寄せられたお便り-2


トップページへ

2012年12月21日更新。

多くの方からご意見、ご感想、会津での思い出などをメールでいただきました。ご紹介致します。


酒井です。
2012年12月21日早朝、30万アクセスを達成いたしました。
皆様のご愛顧の事と存じます、ありがとうございました。
引き続き、ホームページの充実に務めますのでこれからもよろしくお願い申し上げます。


酒井様.。初めまして。
私は、塩川町生まれのAと申します。1959年10月生まれ。酒井さんより2歳ほど若いようですが、時を同じくして蒸気機関車の魅力にハマり、小学6年生の冬から中学卒業直前まで会津の蒸気機関車をオッカケていました。リコーオートカラー35というゼンマイ巻きのカメラをお年玉をためて購入し、同級生3人の影響もあり本気になって撮影していました。当時の我が家は、塩川駅を出て1kmぐらい喜多方方面に向った線路のすぐ横にあり、私の部屋の窓を開けると、15mぐら先に蒸気機関車が走るのです。高校一年の夏に北海道で最後のSLを撮影し、それが最後の蒸気機関車の撮影でした。

高校を卒業して写真学校に進み、S社の写真室、K写真事務所、NYのKスタジオを経て、現在、郡山市の山奥に住みつつフリーカメラマンをしております。写真の世界に入るきっかけは、もちろん蒸気機関車だったのですが、ながらく忙ししい業界にどっぷり浸ってしまい、昔日のSLの写真を忘れていました。数年前、塩川に住む父親が他界し、倉庫にしまってあったガラクタを整理していたら、当時の資料やナンバープレートの拓本が出てきて、数十年ぶりに懐かしい記憶に溺れました。

ある日、友人との会話の中で酒井さんのサイトの話しが出ました。さっそく見たのですが、あまりの懐かしさと、写真の良さに感激して、全てのページに見入ってしまいました。体験したままの当時の情景が、そのまま再現されていることに、当時、まだ未熟だった自分の技量を悔しくさえ思える程でした。

写真集の第一話「幼き日の思い出」の一番最後の写真なのですが、4人の少年が拓本を取っていますこの子供達が、おそらく、私を含む仲間4人なのです。服装や、雰囲気がその当時のままです。左がK君。Sビデオの受光部を開発しています。二番目が私。三番目がH君。S社でバイクのエンジン開発をしています。彼は浜松に住んでいますが、時々、成田方面にある、ミニSLを運転しています。一人下にいるのがB君で塩川にいるとのことです。人生の、ほんの1シーンではありますが、自分の生き方を方向付けた重要な記録です。酒井さまに、このような写真として記録されていることに感激しました。酒井様、私の生きている証しとして、自分が被写体となったこんなに素晴らしい写真を知りません。可能でありましたら、写真を自分の部屋に飾りたいと思うのですが、いかがでしょうか。可能であるならば、生涯、大切にしたいと思います。

郡山在住 A 2012.10.12


酒井です。
2010年11月11日でホームページ開設以来10年、延べ26万2430カウントで迎えました。
開設当時は小学生だった子供達が、今では2人共に大学生です。10年間は長いようであっという間の10年でした。
それもこれも、皆様のご愛顧の事と存じます、ありがとうございました。
引き続き、ホームページの充実に務めますので、これからもよろしくお願い申し上げます。


酒井様
 
台湾関連のサイトから流れ流れて、この「汽車に魅せられて」に辿り着きました。
東京で生まれて戦中、戦後にかけて6年間ほど会津本郷に疎開していましたので、「お気に入り」に追加して懐かしく見ております。あの頃の子供がそうであったように、私も鉄キチで会津におりました間には、会津線のタンク機関車ばかり見ていた私には、若松駅でスマートなテンダー機関車を見ているとワクワクしたものです。
 当時、会津本郷にいた間の記憶では、川砂利やバラスト用に石を採取するためなのか短期間であったようですが、本郷駅から大川に向かって右カーブで線路が敷設されたように思いましたが記憶違いでしょうか?
それと会津高田に向けて右カーブしますが、その右側方向にも採石用の線路が敷設されたように思います。
 
昭和23年前後だったでしょうか、川南中学校が木造の新校舎を完成させました。部落ではなかったが松原と呼んでいた地域のように思いますが・・・・もう60年も前のことなの、心の中のフィルムがぼやけてしまっていますが、子供心にも鉄道に興味があった私としては何か心の中に連綿と残っているのです。もしかすると只見ダム関連の資材採集用だったのかなあ?
 
川南中学は2年の一学期までで夏休みには東京に戻りました。当初川南中学は小松部落(だったかなあ)にあった川南小学校に併設され、私はこの新校舎の川南中学へは通学できなかったように思います。先祖のお墓と家が今の本郷町にあり、菩提寺は会津若松河原町にありますので今でも年に一回は墓参に帰郷していますが、家は縁があって住んでもらっているものの身内ではないので、日帰りか市内のホテルに泊まってのショートトリップです。
歳を取るにつれて「会津での生活は今までの人生の10%に満たなかったが、会津っぽのDNAが流れているなあ。」とつくづく思っている昨今です。
 
「何か思い出でも・・」とのお誘い言葉に乗せられ、忘れかけた思い出と記憶を綴ってみました。
 
東京在住 M.Y ’10.4.28

酒井さま、はじめまして。タカクと申します。
 
酒井様のHPを拝見させていただき、懐かしさに感動しました。
私は、かつて会津線のSL運転が廃止になる直前のころ当時の生録ブームの影響を受けて会津まで音録りに出かけていました。
とくに、桑原付近のサウンドがすばらしく、再生するたびに鳥肌が立つほどのC11の響きがとても気に入っています。
酒井様の桑原駅付近の写真を見ると、当時の情景と重ね合わせることが出来ますね。桑原駅の給水塔の手前(若松寄り)にトンネルがありましたよね・・・?たしか、写真マニアの人たちがトンネルの上で三脚を立て撮っていたような気がします。桑原駅も湖底に沈み、再訪したくても行けないのがとても寂しいですね。
 会津線・只見線無煙化にあわせ、生録活動をやめてしまいました。(北海道に一度出かけたくらいです)そして3年前に、最新の録音機を携えて只見線の生録を再開した次第です。録音機の高性能化で音質は抜群ですが、走行するSLの力強さがなくなり往年の迫力のあるサウンドが録れないのが残念です。(壊れないように大事に運転しているんでしょう) 幸い、山間にこだまするあのC11の響きは当時のままでうれしいです。
 
懐かしい写真を見せていただき、ありがとうございました。ますますのご活躍をお祈り申し上げます。
只見線でお会いするかもしれませんね。失礼しました。
 
2010.2.4 タカク

酒井です。
2010年1月22日早朝、25万アクセスを達成いたしました。
皆様のご愛顧の事と存じます、ありがとうございました。
引き続き、ホームページの充実に務めますのでこれからもよろしくお願い申し上げます。


