詩とはなにか/固有名のイロニーもしくは反復される偽装

1)襞の運動

 詩には、出来事と気分という有限なるものから、無限と自然の概念に上昇する場合と、無限小の系列に降りてゆく場合がある。作者とその反対側にもうひとつの収束点を仮定して、その両端からの線分が言葉であり、詩である場合とその逆の過程、すなわち出来事の平面を無限小の個物、無限の襞に折ってゆく場合である。かつて北村太郎が微細な詩人と呼んだ方法であるが、当時は細部にこだわり、細部を増殖するように拡大してゆく手法として認識されていた。主体の内面を駆動軸に据えた戦後詩を解体する非人称の運動であるように見えるが、閉塞した内面の表象にすぎないのではないかという批判があったと思う。自己ではない外部の到来であるとか、主体によって予め与えられた意味に抑制された言葉ではなく、言葉の強度(その存在性)によって詩を形成する意図に対する疑念であった。詩作品を結果として見るなら、紙の上に書かれた文字の連続とするなら、それらは同一性に束縛された表象=再現前性でしかないだろう。しかし実際はそのようには見るのではなく、読むのである。その詩の効果に沿うように読むのではなく、もう一度詩を経験するように読むのである。裸の文字ではなく、そこに差異の運動を読むべきである。単に物質性をそこに認めるのでもなく、そこに到来した強度を反復することに身をゆだねるべきなのである。なぜか? 試作品をいくつかの物語として読んだり、歌うという身体の振動に落として読むにしても、詩のブロックで越えがたい亀裂があったり、別の線分が差し込まれていたり、異音や雑音によって私達の理解と歌声は滞りがちである。むしろ滞る差異の生成と反復こそが詩そのものであるはずである。そのような読みが可能になるためには、詩作品はドゥルーズのいう裸の反復、つまり詩形式への安易な依存での同一性としての反復ではなく、詩形式を介在として変換された着衣の反復、襞を生成する動的な反復が必要である。特異点から特異点への反復であり、オリジナルという意味=価値から見られた系列ではなく、シュミラークルであり偽装こそが真なるものなのである。差異は反復するしかない。ゴダールの反復であり、多なるものの沈黙でありながら過剰であり、微細でありながら残酷な反復である。

あなたの前で私たちは姓を失いました。犬のようにつづまった名前で呼ばれると、のろのろとひとりでに手が動き、ブラウスのボタンを外しはじめるのでした。一方あなたは、決して名前を明かそうとはなさらなかった。ご自身をK [ka:] と呼ぶように仕向けられ、一切の説明を拒まれました。K! K! K! K! 私たちは甲高く叫び上昇しました

阿部日奈子『K』より)

 ここではカフカを思わせるKなる人物に誘き寄せられる私たちの、Kへの性愛と自分自身の身体への羞恥が入り交じった奇想が語られている。私たちのKへのいくつかの挑発の推移が書かれ、私たちはKという多様体の身体を啄むようにして、Kと呼ばれる人物に接近してゆく。私たちは人から逸脱する線分上を運動することになる。「K」という名であり、コクマルガラスとしてKは、その途上に生起する分岐する線分の中断であり、その運動は線分間を飛ぶことを余儀なくされる。つまり、偽装としての反復であり、舞台の形成が見られるのである。そこでの台詞は、偽装されているがゆえに真実であり、私たちの言葉の運動が複数性を強めるにしたがって、空虚としての中心=Kなる人物によって上昇と下降の動作へと変化することになる。さらには机であり、不在そのもの、文字に収縮してゆくものだったのである。舞台上でのKなる人物の沈黙と「私たち」の複数化と群れへの動きは、テキストという多様体の襞を開いて行くという舞台そのものであり、偽装された特異点から特異点への反復なのである。詩が、そのような舞台を夢見るのは、内面化と意味による言葉の薄まりへの抵抗だろう。同じように書物も、偽装された言葉の反復が見られるべき舞台なのである。書物と舞台は、いたるところで襞を作ってゆく。実際は逆に、この襞が書物と舞台なのであって、襞の運動によって詩はもたらされるというべきかもしれない。

