日本の蒸気機関車発達史

1825年イギリスに始まった鉄道は、まずヨーロッパ各国にそしてアメリカへと急速に発展しながら広がっていきました。鉄道は資本主義国家の重要な輸送手段となっていったのです。
欧米の国々では、すでに産業革命を達成して、機械工業が発達し、それらを基盤とした高度の文化水準を誇っていました。その意味で鉄道はまさに文明国の象徴のひとつと見られていたのです。

日本で最初に蒸気機関車が走ったのは、諸説ありますが1854年(嘉永7年)に来日したアメリカ使節のペリー提督が2m42cmの蒸気機関車の模型(軌間610mm)を将軍に献上したのが最初だといわれています。この模型は同年2月23日横浜の応接所の海岸で火を焚き蒸気をはいて本当に走りましたが、江戸幕府は一般庶民には公開しませんでした。この模型機関車はその後、東京・築地にあった海軍操練所で保管してありましたが1864年(元治元年)焼失してしまい現存しておりません。

明治維新の変革は、遅れた日本を欧米のような文明国の一員としての仲間入りさせるところに、まず目標を見据えていたため、近代的な建物、軍隊、蒸気船、鉄道がそのための象徴的な手段として必要と見なされていたようです。
鉄道は明治政府の中央集権的な統一政権の支配権を誇示する意味で重視され、産業革命を遂行するための経済効果よりも、政治的効果を優先して文明開化の象徴として鉄道は急速に国内に広がっていったのでした。

明治のSL
初めに、日本の鉄道は明治政府の工部省鉄道寮に始まります、その後鉄道局、逓信省作業局、1907年(明治40年)の国有化後も帝国鉄道庁、鉄道院、鉄道省、戦後の日本国有鉄道になるまで名称が何度も変わりました。
このサイトでは1907年の国有化前を管鉄(管設鉄道)、国有化後を国鉄と書く事に統一します。
国有化後も鉄道管理区が時代によって、東部管理区が上野、中部管理区が新橋なんて時代もありました。その後も地域割りが何度も変更になっております。このサイトでは混乱をさける意味から戦前は地方名で、日本国有鉄道後は管理区名で記載致します。
また、機関車の形式も鉄道寮時代(A〜Z、AE〜AJ)、作業局時代(A1〜F2)、鉄道院時代(1〜9990形)と何度も改番している事からわかりにくいため、1928年(昭和3年)の形式称号規定後の番号(9900→D50)で統一して記載します。

官設鉄道時代(草創期)の蒸気機関車

1号機関車(陸蒸気)はイギリス製
草創期の明治政府には鉄道を建設する技術も資金も無く、すべてイギリスからの借金でスタートしました。まず1871年(明治3年)3月、英国人の技師エドモンド・モレルらによって鉄道施設工事が始まりました。1872年(明治5年)5月、品川〜横浜間が仮開業。同年10月14日、新橋〜横浜間29キロ(現在の汐留〜桜木町間)に鉄道が開業しました。この前年にイギリスから輸入した5形式10両の軸配置1B形のタンク式蒸気機関車がわが国最初のSLになりました。また客車58両(2軸4t)貨車75両も同時期に輸入されました。
英国から輸入された蒸気機関車は到着順に番号を付けられ、栄えある第1号蒸気機関車(後の150形)は1871年英国のヴァルカン・ファウンドリー製でした。ヴァルカン鉄工所製のこの機関車は力が無く不評であったといいますが、栄誉ある1号機関車にはまちがいありません。
1号機関車は1880年(明治13年)には神戸機関庫へ移動し、1887年(明治20年)にはドームの位置やボイラーの高さ、煙突などが改造され、入換機として大阪駅で使用されていましたが、1911年(明治44年)に九州の島原鉄道に払い下げられました。
鉄道50周年事業として、1921年(大正10年)東京・神田の鉄道博物館(旧・交通博物館)の開館にあわせて、1号機関車を島原鉄道から買い戻す事になりました、同社は代替機(656号機)と交換を条件に快く応じました。島原鉄道から東京に運ばれ現在も大事に静態保存されています。1995年には国の重要文化財に指定されました。
1号機関車は2006年10月14日に開館した、鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で大事に保管されています。