酒井様
 
突然のメールですみません。先日、デゴイチよく走るにて只見線の情報を呼びかけて、わざわざお答え頂いたお礼がしたくて・・自分のパソコンから掲示板を呼び出して書き込みしようと思ったのですが、どういう訳か掲示板が呼び出せなくて、結局こ酒井様のHPから直接お礼させて頂くことになってしまいました。T.Mと申します。今年の夏は残念です。鉄ちゃんのマナーの悪さも一因なのでしょうか?
 私は、東京北区在住の48歳ですが、まだ只見線歴は1年ちょっとの鉄ちゃんにはまだ手の届かない新人です。その時にデジカメを購入したので、カメラの知識もまだありません。皆さんフィルムカメラが多いので小さくなって撮っています。
5月の新緑で会津只見号は4回目になりますが、今回初めて一人で泊まりがけで行きました。宿泊先は第一鉄塔下の道の駅(車中泊)です。
中学2年の夏休みに友達に誘われ、最初で最後の只見線のSLに接することができました。翌年の夏には北海道の室蘭・夕張方面に1週間ほど行って最後の現役を見ることができました。その後は、大井川鉄道などにも行きましたが、会津のC11とは比較できずに、そのうちカメラから遠ざかるようになりました。会津のC11に魅せられてからわずか1年あまりでの現役SL引退のショックが大きかったせいか、SL以外の鉄道にはほとんど興味がなくレンズを向けることはありませんでした。旧電機などは細々地元で撮ってはいましたが。
そんな訳で、行くのは只見線と、ついでに磐越西線と真岡鉄道ぐらいです。
 
会津は本当にいいですね。昔から大好きです。
磐越西線には数回行き、また行きたいとは思っているのですが、元々車の運転が苦手で、C11ならまだしもC57の追っかけはとても無理なのでなかなか行くことができません。高速バスで行ったこともありますが、現地での身動きがとれずに、遠路はるばる出向いても2ポイントしかシャッターチャンスがないと思うと躊躇してしまいます。まして、帰りのバスの時間から返しは喜多方近辺に限られてしまいます。
車で一緒に行く相手もいないので、車で一人だと気楽でいいのですが、すごく無駄に思えてなりません。
 
HPの方、拝見したのは今日がはじめてなので、ゆっくり時間をかけて拝見して行きたいと思います。
このたびは情報を頂きましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。長くなってすみません。
 
2009.6.11 T.M

初めまして。

 日中線の検索からこちらに参りました。

 熱塩駅は高校時代、合宿で降りた立った駅として思い出深い場所です。
昨年夏に訪れ、ただただ感傷に浸るばかりでした。
 >http://h2ar-holly.cocolog-nifty.com/tefu/2008/08/post_8a11.html
 >http://h2ar-holly.cocolog-nifty.com/tefu/2008/08/post_777b.html
かつての姿をこちらで拝見し、更に印象深い物となりました。

 SLに乗った記憶はないのですが、会津を疾走したSLたちの姿と
懐かしい風景にふれ、胸熱くなるものを覚えました。
 今はなき会津線桑原駅の秋景色。せせなぎ川河畔の磐梯山(慈母観音なし)。
SLという「熱い生き物」が織りなした失われた風景は、特に気に入りました。

貴重な景色をたくさん見せていただき、感無量です。
ありがとうございました。

2009.4.22 = ★ = 会 津 天 文 同 好 会 = ★ =


酒井様
介護の必要となった叔父を 励ましたいと思い・・・叔父が運転していたSLを探していました。
叔父は 樺太鉄道でD51を運転し、樺太鉄道で皇族のお召し列車の時は 助手として煙を出さないように かまをたくのが大変だったと聞きました。終戦後、引きあげとなり、叔父は 大湊でSLを運転していました。
叔父は老人ホームに入ってからは 懐かしい樺太時代の話が多いと聞いて、彼の思い出を 画像でみせてあげたいと思いました。
「SLのかまたき」 初めて見る写真に 涙があふれました。
私も先輩の皆様から 若い頃のSLのかまたきの話をよく聞いたものでした。
叔父から たくさん話を聞いても、実感は薄いものでしたが・・・酒井様のHPと出会い、当時の 叔父の国鉄の制服姿もよみがえってきました。HPには私の知らないことがたくさんあって・・・叔父は この「時」をSLとともに過ごしてきたのだと感じました。
酒井様のHPをプリントして 大湊で過ごしている叔父に送り届けたいと思います。
1つ1つのお話が 叔父の心を豊かにしてくれると思います。
心からの感謝をこめて・・・ありがとうございました。

東京都在住・石塚
 2009.1.14


酒井様

お返事ありがとうございます。
なさそうですか・・・私も図書館で古本をいろいろ見てだいたい形式と数は把握してきたのですが
50年代以降のような配置表がないためナンバーが特定できず、製作に入れなさそうな感じです。
RMの付録はもちろん買いました(ありがとうございます)!いま並び替えをしていますが、形式によっては特定の年(1910や1933)での存在が確認されてるので断片的に配置表があるのかと思ってました。

私は定年が待ちきれず作りはじめてしまっています(笑)
突然のメールにも関わらず丁寧にお返事頂きまして、どうもありがとうございます

杉山 2008.9.3


酒井です。

残念ながら杉山様のさがしておられます、1950年代以前の会津区のSL配置表なるものはたぶん存在しません。
小サイト資料室の資料はほとんどが、神田時代の交通博物館の図書室や、過去の鉄道雑誌を神田の古書店で探し歩いて調べました。
抜粋して未完成ながらSLだけに絞り掲載しておりますが、必要なら転載してもかまいません。


酒井様

はじめまして。
母方の実家がある只見線の近くで幼少時代を過ごしたのでこちらの会津地方の鉄道史は、生まれる前の故郷のを感じることができとても感動しました。

鉄道模型が趣味でして会津線時代からの鉄道を模型での再現をライフワークにしようとしています(笑
そのためにいろいろ調べていますが1955年以降なら手元に詳細資料がありますが、
それより古い時代の配置表は形式が何両という資料しか持っておらず。
1931,1933,1941,1945とかなり古い時代の機関車配置の詳細が掲載されておりますが
参考資料をお教えいただくことはできないでしょうか。
初期の気動車も「動力車」ということで再現できないか、と思っております。
こちらのホームページにあるように別の方から断片的に情報提供を
頂いただけなのでしょうか。。。。

突然のメールで申し訳ございません。
国会図書館や鉄道博物館に通っているのですがなかなか情報が得られず
困っているところでして申し訳ございません。

杉山 2008.8.25


はじめまして、山形の写遊人です
左沢線のサクランボ号の情報をネットで見てましたら貴ホームページにたどり着き楽しく拝見させていただきました。
特に会津地方のSLにつきましては懐かしく見せていただきました。
昭和47〜49年郡山に住んでおりましたので電化でSLが無くなると云うニュースに触発されて追いかけておりました。
さすがに沢山撮っており、すばらしい会津地区のSLの雄姿を見せていただき楽しませていただきました。
まさかこんな形で当時の写真を見ることが出来るとは思いもしませんでした。
冬の情景はやはり地元に居ないとなかなか撮れるものではありませんし夜の風情もとてもステキです。
廃線になった日中線・・・当時を髣髴とさせる絵柄が沢山ありSLを追いかけていた頃を思い出しておりました。
49年に金沢に転勤した為SLの写真は撮らなくなりました。
現在山形に住んでおり数年前から左沢線をSLが走り、久しぶりに血が騒いで追いかけをしておりました。

ホームページは山形の風景・花などをアップして・・・
「写遊人の写真館」と山形の観どころを案内している「ようこそ 出羽の国 山形へ」を運営しております。
写真館のほうには思い出のSLを一組だけスライドでアップしております。
http://www.h4.dion.ne.jp/~diwa/
お出かけしてご覧下さいと云うほどのものではありませんが見ていただければと思います。