2)固有名と偽装

 そのような舞台も書物も、強度としての言葉が錯綜する一方で、その運動が無限小の無限の反復が1なるものに収束する魅惑は避け難く残っている。阿部日奈子はパロディーとしての舞台にすることで、その縮退を広げようとしている。さらに言語がひとつの舞台を作っているにもかかわらず、舞台上で完結しない言葉(パロディー)であるとか、舞台の進行を阻害する雑音なり不純物が混入している。これらは、モナドの予定調和のように、舞台が一つの世界を表現することを妨害し、外部を分泌する。「K」はこの舞台の中心であるにもかかわらず、舞台の完結を妨げるように作用している。舞台の虚構性をもっとも明示する存在であり、それ自身は痕跡に似たものなのである。

 そのような固有名は、個々のものが存在し、一般性はそれら個々のものから形成されたとするノミナリズムの扱いができる存在である。ことばという表象は、固有名においてその絶対的存在を現している。固有名は、示差的な体系としての言語に到来する外部なのである。固有名は、地上に落ちてきたひとつの仮面なのである。それは事物ではなく、まさに偽装であり、実体を空虚とするしかし輝かしい仮面なのである。

固有名とは

そのような無限

無限にそこ/そこへ

呼ぶひとの匿名の声の網が

とおく雨のようにやさしく降りかかりつつあり

涼し/あるいは片かげり

あら草に隠れるように

未知へ/未知からの

無限にその固有名の崩壊の余韻のただなかを行く

そこ

無限にそこ。

野村喜和夫『独歩住居跡のほうへ』から)

 運動の効果として固有名があるので、それによって指示される個体は、不在であるという以上に、固有名は個体に対して二次的なものである。個体の存在と固有名は同じ水準であるとも言える。「無限」によって意味されるものは、言語の内部に回帰するもので、無限という個体の存在を想定することはできない。もし草という個体の存在を想定することができれば、「草」はすでに固有名であると言えるだろう。ここから重要な結果が引き出される。一般の言葉は語られる水準に対してつり合っていて、その意味には見えないものはなく、言語というシステムに回収される内容をもち、語られる水準の時間に同期している。固有名は、特定の個体の存在を呼び起こしながら、その存在が不在であるばかりか、その存在とは絶対的に隔てられていて、言葉を重ねることで逆に遠ざかってしまう関係にある。「国木田独歩」という固有名は、散文的には国木田独歩以外を指し示すことがなく、そう書くことで一定のイメージが与えられる。したがって国木田独歩なる存在に、一般の言葉以上に近いと言えるかもしれないが、問題はそこにはない。「草」は実際の草との関係はかなり漠然としていて、人にとってあまり有用でない小型の植物という意味は、言語によって規定された内容であり、言葉の意味=価値が事物の存在を規定している。「国木田独歩」はその人の存在なしにはありえない言葉であり、示差的な言葉の体系からはみだした記号である。その草が「草」と呼ばれる起源は、もはやわからないばかりか、いつからその草がそう呼ばれだしたのかを考えることがばかばかしいくらい自然で必然的な関係を構成している。その草と「草」との隔たりは、一般的には意識されないし、その草という特殊なものは、実際の草から発生するものではなく、言葉のほうから現われる。言葉の内部から自動的に生成されるのではなく、意識と記憶の潜在的領域から生成するものである。

 精神と対象との間での記憶の回路とはそうした運動のことを述べていて、運動する主体=詩人は言葉を特異化するのである。言葉を特殊な文脈に使うことやその効果が重要なのではなく、言葉の特異化が固有名と同じように、外部性を帯びるにいたることである。そのことは、特異化することが、真理や物の本来の姿を表現するためではなく、主体=詩人が特異化の運動を生きることであり、偽装を反復することであり、シュミラークルとして、対象の不在に捕われ、その隔たりを生きることになる。(潜在性の現働化はこのような特異点の運動を意味している。)対象の不在は、記憶と忘却、痕跡としての記憶によってあらわになってくる。主体=詩人は、記憶の回路を偽装として反復する。その時言葉は異化作用というような可能性と偶然によってその運動量を割り当ててしまうのではなく、可能性と偶然を破棄して不透明な強度として生成されるのである。