開業当初、一番優秀な機関車は2号〜5号機(後の160形)でした。1871年英・シャープ・スチュアート製で信頼性が高く、5号機は1番列車を牽引、2号機は開通式日のお召し列車を牽引する大役を務めたようですが、はっきりとした記録はありません。また当日を描いたの錦絵からも特定は出来ません。これら4両の機関車は京浜地区で働いておりましたが、1911年(明治44年)1号機関車と同じく島原鉄道に払い下げられました。3号機は1927年(昭和2年)温泉鉄道(島原鉄道の支線)に売却され以後消息不明です。5号機も同年東肥鉄道売却され以後消息不明です。2・4号機は1948年(昭和23年)28・27号と改番されしばらく働いていましたが、1955年(昭和30年)3月末老朽化のため廃車解体されてしまいました。
1874年製の同形の増備機12号機が、愛知県の尾西鉄道に払い下げられ、1952年(昭和27年)まで現役で働きました、その後尾張一ノ宮駅構内で長く留置されていましたが、1974年(昭和49年)保存するため犬山市の博物館明治村に譲渡されました。現在は明治初期の姿に復元され動態保存されています。130年も昔の機関車が今も動いている事を考えると、この4両は好性能な機関車だったようです。
次席は英国エイヴォンサイド製の6・7号機で、1901年(明治34年)に台湾(現在の中華民国)に譲渡されましたが、6号機は輸送船が沈没し台湾には到着しませんでした。7号機は無事陸揚げされ台湾総監府鉄道部で活躍しました。1925年に廃車、現在は台北市の台北博物館で保官されております。
8・9号機は英国ダブス製(後の190形)の機関車で、当初は背中合わせに連結した双合機関車であったとも言われているがくわしい記録はありません。中古だったという説もあります。1896年新橋工場で近代化改装後京阪地区の入換機として使用されましたが、1911年(明治44年)、12号機と同じく両機は尾西鉄道に払い下げられました。1927年(昭和2年)同鉄道で両機共老朽化のため廃車になり解体された不遇な機関車でした。
10号機(後の110形)は英国ヨークシャー製の機関車ですが、1号機関車と同じく力が無く晩年は入換機として汐留操車場内で働いていました。1918年(大正7年)には廃車になり。車体を切断され国鉄大宮工場内で教材として陳列されておりました。1962年(昭和37年)青梅鉄道公園の開園に合わせ鉄道記念物として同所に移動し現在も大事に保管されております。


京浜地区に遅れること2年、1874年(明治7年)5月11日に神戸〜大阪間33キロが開通し、1877年(明治10年)2月5日には大阪〜京都間43キロも開通しました、明治天皇を迎えて盛大に開業式を行いました。
このように、日本の管設鉄道は東西から何とか開業したのですが、この年鹿児島で西郷隆盛ら不平士族が起こした西南戦争により、明治政府の財政は疲弊し鉄道建設どころではなくなり一部を除いて1886年(明治19年)11月の工事再開まで凍結されることになりました。新橋〜神戸間(600キロ)が全通したのは1889年(明治22年)7月のことでした。

1874年開通の前年、英国から4形式12両の蒸気機関車が神戸港から陸揚げされました。中でも人々の目を引いたのが、1872年英・シャープ・スチュアート製のB-1テンダ機(後の5000形)2両(2号機、4号機)です。当初より京都までの運転を見込みテンダ機を導入したもので、全長13.22m重量43.4トンもありました。
他に1873年英・スティブンソン製の1Bタンク機(後の120形)(6、8、10、12号機)4両。1873年英・キットソン製のCテンダ機(後の7010形)(14,16,18,20号機)4両。1873年英・マニング・ウォードル製のCタンク機(22,24号機)2両(後の1290形)の蒸気機関車達も陸揚げされました。
阪神間開業に合わせ機関車の改番が行われました。関東側が奇数、関西側が偶数番号になり、日本初のテンダ機関車は2号機関車と呼ばれることになります。(1889年の東海道線開通後は連番に改番しました) 2号機関車は1914年(大正3年)名古屋に移動し入換機となり働き1921年(大正10年)11月廃車になりましたが、1号機関車や弁慶号と同じく鉄道博物館に保存が決まり東京に送られました。不運なことに新橋工場の御料車庫にて保管中に関東大震災に遭い焼けてしまいました。取り外してあった蒸気ドームのカバーがだけが焼失をまぬがれ、交通博物館に保管されていた1号機関車の蒸気ドームとして流用されております。2号機関車は被災後も大井工場の留置線で焼け爛れたまま放置されていたましたが戦争中の混乱の中、1945年(昭和20年)屑鉄として供出されてしまいました。4号機(5001号機)は1913年(大正2年)沼津に移動し入換機となりますが1919年(大正8年)老朽化のため廃車解体されてしまいました。

