ダイエー
坂本龍一がダイエーの宣伝に出ていたのは84年のことです。また、そのときのCM作家は、「YOU」のオープニングや83年の大友克洋のイラストを使ったサントリー「オールドアンドペリエ」の宣伝で有名な李泰栄です。(流山の雀鬼)

D&L
坂本龍一の'95年のツアー。正確なタイトルは「三菱電機スーパーセレクション 坂本龍一Tour'95“D&L”with Daizaburo Harada」。「D&L」の「D」と「L」はそれぞれ、「DIGITAL,DREAM,DESIRE」「LIFE,LOVE,LUST」の頭文字をとったもの。当時「インターネット」や「マルチメディア」に音楽のこれからのあり方を見出していた教授が、画期的な試みを行ったツアーだった。
このツアーのうち'95年11月30日の日本武道館公演は、インターネットで全世界に生中継するという、当時としては画期的な試みをした、実験的なライブだった。当時はインターネットはまだ今ほど普及してはいなく(Windows95が発売されたばかりの頃)、またインターネットでのコンサートの生中継は世界でもまだ数例しかなく、日本では初めての試みだったという。
また、ツアーのメンバーとして映像作家の原田大三郎(YMO再生ライブの映像を担当した)も同行し、ステージ上でリアルタイムで映像をコントロールするという画期的なパフォーマンスを見せた。メンバー紹介時に原田は「マルチメディア:原田大三郎」と紹介されていた。
このツアーは、アルバム『SMOOCHY』からの曲を中心に構成され、前年発売の『Sweet Revenge』からの曲や、古くからのファンには懐かしい「羽の林で」「Ballet Mechanique」、YMO時代の「音楽」「BEHIND THE MASK」などが演奏されていた。(MSY)

第三世代YMOファン
主に、1993年頃に出現した「再生YMO」を見たり聞いたりして、いつの間にかYMOの曲などにはまってしまった人のこと。
1997(平成10)年9月11日に発行・発売された『トーキョー・プロパガンダ』(※トーキョー・プロパガンダ・センター発行。同人扱い。)■3の「緊急企画!!東西YMOファンアンケート」の「Q19,あなたは”第三世代YMOファン”の存在を認めますか?」という問題から登場している。ちなみに、この言葉の生みの母(?)は主幹の敏宮龍一である。(敏宮龍一)

daisyworld
細野さんの新レーベル。オフィシャル・サイトがあり、そこでは会員登録ができるようになっているはずだ。(gonsi)

