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