猛暑の只見線
2005年の只見線は災難続きだった。
3月12日午後9時頃、早戸〜水沼間の下大牧地区で土砂崩れがあり線路が土砂に埋まった。運悪く、同日午後9時23分、会津若松発→川口行437D(キハ48・40の4両編成)が同所にさしかかり止まりきれずに土砂に突入し1両目は脱線してしまった。
乗客・乗員5名が無事だったのは、不幸中の幸いだったが同日から宮下〜只見間は不通になった。列車を撤去するために、重機が必要だったが事故現場までの道が無く、重機の通れる道作りから始めなければならないため復旧予定がたたない状態だった。
当然のごとく、3月19日〜21日の「SL会津只見号」は運転中止になった。
4月8日只見線は27日ぶりに全線開通した。
4月25日福知山線で107名が亡くなるという大惨事があり、鉄道事故の恐ろしさをまざまざと見せつけた。
6月9日午後9時25分すぎ、3月の事故と同じ列車437D(キハ48・40の4両編成)が川口駅近くの上井草橋(長さ135m幅5mの只見線をまたぐ農道橋)をくぐった所、何と橋げたがずれ落ちて来て先頭のキハ48の天井部分と接触、運転士が天井の異音に気が付き緊急停車したため、大事には至らず乗客・乗員4名にケガはなかった。
上井草橋は老朽化したため、すぐ隣の新橋の完成を待って解体撤去作業中だったが、解体を請け負った業者が撤去作業手順とは異なる安易な作業で解体しようとしたため、橋のバランスが崩れて橋げたがフラフラしていた所に437D列車がさしかかり、列車の振動で橋げたがずれ落ちたという笑えない事故だった。(写真)
同日から只見線の宮下〜川口間は不通になり、6月11,12日の「SL会津只見号」は会津若松〜宮下間の折り返し運転(復路はDE10牽引)になってしまった。
橋げたに挟まったキハ48を引き出すための復旧工事は翌日から始まったが、橋を持ち上げるために橋全体を支える橋脚を只見川に仮設しなければならなくなり、只見線の復旧は6月一杯かかってしまった。6月30日の試運転は無事終わり、7月1日〜3日の「SL会津只見号」は予定どうり運転する事が出来たのは幸いだった。
問題の橋の撤去は8月中旬までかかったが、なんとか撤去作業が終了した。
2005年8月の「SL会津只見号」は6,7,13,14,20,21日の6日間無事運転されました。