昨年秋に大内宿まで行きました。沿線を走りながら当時を思い起こしました。
ステキなSLの写真を見せていただき有難うございます。

写遊人 2008.5.28


はじめまして、新潟市のY.Oと申します。
最近、私もHPを立ち上げたばかりで、自分のサイトが検索エンジンにヒットするか調べておりましたところ、
酒井様の「汽車に魅せられて」が出てまいりました。
実は、私のサイトは「蒸気機関車に魅せられて」というんですが、出てきませんでした。
そんなわけで、酒井様の「汽車に魅せられて」を拝見させていただいたところ、あまりの素晴らしさに、それこそ「魅せられて」しまいました。豊富な知識と、撮影技術の高さ(私などがいえることではありませんが)にしばし見入ってしまいました。今後、勉強させていただきます。

Y,O 2008.5.14


郡山在住で、鉄道模型と保存機探訪をしている者です。
貴サイトで、私が撮影した機関車たちの現役時代を知ることが出来ました。
福島・宮城・山形・新潟4県で保存又は活躍している機関車の大半が会津に足跡を残していたんですね。
特にC58は会津では地味でしたがそのラスト4両が全て保存されているのは嬉しいです。 

A.A  2008.5.11


酒井です。
2008年2月16日23時30分、20万アクセスを達成いたしました。
皆様のご愛顧の事と存じます、ありがとうございました。
引き続き、ホームページの充実に務めますのでこれからもよろしくお願い申し上げます。


はじめまして。『汽車に魅せられて』HPを拝見いたしました。
新しく就いた職で、鉄道全般に関する知識を身につけねばならず、しかし今まで通学通勤にごくごく普通に電車に乗っていただけだったので正直、大変苦戦しております(^^;
 
非常に細かい点で分からない事が有り、ネットで調べている中でこのページに出会いました。
その点を解明する記述(弁慶号に関することだったのですが)がなかなか無く困っていたのですが、ナゾがすっきりと晴れて心が軽くなりました!
大変詳しく紹介されていて、とても参考になりました。
感動してメールしてしまいました。ありがとうございました(^▽^)
是非また勉強に寄らせていただきたいと思います☆☆☆

K.S 2007.8.9

貴兄のHP、昨夜発見して楽しませて頂いております。
小生は貴兄と同世代。やはり北海道SL終演を期に鉄道趣味を一旦卒業いたしました。

只見線、会津線、日中線・・・ステキですね。特に只見線は小生の一番好きな路線です。
東京近郊に在住の小、中学生の頃、何度か只見線のC11に会いにいきました。
最近では数年前から年に2度ほど、ドライブがてらに只見線に出かけております。

小生は自動車会社に勤務しており、現在は中国に赴任しています。ちょうど3年になります。(来月末、帰任予定)
社命で仕方なく赴任したのですが、それでも赴任前はせっかくだから「大陸の鉄道」を・・と考えておりました。
ところが、汚いだけの中国、特に汚い鉄道。興味を逸してしまいました。やはり鉄道の良さは、美しい風景の中を走り、マナーの良い人々を乗せて、古くてもそれなりに掃除が行き届いている車両・・だと思いました。
こちらの鉄道車両は、ちょうど日本でいうと10系寝台車のレベルです。我々世代にとっては特に古くて汚いという印象では無いのですが、そこに「マナーという概念」が無い中国人達が乗ると、とても快適な環境とは言えなくなります。鉄道が好きな小生でも、極力移動は飛行にしてしまいます。

湖北省の山の中の町、「十堰」というところで2年間暮らしました。弊職の勤務する自動車会社の城下町であり、町の中に第一工場、第二工場、・・・と事業所が点在している様なところです。その事業所間を専用線が結び、物流を行っています。なんとD51クラスの蒸気機関車なんです。
1年前から武漢という大都市に移り、今はそこで暮らしています。まさかこんな大都市(東京の8割くらいの都市)には無いだろうと思っていましたが、専用線にはやはり大型蒸気機関車が、驚きました。どちらの町の蒸気機関車も、汚い中国の特に汚い物にしか見えず全く興味を持てません。やはり美しい国を走ってこそ、私の好きな蒸気機関車なんですよ。

帰任したら、美しい国の鉄道、特に美しい只見線にまた通おうと思っております。
とりとめのない長いメールとなってしまいました。
HP、これからも楽しみにしております。

k 2006.12.5


貴サイト「汽車に魅せられて」を拝見し、魅せられた者です。
私は会津には縁もゆかりもがないのですが思いを寄せる一人で、当然のように会津地方の現役時代のSLにあこがれております。
只見、会津線の末期の頃でしょうが事細かに記録されており、当時のことが目に浮かぶようです。
特に「寂しい秋が」と「郷愁の只見線」の冒頭の文章には何か共通するものが会津の方たちの思いが感じられ印象に残りました。
SLの写真も会津線のもの(今はなき桑原辺りが)特に印象的です。
最近の「猛暑の只見線」最後の写真は素晴らしいですね。
蒲生川を渡る絵ですがこの地方を知り尽くした酒井さまならではの絵ではないかと思いました。
「奥会津には日本の原風景がある」と結んでいます。
一連の写真を拝見し
最後にジーンときました。

T  2005.9.1

酒井です。
2月24日昼、10万アクセスを達成いたしました。
皆様のご愛顧の事と存じます、ありがとうございました。
引き続き、ホームページの充実に務めますのでこれからもよろしくお願い申し上げます。


はじめまして酒井様。
昨日、今日(2005.2.11,12)と磐越西線のD51を撮りに行きました。
思うようなできばえでなく、
HPの写真でも参考にしようと検索していたところ酒井様のHPに会いました。
閲覧して驚きました。
自分が小学校高学年〜中学の頃の会津若松機関庫があるではありませんか。
たぶん私は酒井さんと同じ
小学校、中学校と思います。小学校の校庭からはC11がよく見え、年に2,3回は学校の誰かが線路に入ってしまい汽車を止めてしまっていました。若松駅横の遮断機のある踏切も中学校に通う時の通学路です。入れ替えのC11や会津線・只見線の出発・到着の列車でよく待たされました。
実は私も当時カメラ小僧で、よく機関庫へ行っては写真を撮っていました。
中学時は門田・桑原・
宮下・水沼まで撮影に行きました。
今はダムで水没してしまった桑原のトンネルの上からの写真は、
も同じところで撮りました。
日中線のさよならSLの写真にはもしかすると自分も写っているので
はないかとよく見てしまいました。(この列車に私は乗っていました。)
私は仕事の関係もあり12年くらい前から実家に戻り生活しています。
写真を拝見し、当時の様子
が思い出され思わずメールをしてしまいました。
これからもHPを拝見させて頂きます。
また、素晴
らしい写真を有難うございます。

1960生 H.K  2005.2.12

初めてメール送信させていただきます。
私もSLフアンの一人です。
酒井さんの撮られた写真の数々に釘付けになりました。
只見線の逆光でのシルエット、磐越西線のコスモスとC57のコントラスト、挙げればきりがありません。
感動しました。
また、SLとの出会いの思いを
かきたてられます。
2月の雪の中の只見線、思い切って行きたくなりました。
そんな思いにしてくれたすばらしい写真、有難うございました。

O・A  2004.1.20

はじめまして。名古屋に住む中村と申します。
ときどき4歳の長男と拝見させて頂いています。
いつもすばらしい写真をありがとうございます。
私も子供のころからの鉄道好きですが、最近は子供にかこつけて、梅小路や大井川へ行っています。
会津地方にはご縁がありませんが、ぜひ只見線をたずねてみたいと思います。