英・スティブンソン製の1Bタンク機4両は評判が良く、1884年(明治17年)に4両共東京に移動し、新橋〜横浜間の増備機となりました。1909年改番し形式120形の120〜123号機となります。その後は入換機として使われておりましたが、1914年(大正3年)120,122号機は、三河鉄道に払い下げられ同鉄道で働きました。1934年(昭和9年)老朽化のため廃車になり、解体されてしまいました。121、123号機は1915年(大正4年)、島根県の簸川鉄道に払い下げられました。121号機は1934年(昭和9年)に千葉県の南総鉄道(茂原〜奥野)に転売され、1号機と改番し働きましたが、同鉄道は1944年(昭和19年)に廃線になり、1号機は笹森寺駅にしばらく留置されていましたがその後は消息不明になってしまいました。123号機は1926年(大正15年)京都府の加悦鉄道の開業に合わせて転売され、2号機(旧12号機)と改番、同鉄道で1956年(昭和31年)まで働きました。
老朽化のため廃車も、加悦鉄道の社宝として大事に保管され、現在は加悦鉄道跡にある「加悦SL広場」に静態保存されております。

英・キットソン製のCテンダ機(14、16号機)は、京阪地区で働いておりましたが、国有化後の1909年改番し7010形の7010、7011号機なりました。晩年、北海道に移動し建設用機関車として働きましたが、1914年(大正3年)、石狩石炭会社に払い下げられました。両機はその後、美唄鉄道に移り石炭の輸送に使われました。1943年(昭和18年)7011号機は樺太の三菱石炭に移りましたが、戦後ソ連軍に接収され消息不明になっております。7010号機は1947年(昭和22年)美唄鉄道で廃車になり、解体されてしまいました。
18、20号機は1876年神戸工場で2Bテンダ機に改造されました。18号機は1877年(明治10年)2月大阪〜京都間の開通式のお召し列車を牽引。20号機も1891年(明治24年)5月にお召し列車を牽引をする栄誉をえております。1909年の改番で両機は5100形の5100、5101号機となりましたが、その頃は大阪駅の入換機として余生を送っておりました。1917年(大正6年)、両機は神奈川県の相模鉄道に払い下げられ、100、101号機と改番されました。1927年(昭和2年)100号機(旧18号機)は加悦鉄道に売却され1号機と改番しました、加悦鉄道の2号機は同時期に輸入された123号機(旧12号機)でした。1号機はしばらく加悦鉄道で働きましたが1937年(昭和12年)老朽化のため廃車、惜しくも解体されてしまいました。
101号機(旧20号機)はその後、相模鉄道でも余剰になり、1944年(昭和19年)尼崎の住友金属、1950年(昭和25年)には東京の遠藤製作所に転売され同年に廃車、解体されてしまいました。
日本初のテンダ機関車は一両も保存されませんでした。

1873年英国マニング・ウォードル製のCタンク機(後の1290形)2両は、サドルタンク(水タンクがボイラーをまたぐ形)の珍しい機関車で、シリンダが内側にあって見えないという小型タンク機関車(16.8t)です。鉄道建設の工事用機関車として輸入れましたが、シリンダーやクロスヘッドが内側にあるためロッドや弁装置の点検、各部の油つぼに油を差す時など、車体の下にもぐりこんで作業をしなくてはならず、軌道状態の悪い工事現場から逆に敬遠されたようす。晩年は大阪駅の入換機として働いていました。1911年(明治44年)、千葉県営鉄道(現・東武野田線の柏〜野田間)に払い下げられました。同年5月に開業した県営鉄道では1・2号機と改番して働ておりましたが、1930年(昭和5年)以降の記録が無く消息不明です。