ダンス音楽嫌いの細野さん?
細野さんの「ダンス音楽嫌い」発言は、新しいモノでは“SKETCH SHOW”アルバム・リリース時による時のモノがあります。高橋幸宏さんが、「細野さんはダンス音楽が嫌いなんですけど、僕は違います(笑)」と発言。言わば本人の、と言うより証言ですね。
細野さんはどっちかと言うと「うるさい音楽嫌い」からスタートしてるようです。まず、一番最初に、「APRIL FOOL」に関して「僕はもう、うるさい音楽に飽きちゃったんですよね」と発言。この辺りから“静かな音楽”のバッファロー・スプリングスフィールドへの理解を示し、「はっぴい・えんど」結成に繋がるようです。
次にYMOなんですけど、こっちも「ディスコ好き」と言うより、ただ単に「自分のやってきたヘンと言われ続けている“エキゾティック・サウンド”をどうやって皆に理解してもらうか?」と言う問題の解決策として、“ディスコ・スタイルに乗せればどうか?”と言うアイディアを得たようです。つまり「割と消極的」な理由なんですよね(笑)。決して「ディスコ大好き」じゃなくて、むしろ「距離をおいてる」発言をしてるんですよ。
当然「アンビエント」というキーワードを得て、第2期YMOはスタティックなサウンドを聞かせるコトとなります。
次の発言は『SFX』と「F.O.E」以降。特に近田春夫さんと組んで「F.O.E」名義で「日本語ラップ」に挑戦した辺りの発言です。元々「SFX」とかの辺りでは、細野さん解釈の「HIP HOP」をやる、ってのがアイディアだったらしいんですが(それがOver the Top=“やり過ぎ”というコンセプトを得ることになる)、近田さんと組んだ辺りでは「HIP HOPはツマラないんですよ。」と発言(笑)。組んだ経緯でも「(近田氏に)頼まれちゃって」と消極的(笑)。この辺りの証言でも、またもや幸宏氏が「細野さん、HIP HOP飽きちゃったらしいんですよ」(笑)。いやはや、徹底してます(笑)。
次はビル・ラズウェルと組んだ『N.D.E』のトキ。「ハウス嫌いだったんですけど(!)最近の流れとしてアンビエント・ハウスってのが出てきて凄くやりやすくなったんですよね」と発言。つまり「ブライアン・イーノ」以降の「アンビエント」ってスタイルが「ハウス」と結びついたんで「アンビエント」やる上では「やりやすい」って言ってるんです。決して「ハウス」ってダンス音楽スタイルが好き、とは言ってないんですよ(笑)。
以上、細野さん「ダンス音楽嫌い」発言集でした(笑)。
  ★このコメントは、「掲示板」より、一部、転載させていただいたものです。10月27日(2003年)のProphet5&MC4さんの書き込みからです。タイトルは「Re: The 4th Encounter」、ナンバーは「550」です。
いつも送って下さるコメントと比べますと、少しくだけた感じ(?)になっていると思いますが、それは掲示板だからです。(^ ^)
 このお話は、最初、Prophet5&MC4さんが「The 4th Encounter」というタイトルで、クラフトワークの来日について情報を下さいました。その後のレスで、「ダンス音楽」についての話題を出して下さり、更に、上のようなレスをいただきました。かなり詳しい説明ですので、掲示板で消えてしまうのはもったいないと思い、こちらに転載いたしました。Prophet5&MC4さん、ありがとうございます。
 この後も、興味深いお話を書き込みして下さっていますので、以下に続けさせていただきます。(^ ^) 一部、内容に差し障りがないと思われる範囲内で、改変させていただきました。(nakanaka)