今後ともますますのご活躍をお祈りいたします。

中村 2003.10.9


「汽車に魅せられて」は、3ヶ月ほど前から拝見しています。
1969年から3年間、猪苗代から西若松まで高校に通学した者として同時代性の共感を覚えました。
また、このようなライフワークを持っている人をうらやましくも感動的でした。
私の父は旧満鉄に勤め、また郡山市在住の義兄は日中線の機関助手で、その息子は昔カメラ小僧でした。
そんな環境でしたが、その後、茅ヶ崎あたりで音楽にのめりこみ、鉄道からしばらくはなれていたところ「会津のけむり」によって再び胸のときめきを感じました。
今、会津の里は見知らず柿の色が染まりました。
週末には宮下の桐の里倶楽部の湯船からから只見線でも眺めようとおもっています。
会津はアイリッシュ・ミュージックかサンディ・デニーがよく似合います。
 
 郡山市 鈴木 2003.10.9


「初夏の只見線」拝見しました。
私も今年の只見線は3波のべ5日間出撃しました。
梅雨時の設定だったので雨にぬれたしっとりした写真のイメージを膨らませて出かけたのですが、「あいにく」雨には一度も当たらずじまいでした。
鉄橋の写真はみなさんひしめいてお撮りになるので敬遠がちだったのですが、若葉が強い日差しに輝いて水面に映る様はこの時期独特のもの。
想定外のことだったのできちんと撮らなかったことがとても悔やまれます。
帰ってきてからやけに目に焼きついて離れません。
前半戦の「桐」もここぞという場所が見つけられず悔しい思いを残しました。
第1鉄橋は見事な場面をとらえましたね。川霧はたのんで出るわけでもないし、待てば待つほど会えないものです。決定的なときにその場にいなくては撮れないものですからとても貴重ですし、またさすがにうまくまとめられているなと思いました。
脱帽です。
只見線は今後も運転が予定されていてうれしい限りです。
ぜひ(しぶい色での客車をつけての)通年運行に期待を寄せたいところです。
ありがとうございました。
 K 2003.6.29

こんにちは Aです。
只見拝見しました。
6月の運転でみなさんのUPを見てきましたけど、酒井さんの只見UP「第1鉄橋の川霧」には目が釘づけになりました。
いや〜最高ですね。ス、素晴らしいです。
やはり曇り!雨上がりか湿気の多い日だったんでしょうか。
自然条件が揃わなと現れないしもちろん汽車の通過時間もあるからこれはもう運そのもの、狙っていてもなかなか撮れませんよね。
私は試運転初日、やはり水鏡の気に入った写真が撮れましたがこの川霧には負けました。
適いません。羨ましい限りです。
もう!ひとこと言いたくてメールしちゃいました。
またお邪魔します。ではでは

A 2003.6.28

当日はくもり空で時々雨のあいにくの天気でした。
川霧は鉄橋下から15分ぐらいであんな絵になりました。
撮影後、引き上げる時には一面に広がっておりました、私は3日目で出会えたので幸運でした。


はじめまして。
愛知県岡崎市に住む、あと6日で48歳になる主婦です。
我が家もやっとのことで、インターネットができるようになりました。
初心者の私も早速慣れない手つきで「東長原」を検索してみました。
実は私の故郷は、会津若松の隣の河東町東長原です。
デコイチよく走るの表紙の写真の、東長原駅の踏み切りのすぐそばです。
皆さんからのメ-ルを読んでるうちに、酒井様のホームページを見つけることができました。
19日は半日パソコンの前にしがみついていました。
見ているうちに、涙がとめどなくでてきました。
私はSLファンではないので専門的なことは何も分かりませんが、小学校1年〜6年までの6年間、東長原〜広田間をSLで通学していました。
昭和36年〜42年までで、そのあとあの辺ではSLの姿は見なかったように記憶しています。
ランドセルに定期券をぶらさげて、たった1区間でしたが未知の体験だったので、とてもこわっかたような気がします。
酒井さんも言われていたように、私たちの小さい頃は雪がとても多くて吹雪の日には汽車が1時間遅れはザラでした。
駅から家が近かったので、よく家に戻ったものです。
今のように家に車がない時代だったので、汽車がくるまで待っていました。
広田から小学校までは歩いて20分くらいでした。
帰りはよく、三菱鋼材からの近道をして乗ったものです。広田の駅から引き込み線があったのは覚えていますが、三菱鋼材がSLの墓場だとは今まで知りませんでした。
写真に写っていた駅員さん後姿ですが、知っています。
名前は知りませんが広田駅に長くいたし、いつも改札はあの駅員さんでした。
汽車に乗り遅れると、時々貨物に乗せてもらいました。
当時の客車は、写真にもあったように全部木で、硬くてなぜか引き戸の横に日本地図がありました。
東長原に近づくと勾配になっているせいか、汽車の音が力強く感じました。
窓から顔を出すと、石炭で黒くなったことを覚えています。
あの頃はなんとも思わなかったSLも、今になってみると皆さんのおかげで本当に懐かしく、40年前が甦ってきます。
中学3年間は徒歩通学でしたが、高校はまた汽車通で会津若松まで通いました。
でも、もうその時は西線は電化になっていました。
高校は若商だったので、西若松から歩いて通いました。
運動部に入っていたので、帰りはいつも最終でした。
会津地方各地から生徒が来ていたので、その時初めて田島や、弥五島、上三寄、坂下、宮下、塔寺、喜多方、山都など、いろんな線があることを知りました。
私は西線で若松から近かったのですが、猪苗代や関都から通っていた人もいました。

昭和48年卒業とともに、私は会津を離れました。
忘れもしません。
3月12日会津若松駅の1番線から蛍の光が流れるなか、親や親戚に見送られ「特急あいづ」で故郷を後にしました。
就職後、初めて帰省するときは仕事が終わってから、豊橋から新幹線、上野から23時56分発のばんだい5号に乗り翌朝5時何分かに若松に着くと、父が車で迎えに来ていました。
その夜行も、いつのまにかなくなってしまいました。

結婚して25年、毎年会津には帰っていますが、昨年会津若松駅でばんえつ物語号を見たとき異常な興奮を覚えました。
あの匂い、あの音、それは確かに昔のSLのものでした。
でも何かが違います。
あの客車ではだめです。
昔、6年間乗っていた者としては複雑でしたが、仕方ありません。
皆さんのおかげで、いろんな情報を得ることができました。
今度の磐西のSLも行きたいのはやまやまですが、皆さんのメールを楽しみにしています。
今年会津には雪がないそうですが、その頃には降るといいですね。
本当に長くなりましたが一生懸命書きました。
これからも、よろしくおねがいします。

2003.1.21 中島


 いつもわくわくしながら拝見させていただいております。
埼玉県さいたま市在中の K と申します。
 
生まれも育ちも埼玉の私ですが、母が会津出身なので会津の血が流れているのでしょうか、過去の写真を見ていくうちに懐かしさでいっぱいになり、念願のマイパソコンを購入出来たので早速メールさせていただきまた。(ちなみに母の実家は会津高田町伊佐須美神社そば)
 