ボルトメン事件
1869年(明治2年)2月、明治政府の鉄道建設計画を震撼させる事件が起きました。
何と江戸幕府がアメリカ政府に鉄道建設の免許を与えていた事がわかったのでした。アメリカ公使館のボルトメル書記官は江戸幕府が出した免許状たてに江戸〜横浜間の鉄道建設を申告してきました。明治政府の誰もがその免許状の存在自体を知らなかったので対応に苦慮しました、大隈重信参議は「鉄道をアメリカに経営させてしまえば、日本がアメリカの植民地同様になってしまう」と危惧し、そんな免許は知らないと拒絶したのでした。
翌日、アメリカ公使デロングが抗議書を持って明治政府に乗り込んで来ました。デロング公使にして見れば江戸幕府から明治新政府になった事は大統領が交代した程度にしか考えておらず、前の政府(江戸幕府)が出した免許状は当然有効だと主張したのでした。
そこで大隈参議は「鉄道建設免許状」を細かく調べて見ると誤りが2ヶ所ある事に気が付きました。将軍・徳川慶喜の署名では無く、時の老中・小笠原壱岐守が署名していた事と、日付けが慶応3年(1867年)12月23日である事です。15代将軍・徳川慶喜は慶応3年10月14日に「大政奉還」しており、この免許状は資格の無い老中が大政奉還の2ヶ月後に出した免許状だったのでした。デロング公使は納得せず「日本政府は正当なアメリカ政府の権利を不当にことわった、戦争も辞さない」と怒ったそうですが、大隈参議は一歩も引かず断固拒絶したのでした。
1869年(明治2年)11月10日、明治政府は朝議を開き、新橋〜横浜間に官設の鉄道建設を正式に決定しました。明治政府が鉄道建設資金の援助と技術指導をイギリスに求めたのは、アメリカの強圧に対抗する意味があったようです。