クラフトワークはダンス音楽と言うよりも「ダンス音楽になっちゃった」って方が正しいですね。特に『アウトバーン』ではディスコヒットを記録したんですけど、「デンタク」が収録されている『コンピューターワールド』までは、どっちかと言うと「変わったロック」を作っているつもりだったみたいです。当然「テクノ」って自覚はまるっきりナシ。「テクノ・ポップ」っていうアイディアは恐らく81年の来日公演で得たアイディアなんじゃないでしょうか。
(この時の日本側の“接待役”が坂本龍一さんでした。この時の模様を教授が「いや、YMOってクラフトワークに比べれば“マネ”って感じでしょ? 僕らにしてみたら“神様”みたいなモンなんですよ。その“神様”が“ディスコ連れて行け!”って大騒ぎなんです(笑)」と“夜の接待”(?)に付いて発言(爆笑)。推測ですが、この辺りの“YMOとクラフトワークの接触”ってのが日本で生まれた造語「テクノ・ポップ」という単語を欧米側に伝えるキッカケになったんじゃないでしょうか?)
この後、クラフトワークはオクラ入りとなった“幻のアルバム”『テクノポップ』を経緯して、87年の『エレクトリック・カフェ』、90年の『The Mix』とより明確に「ダンス音楽寄りの姿勢」になっていく訳です。
さて、“変わったロック”をやってるつもりだったハズのクラフトワークだったんですが、むしろオーディエンス側の、特にクラブのDJ連中が彼らの音楽を“クラブ・シーン”に引き込みます。その無機質なリズム・パターンが「ファンキーじゃん!」と思われ、特に「ヨーロッパ特急」がHIP HOP成立時に多大な影響をあたえます。この時、「アフリカ・バンバータ」による「プラネット・ロック」の訴訟事件があり、これはHIP HOPシーンにおける「他人の音源をパクって来て、それにラップを乗せて発売する」という著作権管理問題の恐らく最初の大きな事件でした。
しかし、この様に「クラフトワーク」ってブランドは、テクノのみならず、初期HIP HOPの成立に多大な貢献をしており(と言うより、クラフトワークなしではHIP HOPの誕生そのものも無かったでしょう)、また、結果としてクラフトワークそのものにも、「クラブ・シーン」というビジネスを認識させるコトになったようです。
「瞑想音楽」系列は「ドイツ系ロック」を説明する上で良く使われていた単語なんですけど、「特にクラフトワークに付いて」ではなかったと思います。まあ、この辺りのサウンドはピンク・フロイド(彼らはイギリスですけど)に始まって、タンジェリン・ドリーム、クラウス・シュルツ等の音楽を説明する為に良く使われました。
むしろクラフトワークのキャッチ・コピーってもっと酷かったんですよ(笑)。オビに「ナチス・ドイツの魂を継承し」とか酷いコト書いてやんの(笑)(『放射能』1975リリース)。中学当時アルバムを買った時でも大笑いしてましたもん(笑)。当時のライナー・ノーツも酷かったですね。どーしても、「プログレッシヴ・ロック」の文脈で理解しよう、ってするからそもそも無理がある(笑)。まるっきり「新しい音楽」「新しいスタイル」なんですけど、評論家が全然ついて行けてないから、やたら「メンタル・ロック」ってスタイルで無理やり解釈しようとしてた。この辺り、やっぱ日本ではYMOの登場のおかげでクラフトワークのスタイルが理解されやすくなったんではないでしょうか?

ディスコミュニケーション
講談社のアフタヌーンKCより、”ディスコミュニケーション”(植芝理一著)と云うコミックがでてますが、作者も自称する程YMOファンで、その作品の背景などに、YMOの曲名やアルバム名が見え隠れしています...。一度ご覧になってはどうでしょうか...。(雅衆院 丈二)
 ★以上、雅衆院 丈二さんより。メールアドレスが分かりませんので、この場でお礼申し上げます。ご投稿ありがとうございました。(nakanaka)

ダウンタウン
●(1)坂本龍一と交流の深い、もはや説明不要の人気お笑いユニット。教授は元々彼らのファンで、『ガキの使いやあらへんで!』の収録を見に行ったのが彼らと教授の交流の始まり…だったはず。その後ダウンタウンの番組に教授が出演したり、ダウンタウンの二人による謎のヒップホップユニット「GEISHA GIRLS」を教授がプロデュースしたのは周知のとおり。教授のことを平気でどついたりできるのは、おそらくこの二人だけではなかろうか(笑)。
それにしても、スネークマンショー、S.E.T.、竹中直人、そしてダウンタウンと、YMOの三人とお笑いは深い関係にあるんだなあ…と改めて思う。
そういえば「トリオ・ザ・テクノ」…。YMO自身もお笑いユニットだった(笑)。(MSY)
  ★そうそう、確かそうでしたね。ただ、最初の出会いは、坂本さんいわく“お互いに何も話すことはなかった”ような状況だったらしいですね。“今までで、これだけ何も接点がないような状況になったことはない”という感じのコメントをしていたとおもいます。でも、その後はすっかり仲良し(?)。「GEISHA GIRLS」のユニットも、確かこの番組の中で、冗談で(恐らく松ちゃんが)言ったことがきっかけだったような。。。(nakanaka)
●(2)何年前だったか忘れてしまいましたが、「ガキの使いやあらへんで」の番組内でのチーム対決のバツゲーム(このときは浜田チームの負け)で、松本チームが出したバツゲームが「NYに住んでいる坂本龍一氏にボールペンを借りに行って来い!」というのがありました。 浜ちゃんがドアをノックすると、坂本氏がドアチェーンをかけたままドアを開け、事の成り行きを聞いた後、ボールペンを取りにいった。そして再びドアチェーンがかかったままドアを開け、顔を半分だけ見せて無造作にボールペンを放り投げてドアを閉めてしまった。(SL500)