今でこそ新幹線の開通や磐越自動車道でぐっと近くなった会津ですが、私の記憶では 特急あいづ・急行ばんだい にて4時間近く列車にゆられていくか、高速道路で郡山I・Cから一般道にて峠をこえて、左手に猪苗代湖、右手に磐梯山の間をぬけて会津盆地が見えてきたことをよく覚えております。
私は昭和48年生まれなので、自分が見て触れた会津の蒸気機関車は、ばんえつ物語号の登場までまったくなかったかと思います。しかし汽車に魅せられてのHPを拝見させていただき、私の知らない故郷に出会えたことに感動しました。(只見線が渡る大川の水量にはビックリ。只見線-2より)ありがとうございました。
残念なことに12月末のばんえつ物語号には指定券を購入できたものの、体調不良のため乗車できませんでした。今年も写真は撮られてますか?何とか年明けの 奥利根号・みなかみ物語号 どちらかに乗車できればと期待をいだいております。
 
撮影の際のご苦労などたくさんある中いつもいい写真ありがとうございます。今後のご活躍を期待しております。
 
2002.12.24

貴HPを拝見しました。
とくに、蒸気機関車時代の日中線は圧巻でした。
ワタシは昭和41年、大阪生まれですので、蒸気機関車は実をいうとピンときませんでしたが、貴HPの写真を見て、かつての国鉄黄金期を垣間見た気がしました。

ワタシのHPでも書いていますが、日中線には存命時に1回と廃止になってから1回訪れています。
もう日中線ほどの魅力のある路線は日本にはありませんね。

先日の3連休を利用して、会津若松と喜多方に行ってきました。
喜多方の焼き鳥屋で地元のヒトと話をし、日中線のことを訪ねると「もう廃止になってから、30年はたつんじゃないか」といわれました。
地元で日中線の記憶がだんだんと薄らいているんやな、と思ったものです。

なんかとりとめのない文章になってしまいましたが、あまりにも貴HPに感動しましたので、メールをお送りします。

今後の貴HPの更なるご発展を祈念いたしております。

吹田太郎 2002.10.20


酒井様、はじめまして。
Nと申します。

突然のメールで申し訳ありません。
「汽車に魅せられて」いつも拝見させていただいております。
私も、1973年から74年にかけて、何度となく会津へ訪れました。
もちろん、目当てはSLでした。初めて訪れたのが、73年の7月でした。
まだ中学1年生になったばかりでしたが、ちょうど早岐から転属になった門鉄デフの254号機を見て、感動いたしました。
なんせ、SLを見たのが3回目くらいでしたから。

そのすぐ後、8月には日中線を初めて訪れました。いい所でしたね。
ずいぶんと会津が気に入ったようで、何度行ったことでしょう?・・
いつも、上野駅23時48分発の「ばんだい5号」で若松まで行き、日中線始発列車に乗るのが定番でした。懐かしい思い出です。

今月末、28年ぶりに会津へ行きます。
若松、喜多方など、のんびりしたいのですが、時間の関係で、「ばんえつ物語」に乗るだけの日帰り強行軍です。
若松では、1.5時間ほど待ちがありますので、少しばかり思い出に浸ろうかと思っております(笑)

長文失礼いたしました。

N 2002.8.20


はじめまして、こんにちわ
私は、愛知県に住む30才の会社員で、大の鉄道ファンです。
酒井さんのホームページを拝見させていただきとても感動しています。
会津地方は、私の妻の実家があり毎年、帰省で行きます。
見覚えのある場所や、聞き覚えのある地名に他人に思えない親近感がわいてきました。
また、昔の会津地方の姿がよくわかり今と比べる事が出来るので、妻も「懐かしい」と、口にしてます。
去年、会津鉄道に名古屋鉄道の「アルプス号」が売却され、走るとの情報を聞き、また「お座敷トロッコ列車」や磐越西線の「ばんえつ物語号」只見線の「会津只見号」などタイムスリップしたような、周りの環境も手伝って鉄道ファンの私には、魅力ある地域になっています。
これからも、酒井さんの会津に対する思いを写真にして残して欲しいと思います。
これからのご活躍をお祈りいたします。

M 2002.6.24


汽車に魅せられてを拝見しました。
すばらしい写真を堪能しました。
私も貴殿と同世代で、日中線・会津線・只見線には、何回かC11を撮影に出かけました。
貴殿の写真を見て、懐かしさでいっぱいになりました。冬の会津加納駅や、夏の只見川橋梁
秋の大川の紅葉など昨日のことのように思い出されました。
私は特に日中線が好きでした。冬の早朝の621列車の雰囲気は悲しいぐらい好きでした。
今でも思い出すと胸が熱くなります。
また、アクセスさせていただこうと思っています。
ありがとうございました。
 
2002年6月16日 田中

こんにちは。先日ホームページをリンクさせていただきました高橋です。

今日、酒井さんが会津若松におられた頃のC11やC58の写真をすべて見せていただきました。
多分高校時代に集められた写真なのでしょうが、これだけ撮影されたとは本当にすごいですね。3600枚もお持ちなのですか。
1973〜4年と言いますと、私もすでに小学3〜4年になっていて今でも記憶が相当クリアでして、30年近く前とは言えそんなに昔という気がしません。にもかかわらず福島であれだけSLが走り回っていたと言うのは、意外な感じがしました。

写真はどれも素朴な日本のかおりがして、時間が経つのを忘れてしまいました。
磐梯山をバックに走るC11の客車列車とか、いいですね。
今ではなかなか許されないのでしょうが、機関区の中で撮られた写真も臨場感最高でした。
また廃車になって三菱の屑鉄工場に運ばれて行くC11なんてのも、心に残りました。

実は先日休暇をもらって10日程日本に帰りました。その時、長年行先不明になっていた私の写真が、4枚だけですが出て来たのです。これらも1973〜4年ころの物です。構図も何もあったものではありませんが、よろしければご覧ください。ミノルタの35mmレンズ付き2眼で、SSか何かで撮りました。本当は数100枚あったはずですが、鉄道から心離れた時期が長く、その間にネガごとどこかへしまい込んで見つけられなくなってしまったのです。私が好きだったEF15とEF62の写真が多く含まれていたはずなのですが。残念ですが、これからも諦めずに探します。

http://web.singnet.com.sg/~htakahas/1973/ef62_freight_200.jpg
http://web.singnet.com.sg/~htakahas/1973/ef58_express_200.jpg

酒井さんは、F3とFM2メインなのですか。
私は父の好みもあってずっとミノルタのAFを使って来ましたが、レンズのキレが良くて撮影者の言うことを良く聞いてくれるニコンのマニュアル機に興味を持つようになり、ここ1〜2年でこれら2台を立て続けに中古で買いました。
小さい割に重くて手に持った感じが良く、頑丈、シャッターの感触も歯切れ良く、撮っていて楽しいカメラですね。
最近MD−4の出物をやっと見つけたところでして、これから鉄道写真にも使ってみようと思っています。

それでは今後ともよろしくお願いします。

高橋 2002.4.27


酒井様
 またまた素晴らしい写真を拝見させていただきました。八木岡あたり、春夏秋冬の情景がどれをとっても直ぐに感じることが出来ます。
水鏡、田植えの前の雲雀の声が響いてきます。春の八木岡小さな苗に風があたり清々しさを感じられます。
野仏、如意輪観音様が微笑んでいるような・・。
すすき野を行く、秋風そよぐ天の高さ、そして野焼き、冬枯れの中に春を待つ心が潜んでいました。
いつ拝見させて頂いても、何か心が温まり、カメラを持って出かけたくなるのが酒井さんの写真ですね。
 
お地蔵様の木として有名なあの畑の中の観音様にそんな由来があると走りませんでした。
汽車だけでなく、小さな木、小さな花の一輪などの周りの風物にも目を向けなければなりませんね。
どうも有り難うございました。

 忠賢八高
2002.3.4

突然のメールで失礼いたします.
貴殿のページを拝見して懐かしい気持ちでいっぱいです.
私も会津地方には何度も行きました.知っている機関車の知らざる写真がとても興味を引かれました.
貴殿のページのさらなる発展をお祈りいたします.
いやしかし本当の気持ちは言葉には表現できません.