北海道の鉄道はアメリカ製の機関車で始まった。

1869年(明治2年)明治政府は北海道の開拓のため「開拓使」(北海道開発のために設置された官庁)を設置しました。北海道の鉄道建設は管設鉄道とは別系統の開拓使によって敷設されました。
指導したのはアメリカ人技師のJ・U・クロフォードでした。当初からアメリカの西部開拓鉄道流の速成軌道で工事が進められ、1880年(明治13年)には手宮〜札幌間(手宮起点)が開通しました。開通に先立ち1Cテンダ機(後の7100形)2両が米国のポーター社から輸入されました。1号機が「義経」、2号機が「弁慶」と命名されたこの2両は軸重5.1t 動輪直径913mmという小型(16,41t)の機関車で、先には大型のカウキャッチャー(動物よけ)、油灯のヘッドライト、内部に火の粉止めを備えた大型のダイヤモンド煙突、鐘など速成軌道に対応した典型的な米国型蒸気機関車でした。その後1882年(明治15年)には札幌〜幌内間が開通し「官営幌内鉄道」(1889年には北海道炭鉱鉄道)となります。1882年製「比羅夫号」「光圀号」1884年製「信広号」「しづか号」1889年製「7号機」「8号機」の計8両が輸入されました。最後の2両にはなぜだか愛称は付けられませんでした。
彼らは、1890年に輸入された米・ポールドウィン製1C形テンダ機関車(後の7200形)20両に主役をゆずり、1912年(明治45年)には北海道建設事務所に借し渡され、軽い軸重を生かして新線建設の資材を運ぶ建設用機関車となりました。現在の宗谷線、留萌線、名寄線、根室線などは彼らの運んだレールや資材で建設されたの路線です。1917年(大正6年)には「しづか号」が室蘭製鋼所に払い下げられました(後にサドルタンク機に改造)。1922年(大正11年)には「弁慶号」が大阪・堺市の梅鉢鉄工所(後の帝国車輌=東急車輛大阪工場)に払い下げられ、タンク機に改造され同工場の入換機として働きました。「光圀号」は高知鉄道に払い下げられましたが後に廃車、廃車後の記録が無く解体されてしまったようです。
1923年(大正12年)「義経号」は鉄道博物館に保存が決まり東京に送られましたが、途中の黒磯駅で関東大震災に遭い長く同駅に留置される事になります。建設用に北海道に残った3両の内「8号機」は1927年(昭和12年)苗穂工場で廃車、解体されました。「信広号」と「7号機」は同工場に長く留置されておりました。
黒磯駅で13年間も足止めをくっていた「義経号」は、1936年(昭和11年)復旧なった大宮工場に運ばれ輸入当時の姿に復元する作業が行われました、解体して修理して見ると何と僚機「弁慶」の製造番号である369の刻印が見つかりました、東京・神田の交通博物館に「弁慶号」として大事に保管されました。現在はさいたま市の鉄道博物館で静態保存されております。
取り違えられた「義経号」は梅鉢鉄工所で入換機として働いていたが、戦争の混乱もあり「義経号」の復元は先送りされてしまいました。
1952年(昭和27年)国鉄80周年記念事業として「義経号」と「しづか号」の2両を復元して対面させようという企画が持ち上がりました。「しづか号」は日鋼9号機として室蘭で余生を送っておりましたが寄贈してもらい、苗穂工場で復元工事を行いました。サドルタンクをはずし、使える部品は工場に留置してあった「信広」と「7号機」から流用し、テンダは「7号機」のをそのまま借用し、おかげで「信広」と「7号機」はひどい姿に変わり果て、そのまま解体されてしまいました。
帝国車輌(旧梅鉢)で入換機として働いていた「義経号」は、代替機と交換され神戸の鷹取工場に運ばれここで復元作業が行われました。また問題が起きました、解体作業中に「義経号」の製番368の刻印がボイラの弁装置から見つかったのですが、台枠は「信広号」の製番643の刻印だったのです。北海道時代にボイラと台枠の取り違いがあったらしいのですが、信広号は苗穂工場で解体された後でしたので調べる事は出来ませんでした。結局この機関車は「義経号」として復元されることになりました。炭水車(テンダ)や他の部品は弁慶号の図面を元に鷹取工場で制作し「義経号」として復元したのです。
紆余曲折あった両機ですが、1952年(昭和27年)10月14日原宿駅の特別ホームで35年ぶりに「義経号」と「しづか号」は再会したのでした。
現在は「義経号」は大阪の交通科学博物館に、「しづか号」は手宮の北海道鉄道記念館で大事に保管されております。


明治時代の私設鉄道

明治政府は官鉄設営による幹線鉄道網を考えていましたが、西南戦争後の財政事情により各地の鉄道着工を残念し、東海道以外の幹線鉄道は私鉄の形でスタートします。
地方の富豪、財閥や公家、大名などの華族が資金を出し合い鉄道建設を申請し政府が認可する形をとりましたが、明治政府はあらかじめ国有化への道ずけとして、この認可書には「政府が買収する場合がある」の1条が明記されておりました。また認可期限が1916年(大正5年)までであり、当初は35年後には国有化する方針だったと思われます。
1881年(明治14年)最初の私鉄認可が日本鉄道に下りました、日本鉄道は1883年(明治16年)7月に上野〜熊谷間を開業しました。日本鉄道は1891年(明治24年)には上野〜青森間(732キロ)山手線、高崎線、常磐線、水戸線、両毛線、日光線と伸ばし総営業キロ数は1384キロ、蒸気機関車860両を保有する日本最大の私設鉄道に発展して行きました。
次いで阪堺鉄道(現・南海鉄道)が1885年(明治18年)難波〜堺間を開業。山陽鉄道が1888年(明治21年)姫路〜兵庫間を開業。四国の伊予鉄道も同年10月に伊予〜松山間(予讃線)を開業。甲武鉄道(中央線)が1889年(明治22年)新宿〜立川間を開業。九州鉄道(鹿児島線)が1889年(明治22年)博多〜久留米間を開業。関西鉄道(草津・関西線)が1890年(明治23年)草津〜四日市間を開業。1902年(明治35年)までには32社の私設鉄道が続々と開業し線路の総延長距離は4.847キロ.に達しました、まさに私設鉄道の黄金時代を築いて行ったのです。


