梅小路物語-1

梅小路蒸気機関車館の歴史
梅小路機関区の前身は、1876年(明治9年)9月5日に開設した東海道本線の京都機関庫と山陽本線の二条機関庫を合併し、1913年(大正2年)に梅小路機関区として誕生した。
当時の機関庫はレンガ造りの小規模なもので、より多くの機関車を収容出来るように翌1914年(大正3年)現在の鉄筋コンクリート製扇形車庫(20線)が建設された。
現在蒸気機関車館として活用されている鉄筋コンクリート建ての扇形庫は、わが国では初期鉄筋コンクリート建築として産業考古学あるいは建築史的にみても大変貴重な建築物でもある。
当時から大型蒸気機関車を中心に、東海道本線、山陽本線、奈良線、草津線の担当機関区として隆盛をほこった名門機関区だった。
全盛期(1953年)には、C62-9両 C59-15両 C57-2両 C51-5両 C50-11両 D51-9両 8620-13両 2120-1両 計65両ものSLが梅小路区でけむりを上げていたが、1956年(昭和31年)11月、東海道本線電化を境に蒸気機関車(SL)の配置は毎年のように減少した。 
1971年(昭和46年)には、山陰本線京都口のSL牽引列車のために最後まで残っていたC57-6両( 5 15 39 89 127 190 )を最後に本線運転のSLが梅小路区から姿を消した。
C57撤退後はC1196が1両、梅小路蒸気機関車館開館直前の1972年(昭和47年)9月まで、構内の入換え作業のためわずかにけむりを上げていたのみだった。
C1196廃車後は、姫路第一区からC11311が据付ボイラの代用として転入し国鉄SL最後の年、1976年(昭和51年)3月末まで、時々けむりをあげていたのはあまり知られていない話だ。

梅小路蒸気機関車館開設まで
1967年7月、当時の磯崎国鉄副総裁が山田運転局機関車課長に対して「動力の近代化により年々減っていく蒸気機関車を動態で保存したい、スチームエンジンその文明を後世に残すのは技術陣の崇高な使命であり国鉄でなければ出来ない事業だから」と、SLの動態保存を検討するように指示したのが始まりだった。
さっそく国鉄本社内に「鉄道100年記念行事企画委員会」が発足した。
1968年(昭和43年)3月の国鉄常務会で、鉄道100年記念行事企画委員会からの具体案が審議され1972年(昭和47年)の鉄道開業100周年記念事業として、蒸気機関車を動態保存する事が決まった。
具体案の概要は、候補地として東北本線の小山機関区扇形庫とし。
動態保存予定車として、C621 C591 C581 C571 C56160 C5345 C51239 C1164 D511 D521 8630  9633  の12両がリストアップされていたようだ。(小山機関区の扇形庫が13車線だったが13は縁起悪いから12にしたという説もある)
その後、機関区の歴史的価値、周辺線区の運転条件、見学者の交通の便などを具体的な条件として再検討した結果、京都の梅小路機関区が最もふさわしい候補地とされた。
1971年(昭和46年)9月、鉄道100年記念行事企画委員会は保存地を梅小路機関区に決定し、動態保存車を発表した。
予定車の内、C621 C591 D521はリストからはずされ、新たにB2010 C622 C612 C59164 C551 D50140 D51200 D52468が動態保存されることが決まった。
(当時現役として残っていた形式の中で、C12形、C50形、C60形 D60形、D61形がなぜ候補車に上がっていないのかは不明)



私が初めて梅小路蒸気機関車館を訪れたのは、高2の修学旅行で関西方面に行った時だった。
この旅行で一番の楽しみにしていたのが、京都での自由見学でSL達に会えることだった。
開館と同時に扇形庫に直行した私達一行は、幸運にもC622号の出庫と展示運転に間に合った。
車庫12番線を単機で往復するだけの展示運転だったが、興奮しながらカメラを向けたのを思い出す。


大騒ぎしている私達に気が付いたのか、機関士さんが転車台で盛大にドレインを切ってくれた。
たった半日だったが、充分に煙分を補給した気分だった。
1974年10月




23年ぶりに梅小路を訪れた。展示館が旧二条駅の移築になっていてりっぱになっていた。
扇形庫は昔のまま、機関車達も昔のまま、だがけむりを上げているSLは少なかった。
1997年10月




梅小路のアイドルB2010号とC622号
1999年4月




C622号が転車台に向かう。
1999年4月




1999年4月



2001年4月



スチーム号を牽くC622号、特急列車を牽いて走る姿をもう一度見たいものだ。
2001年4月


梅小路物語-2へ  目次へ