2002.2.18 野沢


ご無沙汰しております。
北海道端野の林です。
「冬の湿原を走る」を拝見させて頂きました。
酒井さんが北海道にいらしたのが、1月26,27日ということだったので興味深く見させて頂きました。
といいますのは、僕も27日石山で撮影していたからです。
コメントを読ませて頂いていると、石山では最前列で撮影されていたとか・・・。
今、思い起こすと、もしかしてあの方が酒井さんだったのかなあと思われます。
酒井さんの左側に、年輩の方がいらっしゃったのではないでしょうか。
確か、ミノルタを使用されていたと思います。
そして酒井さんの後列には4,5人のファンの方達がいたと思いますが、僕はその後ろに一人でいました。(ほぼ左隣にもう一人いましたが・・・)
皆、すごいカメラを持っているなあと思いながら、ニコンを使っている人がおらずそこに最前列でニコンを構えていらっしゃる方がいて、あの人は何を使っているんだろうと思いながら、C11が来るのを待っておりました。
もしかして、その人が酒井さん本人だったのかもしれないと思いながらメールを打たせてもらっております。

撮影当日3日前に中古のF90Xを購入し、早速それを持っての撮影行きでした。
慣れないカメラなので、当然使いなれたカメラ(FM2)も使用しての撮影でしたが、見事F90Xでは失敗してしまいました。(笑)
帰路は僕もはじめは川湯駅近くの踏切に行きましたが、人が多くとても入りきれる状態ではなかったので、そこからもう一本奥の踏切で撮影しました。
その後、塘路で撮影しようと思ったのですが、写真を撮らずじっくり見たいという気持ちが強く、細岡駅を出た先の右カーブの終りの辺で車を止めて列車を待っていました。
しばらくすると真っ暗の中を、汽笛とドラフトが聞こえカーブの向こうが明るくなってきました。
やがて、2灯の前照灯を煌煌とつけた207号機が姿を現し、続いて171号機が見えました。
灯かりひとつもない湿原の鉄路を、2両のC11はキャブの明かりのぬくもりと、軽やなドラフトとともに疾走して行きました。
後に続く客車の心地よいジョイント音、そして最後部のヨの郷愁を誘う赤い尾灯が闇夜を流れ、それが見えなくなる頃、ポーポッポと絶気合図、応答合図が聞こえてきました。
静まり返った湿原には、C11達が残していった煙の匂いがまだ、かすかに残っていました。
夜汽車を見たのは、蒸気現役時代のD51牽引の貨物列車を最後に実に33年振りです。
あーやはり蒸気はいい・・・。こんな歳にもなって、涙が出そうになりました。
撮影しないで、じっくり見て良かったと思いました。
もしかしたら、撮影しないで見るという行為は、どんなに一流のカメラで撮影しようとも、それに勝るものはないほどの贅沢かもしれないですね。

僕はまた明日、C11を撮影しに行ってきます。
もし、今度どこかでお見受けしたら、声をかけさせて頂くかもしれませんがその際はよろしくお願いします。
また、これからも素晴らしい蒸気の写真を載せて下さい。
それでは。
  2002.2.11 林 


はじめまして。山内と申します。
ホームページ拝見いたしました。
なつかしい写真に、感動させていただきました。

私は、昭和50年から七日町北側の住宅地に住み着いております。
写真にありました小学校は、私も通学しました。

2002.2.5


夕日のカット素晴らしいですね。
ハーフNDですか、私も買ってみようかな〜
石山の爆煙もいいですね、私は人が多いと駄目なのでしかし一度は行ってみたい、また来年はもっと人増えるでしょうね。
二週間も違うと空の明るさもかなり違いますね、来年は酒井さんの行った週にします。
勉強になりました〜ありがとうございます。

えもやん 2002.2.5


こんばんわ。ご案内有難うございます。早速拝見にあがりました。
トップの写真から思わずワクワク、さすが、流石の連続でした。
26日の塘路の白樺、五十石、磯部内とそれぞれがなんとも言えない味わいです。
中でも塘路はコントラストも最高です。
とても素人の私には手が出せない、思わずうなってしまいました。
そして夕景、日没3分後が返って夕景迫る釧路湿原を演出してくれたようですね。
 これではまた来年お出かけになられるのでは。私も再び行ってみたくなってしまいました。
向山 2002.2.4

酒井さん初めまして、私は水戸に住む中年のフライマンです。
去年の夏、岩手の渓流釣りに行って釜石線のSLを偶然撮影し、今は禁漁時のフライ(毛針)を巻くのを止め休日は、真岡線に写真を撮りにいくほどとりこになっています。
さて酒井さんの素晴らしい写真は自分の作品の手本にしてます。
先日、北山〜益子の男体山を仰ぐの場所にいきましたが、わかりませんでした。どうしても釣り師の性分」か山や川が入った風景に憧れます。
もしいいポイントがありましたら教えて下さい。   メイフライマン(迷フライマン)より
2002.2.3


冬の磐越路早速拝見させていただきました。
冬らしくどのカットも白煙が非常に美しく収められています。
4,5枚目は24日でしょうかね。私は23日に同じ所で撮りました。
500ミリで狙ったのですが鉄橋袂のS標識のところに一人いたのでちょっと目障りでした。さすがに800ミリはド迫力ですね。
最後の雪だるまとの2ショットがChristmasらしくていい感じです。

山本 2002.1.8


昨年の只見線は本当に感激でした。
表立った大きなトラブルもなく、地元の方々の素朴な温かさとともに本当に良かったと思います。
会津の山々に幾重にも響く汽笛と、C11独特の乾いたドラフト音は身震いするほど素晴らしかった。
今後も美しい会津の四季の移り変わりにあわせ、悠々と流れる只見川ともにその勇姿が見られるようにと願って止みません。
(できれば会津川口の転車台とともに…)
 
先日、御茶ノ水の本屋で竹島 紀元氏の映像作品集なる立派な本を見つけました。
当時、鉄道ジャーナルの編集長であった氏の列車追跡シリーズの傑作集ともいえるものですが、できることならば、あの大畑に右に左にといつまでも続くドラフト音を呼び戻したいものですね。
そういえば、高林 陽一監督の映画、「素晴らしい蒸気機関車」でも大畑はサクラが満開の春たけなわの季節感が見事に表現されていました。
あの映画の中では会津、只見はでてきませんでしたが、美しい日本の四季、風景、生活と蒸機という、鉄道写真の原点がそこにあり、大変大きな影響を受けたのは間違いありません。
斉藤 2002.1.6

長い年月をかけて、蒸気機関車を追っての貴重な写真を拝見致しました。
その時々の感動が伝わってくるようでした。
ご健勝にて ご活躍下さい。
岡田
2001.12.15

こんにちわ、多田です。
小サイトへのご祝辞ありがとうございました、今後もよろしくお願いいたします。
さて、「晩秋の川根路」拝見いたしました。見事に色ついた木々をバックのトラストに目を奪われました。
つぎの102レは、、、あれれ私もあのひな壇の一角におりました。(^0^)このアングルですと道路橋の上からでしょうか?
ケムリが切れたので流し撮りに切り替えされたのでしょうか?とっさの判断、流石です。
 