土曜ソリトンサイドB
●(1)NHK教育テレビで'95年4月8日から'96年4月23日まで放送。司会は高野寛さんと緒川たまきさん。あがた森魚さんやテイ・トーワさんらミュージシャンを中心に三好和義さん(写真家)、京極夏彦さん(作家)など多彩なゲストが出演。
放送当時、僕が毎週楽しみにしていたテレビ番組は、これ位だったかもしれない。YMOの3方がそれぞれ出演したというのも珍しい。毎週最後に高野さんが曲を演奏していた(!) 高野さんの落ち着いた人柄がよく出ていて、今はあのような良質のトーク番組(音楽がメインの)はまず見あたらないと思う。ドリアン助川さんの詩のコーナーも今となればまた見てみたい。12月16日の細野さんと矢野さんの共演は美しかった。『土曜ソリトンサイドBリターンズ』(アスペクト、1996)という本も出ている。(nakanaka)
●(2)YMOの三人はそれぞれ別々の回に出演した。
番組の最後に高野寛と共に演奏した曲はそれぞれ以下のとおり(出演順)。
坂本龍一:「夢の中で会えるでしょう」(高野のナンバー)
細野晴臣:「夕凪」(高野のナンバー)
高橋幸宏:「LEFT BANK」(ビートニクスのナンバーで、鈴木慶一もゲスト参加)
このうち「夢の中で会えるでしょう」は、高野がギタリストとして参加した'94年の坂本のツアー「Sweet Revenge Tour」の中の、高野との弾き語りのコーナーでのレパートリーでもあった。
また、これらとは別に細野晴臣は「矢野顕子トーク&ライブ」の回でゲスト出演もしている。
YMOの三人が出演したこれらの回はいずれも反響が高く、後にこれらを再編集し、新たな部分も付け加えられ、結成から散開、再生までのYMOの奇跡を追った番外編スペシャルとして「特集ソリトン YELLOW MAGIC 〜YMOの足跡〜」というタイトルで放送された。このスペシャルの中のナレーションで「再生YMOは、YMOを『過去のもの』として終わらせるための儀式だったのだ」というコメントがされているが、後に細野も「火種がくすぶっていたYMOを終わらせるための儀式」とコメントしているこの事実は、実は一般に公表されたのはこの番組が初めてだったのでは?と思うのだが…。皆さんどう思いますか?この回でこのコメントを聞くまで、再生YMOの活動はいつかまた再開すると期待していた人もいたのではないでしょうか?(MSY)
  ★『土曜ソリトン』は、当時、本当に楽しみにしていました。私はもともとテレビっ子と言っていいほど、テレビを見ている時間が長かったのですが、10代も半ばを過ぎてくると、テレビに何か余り価値を見い出せなくなって(とカタく言うほどでもなく、単に面白く感じなくなっていったというだけですが)、『ソリトン』は楽しみにしてました。(^ ^) 今でも、関心のある番組を探せば、沢山あるにはあると思うのですが。(nakanaka)

Dreamcast
●(1)1998年11月発売のセガのDreamcastで、電源を入れた際の音楽は坂本龍一が担当している.(丸山 貴正)
●(2)まあ、ドリキャスとは直接関係ないんですけど、SEGA的にはYMOのメンバーとかなり密接した関係を持ってたんじゃないかなあ。と言うのも再生YMOのライヴでは大量のCGが使われましたが、一部SEGAが「実験的に作ったゲーム用の(多分、体感ゲーム用?)」CGが流用されてたからです。(Prophet5&MC4)