寂しい秋が-1


1974年9月20日
その朝、「会津復古会」の大肝煎(おおきもいり)五十嵐大は、朝刊を読んでいた「そんなごとねーべ」と突然声をあげた。
新聞の社会面トップの見出し「消えゆくSL、11月からディーゼルに国鉄が正式発表」と書いてあったのだ。
彼のもとには、6500人の署名と100万円近いカンパ金が寄せられていた。
会津復古会では「動かねえSLは死せる鉄のかたまり、走り続けてこそSL、SLを残せ」をスローガンに、会津のSL在続運動をこの1年間繰り広げていた。
8月には東京の国鉄本社、仙台の仙鉄局に足を運び陳情した。
運動は会津幼稚園協会。会津保育協会。会津子供会育成会連絡協議会。会津若松商工会。喜多方商工会。の全面的協力で順調に署名が集まり、今日の特急で代表6人が上京し明日には国鉄総裁に6500人の署名を渡す手はずになっていたのだから。
この国鉄の先制パンチに、五十嵐は大きなショックを受け。怒りさえ覚えた。
「どうすんべー」ため息がもれた。
「あと40日か」この日から寂しい秋始まった。

右は1974年9月20日の福島民友新聞の切り抜き。


   





 「朝焼け」 西若松付近 C11254  1974年9月22日

この朝、会津線の貨物列車はC11が牽いていた。
だが只見線の貨物列車はDE10形ディーゼル機関車(右)が牽いてきた。
そうDE10形の練習運転が始まった日だった。
くしくもこの数時間後五十嵐らは、東京の国鉄本社で総裁に妥協案として「1年間のSL運転延長」を陳情したが、
会津地区のSL廃止の決定は、くつがえされなかった。



「稲刈りの頃」 西若松付近 C11254 1974年9月30日



「秋の川原」 只見線 西若松-本郷間 C11204  1974年10月6日



「柿木の下で」 日中線 上三宮付近 C1180  1974年10月10日



「旅路へ」 日中線の喜多方駅ホーム C1180  1974年10月10日


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