冬の真岡にも通いたいのですが、休みがとれない、、、(TT)

2001.12.13


酒井様  
さて、晩秋の川根路拝見させていただきました。
どの光景も肉眼で見た以上の情景をファインダーの中に写しこまれたのではないでしょうか。
川面の美しさにただただ唖然とするばかりです。そして秋の彩りとどうしてこの様に美しく再現できるのでしょうか。
酒井様の写真を拝見していますと、心底からカメラを手に取って、外に飛び出していきたくなります。
どうぞ、またインパクトのある作品を拝見させてください。
2001.11.9 忠賢八高 

酒井さん 写真拝見しました
梅と桜の大井川鉄道しか知らない私にとって
すごい新鮮さを感じ素敵な作品で感動いたしました 
ありがとうございました
15日 真岡鉄道ですよね 私も時間があったら足を 運びたいと思っています
年賀状の写真まだどれにしようかと迷っています
15日 今年最後になるかわかりませんが 
その日の一枚になるか
今の時期どこが お勧めですか
では・・・・・・・・SL姉さんでした  2001.12.9

こんにちは 会津のけむり様

「 Love Loco-Motion 21」の ここの です。

12/1 大井川にいらしてたんですね。
私も行ってきました。
1001レは塩郷の対岸でしたか、私はトンネルの飛び出しのこんもりとした所にいましたので見られてたかも?
対岸からですと川面が良い感じですね。ススキも入って。
白いガードレールが無ければ最高なんでしょうけど。

重連は2橋も爆爆ですね。シーテンのリベットが浮き出てカッコ良いです。
返しは流し、それも思い切った構図です。
シーテンが写っていないのはちょっと寂しい感じですが102の前向き貴重ですからね。
ナンバーがちょうど木の間からみえてるのが良いですね。
私は徳山の対岸で流して失敗しました。

私の出撃報告はこちらです。
良かったら見てやってください。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~ef5861/
2001.12.8


こんにちは  酒井さん
カレンダーの写真拝見いたしました
北山〜益子 間 何処から撮ったのか 男体山が入ってすばらしいですね
先日25日に長瀞で撮った写真 ネガで見ただけで焼く気にもならないほどのできでした
 
酒井さん大井川へでかけているんですよね
私は 5年前に一度行きました
朝一番の電車で小山まで行き そこから新幹線で日帰りの電車歩きでしたので 
大変だったこと思い出します
でも 梅と桜に合わせていったので 写真のできは悪くても目に焼き付いています 
地元の写真撮っていた人で親切に車で撮影場所まで案内してくれたり
お昼は SL好きの人で集まるおでんやさんにつれていってくれました
最後名前も名のらないでわかれましたが 
SLだけの つながりで会話がはずむんですよね
 
では 大井川の作品楽しみにしています SL姉〜さん 2001.12.1

こんにちわ。
寒さ身に締まるころですが、先日会津から初雪の便りが来ました。

ここ2日間かけて、久し振りに「会津のけむり」を拝見しました。
改めて「素晴らしい」の一言です。実版して欲しい限りです。
C11と会津の冬は似合いますね。特に、磐梯山をバックに走る姿は何とも言えません。
感無量です。
真似るようかもしれませんが、今年の冬は、そんな構図で冬のSLを撮りたいと思ってます。

さて私ごとになりますが、先週、地元・下郷町役場の採用試験の最終結果が届き、採用者名簿に登録されました。
採用は3月まで分かりませんが、地元貢献にがんばっていきたいと思ってます。
そして夢な話しに近づく、一歩を歩みました。その夢な話しとは?といいますと、、、
それは会津線・会津鉄道におけるSL運行です。現役時代を知らない私にとって、一生に一度でいいから、
会津線を走るSLが見たいのです。
一鉄道ファンの個人的な欲望に過ぎないかもしれません。
しかし今年の只見線のSL運行をみて、活気の失いかけている会津南部地域の活性化にもどうだろう?と、その必要性を感じております。
そして、第3セクター会津鉄道の存続の起爆剤にとも考えています。先人が私たち、未来の者ために、会津線を切り開きました。
それをなくしてはいけないと思ってます。
だから沿線主要自治体として提案していきたいと思ってます。どこまで出来るかは分かりません。
何年かかるかは分かりません。夢で終わるかもしれません。でも、チャレンジしていきたいと思っています。

もうすぐ師走ですね、いい年を迎えられることを祈っております。
2001.11.30 室井


はじめまして
大阪府在住の西山と申します。
HP楽しく拝見させていただきました。
会津路を走るC11の写真、感動です。
大変貴重な記録ですね。
写真もすばらしく、私は特に会津の春を走るC11の姿がとても長閑で気に入りました。

蒸気機関車の現役最後の頃、私は小学生で、自宅近くで現役の蒸気機関車を見たことがありません。
(正確には幼稚園の頃、福知山線で2回ほど見たことがありますが、はっきりとは覚えていません。)
ですから、蒸気機関車を見て育った酒井さんをたいへんうらやましく思っています。
2001.11.25


会津のけむり様、メールでは初めまして。831列車と申します。
いつもTADA様はじめ、いろいろな板で楽しい話題をありがとうございます。
また詳しい考察や御意見なども、「なるほど」と思ってしまうことが多く、たいへん参考になります。貴HPも何回か訪問させていただき、特にふるさと会津についてのものには深く感銘を受けました。

ここ数日、話題になった「会津鉄道記念館」の夢ですが、私も参加した一員ではあるものの、最初は思い出や単なる夢を中心に話が進んできてはいたのが、やはりどうしても具体的・現実的な問題に直面してしまうと、厳しいものになってしまうことに直面し、少し話題から避けてしまいました。
経費や将来の展望、人の心の問題などを考えると「ファンの夢物語」だけではこういった車両保存の問題、ひいては文化財などに関する事案というものは、現在の不況の時代を考えてもなかなか実現は難しいものであるとは誰もが思っていることでしょう。
ただ、考えてみたのですが、なぜ今私たちが各地で老朽化しつうも手を加えられずに解体・消滅してゆく鉄道車両(蒸機に限らず)に対して、危惧の念を抱いているのかというと、それは単に「もったいない」「思い出があるのに・・・」といった感傷論に限らず、せっかくここ十数年で確立されてきた日本の鉄道文化遺産の保存・継承の動きを鈍らせてしまうかもしれない、ということではないでしょうか?

古い街並・古寺・仏像だけではなく、近年の日本の発展に寄与してきた「産業考古遺産」を次代の人たちに原物を残して語り継いでゆくことも大切なことだと思います。
というようなかしこまったことでなくとも、日本の鉄道の発展に貢献した蒸気機関車が、その廃止を惜しまれて全国に保存され、いくら鉄の固まりといえど約四半世紀もたてば保守・整備なくしては今後も姿を保っていられない現状を「どうにかしなければ」ならないのは、あの時代に線路端を走り回ってたくさんの思い出を蒸機から貰い、また迷惑?もさんざんかけた、我々の世代の責任でもあるのです。
鉄道が好きで電車もディーゼルも駅も何でも興味があって、でもやっぱりあの時代の蒸機が趣味の出発点で「唯一無二」の存在だったと感じている人たちは、もうみなおじさんになってしまいました。
ブルトレにも浮気しました。乗りつぶしもしました。今は大井川や真岡のも出掛けます。
あちこし¥ちの状態の悪い保存機を見て嘆いてもいます。
年はとってもあいかわらずお金も地位も権力もないのですが、蒸機に対する思い入れだけはいまだに健在なのです。
だから可能性は低くとも、その「夢」を文字にして、こういった掲示板などで発表することは、けっして無駄ではないとも思うのです。