私鉄の機関車1号機は「善光号」
日本の私鉄1号となった機関車は、日本鉄道が官設鉄道から、1881年(明治14年)英・マンニング・ウォードル製のCタンク機(後の1290形)の増備機を1両譲渡してもらった事に始まります。
この機関車は1882年(明治15年)横浜港に着き新橋工場で組み立てられました。浜離宮付近から艀に載せられ荒川(現・隅田川)をさかのぼりましたが、埼玉県川口町(現・川口市)にある善光寺の裏あたりで重さにたえきれず艀が沈没、日本で初めての水没機関車になりました。善光寺の檀家総出で川底から何とか引き揚げられた機関車はその地名をもらって「善光号」と命名されたという話が残っております。
善光号はさっそく上野〜熊谷間の工事用資材を運ぶ工事用機関車として活躍しました、以後も日本鉄道の工事用機関車として東北地区で働いきましたが、1907年(明治40年)の国有化後は1290形の1292号機と改番し田端機関庫で入換機として働いていおりました。1918年(大正7年)には老朽化のため休車、1923年(大正12年)に廃車になりますが、珍しい機関車の構造が幸いして池袋(西口のメトロポリタン付近)にあった東京鉄道教習所(後の鉄道育英会=現・芝浦工業大学付属第一高等学校)に教材として保管されました。1942年(昭和17年)には交通博物館に移りました、現在は弁慶号と一緒にさいたま市の鉄道博物館で大事に静態保存されております。
1959年(昭和34年)10月には鉄道記念物に指定されました。現在でも東北線赤羽駅から川口駅方向の列車に乗ると、荒川橋梁上から右手に見える、築堤沿いの寺院が「善光寺」です。


日本のレールの幅(ゲージ)1067ミリについて
1871年(明治3年)明治政府の大隈重信参議は大蔵大輔(大臣)民部大輔鉄道掛を兼務していましたが、ゲージが何の意味なのかを知らなかったのが真相のようです。
いよいよ鉄道建設と決まったときに、英国人の技師エドモンド・モレルは大隈大臣に、「ゲージはどのくらいにされるおつもりですか?」と訊ねました。大隈大臣はゲージが何物であるのかを知らなかったので、そこでゲージとは何かと聞くのも恥ずかしいと思い、「ヨーロッパではどうなっているか?」と聞くと、モレルは「4フィート8.5インチ、3フィート6インチ、3フィートの軌間もある」と答えました。大隈大臣ははじめてレールの幅のことと気が付きましたが、「わが国は土地も広くないから狭いので十分だ」と答えてしまいました。結局その場で中ぐらいの3フィート6インチ(1067ミリ)の軌間に独断で決めてしまったのでした。
大隈重信は晩年「その時分には知恵者がいなかった、ただ豪胆という腹でやったのだ」といい、「狭軌にしたのは吾輩の一世一代の失策であったよ」と語ったといいます。 「日本鉄道創設史話より」
1887年(明治20年)明治政府は軌間は特認以外は1067ミリとすると政令を出しました。


異色な関西鉄道
関西鉄道(草津・関西線)の歴史は1890年(明治23年)草津〜四日市間の開業から始まります。
関西鉄道の汽車課長は後に国鉄の初代工作課長となる島安次郎で、彼は車両の改造にとどまらず客車の等級識別に色帯(1等=白、2等=青、3等=赤)を考案したり、車内照明にピンチガス灯を導入するなど旅客サービスに努めました。また一方では、機関車を赤、青、緑に塗装し官鉄には無い華やかさを鉄道に求めたようです。
蒸気機関車の形式名では500形を池月、2100形を雷(いかずち)、6000形を追風、他に飛竜、麿墨、雷光、鬼鹿毛、早風、望月、駒月、小鷹、友鶴、隼、千早、春日、三笠などという日本の古典に出てくる名馬名を付けて親しみをもたせていました。
関西鉄道は浪速、大阪、紀和、南和、奈良鉄道と近辺の私鉄を吸収合併し総営業キロ数452キロ、機関車121両の大私鉄となりましたが、1907年(明治40年)鉄道国有化により蒸気機関車121両は国鉄に引き継がれました。
元関西鉄道所属機では6000形が戦後まで関西地区で入換機として働いておりましたが、6000形はすべて廃車後解体されてしまいました。唯一保存されている機関車は西部3号機の駒月です。
西武3号機は大阪鉄道が1891年(明治24年)英・ダブス社から輸入した1B1タンク機関車2両の中の1両で、600形より一回り小さく機関車重量25.14t、動輪径1219mmの機関車でした。
大阪鉄道は1900年(明治33年)関西鉄道に吸収合併され駒月となりましたが、1907年国有化後は220形220号機となり神戸区の入換機として働きました。1917年(大正6年)多摩鉄道(後の西武多摩湖線)に払い下げられ、A1号機と呼ばれました、1940年多摩鉄道が西武鉄道に吸収合併後は西武3号機になりました。戦後も1957年(昭和32年)まで同線で働きましたが電化のため余剰になり休車、その後は日本ニッケル専用線(現・八高線丹荘付近)で働きましたが1965年廃車になり同線で留置されておりました、1967年に昭和鉄道高校に寄贈され現在も同校で大事に保管されております。


