別れの朝


1974年11月1日
この朝、機関庫を出て行ったのは赤い機関車ばかりだった。
SLたちは、機関庫の奥に集まっていた。
まだ煙を漂わせてはいたが、石炭をくべられることは二度と無かった。
ただじっと火が消えるのを待っていた。

「仲間たちが、次々と冷たくなってゆくのは寂しいな!」
薄暗い機関庫の中から、汽車たちのこんな会話が聞こえてくるような静かな朝だった。

「その朝が来た」 会津若松機関庫 1974年11月1日


「屑鉄のように」 会津若松 1974年11月1日
機関庫の奥には、SLたちを修理する機械が集められていた。
まるで屑鉄置き場のようだった。



「おい見ろよこの厚いタイヤ、まだ走れるのによ・・・」と、機関庫の奥で老整備士が愚痴っていた。
若い整備士はもう使わない布切れ(汽車を磨く時に使う)を集めて燃やしていた。
本州で最後まで残った8両のC11形蒸気機関車には、もう転属しても走る地が残されていなかった。
2ヶ月後(翌75年1月)には九州の南端に残った志布志区(大隅線、日南線)のC11−6両も火を落とす予定だった。
最後の砦、北海道の東端を走る標津線のC11−6両も、翌75年の4月中には終焉を向かえる事が決まっていたからだ。
1974.11.1



1974年12月6日
前夜からの冷たい雨が、朝から雪に変わっていた。
私は機関庫の前でぼう然としていた。
朝降った雪がSLのランボードに積もり、前夜の雨がつららになっていたのだ。
「蒸気機関車につららが・・・」
この悲しい現実をこの目で見てしまいショックだった。
あんなに暖かかったSLたちが、みんな冷たくなっていた。
ここ何年もの間撮り続けていた、会津のけむりが消えていた。
もう走らない事はわかっていても。


「つららが・・・」 会津若松 C11197  1974年12月6日


「冷たい雪が・・・」 会津若松 C11197  1974年12月6日



「1本の笹竹」 会津若松 1974年12月6日

1本の笹竹がSLたちの前にさしてあった。
誰がさしたのか?
会津では、魔よけの意味がこの笹竹にはあるのだが。

雪が一段と激しく降ってきた。
もう終わったと思った。
重苦しい気持ちのまま機関庫を後にした。
「さようなら会津のけむりたち」と心の中で叫びながら。
そしてにどと振り返らなかった。
暗い空から、大粒の雪が私の頬にあたり濡らした。
あの雪は少し塩からかったのを、今でも覚えている。

(終わり)



あとがき
写真集「会津のけむり」を最後まで見ていただきありがとうございました。
150枚でまとめる予定の写真集が、制作しているうちに300枚近い写真集になってしまいました。
実際には掲載出来なかった会津の写真、全国各地で撮影したSLの写真が3600カットほどあります。
ほとんどの写真は、駅周辺や機関区で撮影したSLの記録的な写真ばかりですので、
緒先輩の写真集にはとうていかないません。
思い出の写真集はこの「会津のけむり」で終わりにしたいと思います。

ひき続き復活した蒸気機関車の魅力を探る。
「汽車に魅せられて」をお楽しみ下さい。


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