だから今後も現実問題も考えつつ、よりよい方向に向かうことを期待して、いろいろな夢を語っていきたいと思っています。長くなってすみません。けむり様の板の文を見て、そういった想いを抱いてしまいました。

最後にけむり様のHPでの「日中線」も拝見し、とても感動しました。
情緒あふれる写真となにげないスナップにも会津に対する愛情が深く感じられました。

手前味噌ですが、その日中線が廃止されう頃、いてもたってもいられず、自作した熱塩駅のスタンプ(なにも知識がなかった20年前のことで、手近のプリントゴッコで作りました)の残りが見つかりましたので、拙作ですが添付します。

今後ともよろしくお願い致します。
2001.11.24

私は汽車達をJR流に「交通文化財」というよりは、「産業文化財」と考えております。
産業考古学会では「鉄道文化遺産」と呼ぶようですが、なんか博物館に飾られそうでイヤですね。
蒸気機関車は動いてこそ汽車ポッポなのではないでしょうか?
産業文化財はちゃんと動く状態で保存しなければ意味がありません!
それをリベットの強度とかボイラの圧力試験がどうのと、現在の労働基準局の規定に合わせようとするからお金がかかるのではないでしょうか?
大井川鉄道流にやれば、もっと多くの蒸気達がよみがえると思います。
あとは、JRだけでは財政的に抱えられないでしょうから「SLは故郷の共有財産」という認識を沿線の自治体にもってもらい、地域の企業(スポンサー)を巻き込んで「SLを街おこしのシンボル」にして地域の活性化にやくだてる事でしょうか?
C57180号のばんえつ物語号が良い例でしょう。

こんばんは。
北海道端野町の林です。

先日はヘタな絵を送り失礼致しました。
また、毎回お返事を頂きまして有難うございます。
しかもシゴナナの写真付きで・・・・。

11月3,4日に磐西に行ったとのことですが、
あの写真は一体どうやって撮るんだろうと思いました。
トンネルから出てきた瞬間、煙がブワッと上がりいきなりドラフトがしそうな迫力ある写真です。(右)
会津はシゴナナ、デゴイチ、来年のC11と蒸気がたくさん走っていいですね。
いつか、D51牽引の貨物列車を一度イベントでやってもらいたいですね。
シゴナナとの交換、あるいは追い抜きで。
そして只見線は、混合列車を走らせてもらえたらどんなにいいことか。
釧網本線では、去年C11重連の混合列車をやってくれてるしJR東日本もやってくれたらと思います。
無理でしょうけど・・・(笑)
後、C57でもD51でもいいから御召しなんて夢のまた夢ですかね。

それでは夢物語はこの辺で。
失礼します。
2001.11.21

スーミングという撮影法です。シャタースピードを15分の1秒にセットし、列車が出てきた瞬間に200ミリ→80ミリにズームアウトしながらシャッターを切ると、15分の1秒間だけ中心から放射状に画面が流れるので中心にある被写体が飛び出すように写ります。


早坂と申します。
みどりのイタでの「夢なはなし」、なんかジーンとしました。(下記)
・・・機会さえあれば(=街中に行くことがあれば)例のC601の前を通るようにしています。
 全てのナンバープレートは既に無い状態で、全国唯一のC60とは思えない状態。
というか、たいていの市民は「あすこにSLあるんだよね」程度なのですが・・・
かく言うワタシも「ゆけむり号」を見て突然「鉄」になるまではどんなカマなのかは全く知りませんでした。

ホントに見てて悲しくなってしまいます。
 このカマがきれいな姿・・・現役時代のような姿・・・を取り戻し、安住の地に腰を下ろせればどんなに素敵なんだろう、なんて思います。
 同じトップナンバーのカマが、かたやボロボロ、かたや「山口号」牽引機とはなんという違いでしょう。
(車両基地にあるカマはもっとひどいのですが。C58363と数番違いのカマなんかがあるのです。 ・・・運の違いなんでしょうか?)
会津の機関庫が、貴殿の話しのようになったら・・・ 本当に夢のようです。
でも、そんなふうになれたら・・・
頭の中で、ピカピカになったC601が機関庫から出てくる姿がよぎります。
なんて素敵な光景・・・ C57180がクラで隣に並んだら・・・ もう気絶です。
とりとめの無いはなしになってしまいました。 
貴殿の話しでとてもしあわせな気持ちになれました。 
ありがとうございました。
2001.11.20


2003年春JR東日本は、鉄道開業130周年記念事業として「会津若松蒸気機関車館」構想を発表した。

鉄道開業130周年を記念し蒸気機関車の過去の栄光をたたえ、会津運輸区の扇形庫15線・転車台を永久に保存し、そこに東日本を走った主な蒸気機関車14両を動態保存し(一部静態保存)その雄姿を永く保存する。
動態保存機予定リスト
48640号機、9632号機、C108号機、C1163号機、C1260号機、C50103号機、C56131号機、C57180号機、C5816号機、C601号機、D51498号機、D601号機、D613号機、E102号機の14両。
これにより梅小路蒸気機関車館16形式18両と合わせ、現存する日本の蒸気機関車の23形式すべてを永久に保存展示することになった。


酒井さん、こんにちは。
梅小路、いいですね。
酒井さんの写真を見ていると会ったことがないのに、いっしょに撮影にいったような錯覚を覚えてしまいます。
なぜでしょう?感受性が豊かで、感性が鋭く、物を大切にする感覚が感じられ共感します。
 
梅小路を見ていてC1164が会津若松機関区に戻って動態で保存ができればいいなと思いました。
そうすれば、只見線に定期列車が戻ってくる!甘いか?
この機関車も梅小路に行く前はここにいたんですょね?
仮に整備して動態保存になれば定期的に会津で定期列車が・・。
やはり、この不景気に経費がかかるSL保存はかなり難しい事だ。
もし、私が財力があるのであれば本物SLを保存して走らせたい。
でも、ライブスチームも買えないけど・・・。
さびしいね。
2001.11.18  田中

こんばんは。
以前、あつかましくもメールを出させて頂きました北海道は端野の林です。
その節は、いろいろ写真についてアドバイスを頂きまして有難うございました。
只見線の蒸気の運行が終わり、しばらく経ちますが、その後、酒井さんはどこか蒸気の撮影に出掛けられたのでしょうか。
私はといいますと、この間部屋をごぞごそ整理したら、もうだいぶ前に描いた絵が出てきました。
日中線の絵です。
この絵は、私が日中線を訪れて撮影した時の写真をDE10からC11に替えて描いたものです。
私が日中線を訪れたのは、もう廃止間近の昭和59年12月14,15日でそれが最初で最後となりました。
(廃止後には、何度か訪れていますが。)
日中線は、格別素晴らしい風景や見所がない路線でありましたがなんとも言えない雰囲気を出しており、
大好きな路線のひとつでありました。
きっと、あの引上げ線の先の車止めが、終着駅独特の雰囲気をより一層かもし出していたのだと思います。
そんな雰囲気が、私の描いた未熟な絵に出ているでしょうか。
おこがましい事だと我ながら承知致しておりますが蒸気現役時代の日中線をご存知の酒井さんに、
少しでも懐かしさがこみ上げて来て頂けたら幸いです。
それでは、今後のご活躍をお祈りいたします。
2001.11.13 林 


寄せられたお便り-1へ  トップページへ