九州の鉄道はドイツ製の機関車「クラウス」でスタートした。
最初にドイツ製の機関車を輸入したのは、阪堺鉄道(現・南海鉄道)でした。1885年(明治18年)難波〜堺間を開業を前にドイツのホーヘンツオレルン社1885年製のBタンク(8t)機関車(後の45形)2両を輸入しました。
次は坊ちゃん列車で有名になった四国の伊予鉄道で、1888年(明治21年)軌間762mmのBタンク小型機関車(9t)2両をクラウス社に注文しました。この伊予鉄道の1号機は現在も松山市梅津寺パークに保存されています。(市内を走っている坊ちゃん列車はレプリカです)
九州私設鉄道は1887年(明治20年)ドイツ人技師ルムショッテルを迎えて建設された鉄道で、彼は機関車をはじめレールなどすっべての資材をドイツから輸入して工事を進め、1889年(明治22年)博多〜久留米間(現・鹿児島本線)を開業させました。

ルムショッテルは開業に合わせてドイツ製の蒸気機関車を2形式輸入しました。小型のホーヘンツォレルン社製(20t)Bタンク機関車(後の形式45形)3両、クラウス社製LX形Bタンク機関車(23t)(後の形式10形)7両の計10両で開業しました。
翌1890年にはクラウス社にLX形4両(22〜25号機)とクラウス製LI形Cタンク機関車(34t)(後の1440形1440〜43号機)を4両を増備機として輸入しました。1891年にLX形を4両(26〜29号機)1893年にLI形を2両(1444・45号機)、1894年にもLX形を5両(10・11・30〜32号機)、1895年にもLI形14両を(1400〜1413号機)、1896年にLI形を5両(1414〜1418号機)、1898年にLI形を2両(1446・47号機)を次々と輸入し、1898年(明治31年)11月の門司〜長崎間の開業までにドイツ製機関車を3形式50両ほど九州鉄道は輸入しました。
クラウスLX形Bタンク機は九州鉄道の他に、1894年に川越鉄道が2両(1・2号機)、1895年に甲武鉄道が2両(12・13号機)、同年総武鉄道が1両(14号機)、クラウスLX形Bタンク機は計25両ほど輸入された。クラウスLI形Cタンク機は1896年に阪鶴鉄道が2両(1419・1420号機)ほど輸入しました。
18XX年は製造年、( )内の番号は川越鉄道の1・2号機を除き、1909年改正の国鉄形式番号で統一しました。

クラウスBタンク機のその後。
1907年(明治40年)の鉄道国有化後も九州のクラウス達はしばらく九州で走っておりましたが、1911年2月に10〜14号機が博多湾鉄道(後の西日本鉄道=現・香椎線)に払い下げられました。
1925年(大正14年)クラウス16・20・22・23・24・27・28・30号機(18・19・21・31・32号機の内、3両の番号不明機)の11両が八幡製鉄所に払い下げられ210〜220号機と改番して入換機として働きました。
八幡製鉄所では1953年に大改造したため、クラウスたちは原形を失いつつも走り続けましたが、1964年(昭和39年)までにDL化のため順次廃車、解体されてしまいました。
戦後の混乱期の後でも、24号機は名古屋機関区、26号機は鳥栖機関区で入換機として働いました。
西日本鉄道では10号機(消息不明)を除いて11・12・13・14号機がまだ元気に働いていましたが、1948年(昭和23年)13・14号機と鳥栖26号機の3両が大分交通に転売されました。この3両は宇佐参宮線が廃止になる1965年(昭和40年)まで宇佐神宮に参詣する人々の足となって働きました。13・14号機は廃車後解体されましたが、26号機は解体を免れ現在も宇佐神宮の境内で大事に保官されております。
1950年(昭和25年)西日本鉄道の11号機が室蘭の日本製鋼所に転売されました。
川越鉄道の1・2号機は西武鉄道に引継がれましたが、1918年(大正7年)2号機は、山口県の防石鉄道(防府〜堀)に売却され同鉄道の2号機として廃止になる1964(昭和39年)まで活躍しました。現在は防府駅近くに当時の客車と一緒に保存されています。西武鉄道に残った1号機は1949年(昭和24年)廃車解体されてしまいました。
1925年(大正14年)クラウス15・17号機は、東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄・東横線)に払い下げられました、彼らは当時建設中だった東横線の渋谷〜桜木町間の工事用機関車として働き、1931年(昭和6年)東横線開通と共に両機は北海道の留萌鉄道にある明治鉱業昭和鉱業所に転売されました。15号機は1967年(昭和42年)12月に休車、17号機は1969年(昭和44年)4月同鉱閉山まで同鉄道で働きました。15号機は閉山後沼田町に寄贈されました、寄贈後15号機は一時大井川鉄道に貸し出され運転されたが現在は沼田町農業記念館で大事に保管されております。
17号機は閉山後、池袋駅前の西武デパートで競売に出されました。105万円で岩手県遠野市の菊池清治氏(会社役員・日本クラウス保存会代表 )が落札しました。1969年10月鶴見のキリンビールの引込み線でイベント運転、翌1970年(昭和45年)3月からは大阪千里で開催された日本万国博覧会での展示。1971年には大井川鉄道での運転と日本中を走りまわりましたが、1983年(昭和58年)に遠野市に寄贈されました。遠野市の市民団体「クラウス17号を走らせる会」の努力により1985〜86年にかけて5回ほど遠野駅構内の引込み線(200m)で運転されましたが、その後同駅で保存。2000年5月荒廃するクラウス17号を見かねた元の所有者の菊池清治氏の請求により同氏に返還されました。
現在クラウス17号は遠野市にある菊池清治氏の経営する「万世の里」で大事に保管されております。

クラウスCタンク機のその後。

1907年の鉄道国有化後、1400・1440形29両は1925年(大正14年)頃から私鉄や専用線の需要にこたえ払い下げられていきました。1400号機は昭和電工鹿瀬工場(1号機)、1401号機は島原鉄道(15号機)、1402号機は東京市、1404、1411号機は第1セメント川崎工場、1405、1415号機は播丹鉄道(11・12号機)、1406号機は島原鉄道(16号機)へ、1407・1416号機は産業セメント、1408、1418号機は大分交通(耶馬渓線4・5号機)、1410、1444号機は大分交通(国東)、1414、1417、1419、1441、1445号機の5両は八幡製鉄所(322、324、323、320、321号機)、1420号機は渡島鉄道、1442、1443、1446号機は耶馬渓鉄道(大分交通1、2、3号機)、1440、1447号機は(筑前参宮鉄道5、6号機)とそれぞれ払い下げられていきました。国鉄で最後まで頑張った1413号機は1925年(大正14年)廃車、解体されました。
私鉄・専用線で働いた彼らクラウスCタンクは、牽引力があり重宝されましたが、1965年までにDL化のため余剰になり順次廃車解体されてしまいました。
唯一生き残ったのは1412号機で、1927年(昭和2年)僚機1403号機と共に鹿島参宮鉄道鉾田線(鉾田線3、4号機)の開業に併せて払い下げられました。1403号機(3号機)は後に廃車されてしまいましたが、1412号機(4号機)は1963年(昭和38年)末まで同線で働きました、廃車後は栃木県壬生町の(株)トミーに引き取られ現在も大事に保官されております。



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