3)痕跡による記憶

 記憶のうちの、想起(ヒュポムネーシス)は、何かによって思い起こすという作用のため意識でありながら不純なものつまり外部を巻き込んでいる。潜在性はどちらかというと記憶(ムネーメー)であり、痕跡のような不純なものを介在しない直接的な意識の場である。つまりその運動を見ないで、その繰り返しの産物に同一性を見るだけなら、閉じた空間と時間になってしまう。たとえばモナドはその無限小の系列によって全体を表現しうるとされるが、その襞と襞の間では、外部を参照している。そこでは前田英樹の言うところの「ラングの闇なる変換」が存在していて、同一性には回収できない反復が存在しているのも事実だ。デリダが言うように記憶(ムネーメー)は、その痕跡をいわば隠されていると言うべきなのである。意識にとって痕跡への参照が、自らの場の亀裂であると同じように、固有名は言葉に不意に挿入される外部なのである。「国木田独歩」とある時に名付けられたのであり、突如地上に落ちてきたようなもので、言葉の内在性からはみだしているのである。詩は、詩形式によってが外部を形成しているだけでなく、あるいは詩形式によって内側に閉じた言語でなく、つねに外部の挿入や襞の運動によって揺らいでいる。

 鈴木志郎康が詩の隠喩の機能を、現実社会に対置しうる主体としての「自己の内面」を表現することにおいている。「鮎川信夫を選んだのは、「主体」という概念を、現実社会を詩の言葉の対象に据えると主張した個人としての自覚によって説明するため。鮎川信夫は「魂」という言葉を使っているが、わたしは彼を「自己の内面」というパラダイムを言葉の領域に開いたと語る。その内面を言葉にして実現するためには「隠喩」を用いなければならなかった。(『詩の包括的シフト』より)」ここでの「自己の内面」と「魂」もしくは「内在性」は区別しておかねはならない。隠喩によって実現される「自己の内面」は、内面でありながら現実社会を取り込んで開かれているのではなく、「自己の内面」は始めから権力として構成されていて、「外部コード」による隠喩で外部を内面化する手際が詩として実現されたのである。「魂」もしくは「内在性」は、なによりも厳密に規定された存在であり、しかも多なるものである。というのも、無限の内包をもつからであり、一つの運動であるからだ。

4)再び固有名から/記憶の再来

 野村喜和夫は、「私の詩の行為は独歩住居跡に向かう。繰り返し繰り返し、まるで終わりがないかのように、独歩住居跡に向かう。そこが目的地だからではない。そこからもっと一般的普遍的な何かへつき抜けていきたいからでもない。そこへ向かうこと、なぜそこへ? と問いつつ向かうこと(『アダージョ』より)」と書いているように、隔たりからの負荷を運動の過剰さに転換する。同一性によって固定化される言語に、さまざまな線分を書き込む運動は、襞と密接に関連している。自らがシュミラークルであることをささやく、イロニカルな記号なのである。真なるものの表象であるばかりか、それへの通路であるとする言葉に対して、固有名は真なるものの表象という機能を剥奪された存在でありながら、それ自身言語システムに対して外部を分泌している。(潜在性は、モナドは窓を持たないというように内在的であると同時に、そのこと自体が多様体であり存在する強度であり、主体を包含している)

その淡い妖しいまでの

くゆり立ちくゆるので

碑はやがて波打ちながら回転し

碑のうえで碑文は

文字の初期のようにまどろみながら

融けた謎やあらたな謎の渦

その渦の倦む腕に

いまや透けて

群れをなす碑の子の系の

なんてスキャンダラスなんだろう

碑の子の系の

碑の併呑に

碑のつまり

碑の子への併呑に

文は散り無限はひよめく

(『硯友社跡の無限』から)

 いたるところにある語の反復は「碑」という音であり、「碑」は回転することで、碑のうえで、「碑の子の系」を無限に生み出す。碑はもはや独歩住居跡地に立っていた碑とは関係なく、シュミラークルの際限のない運動に突入している。ヒの系列(碑、ひよめく)ウの系列(渦、畝、倦む)は、緊張感を強いる音であり、この二つの系が垂直方向と水平方向に音を空間化して、無限の自然を幻影のように押し出している。「無限にその固有名の崩壊の余韻のただなかを行く」地上に落ちてきたような国木田独歩という固有名は、ここで崩壊してしまう。示差的な言葉の外部=痕跡としての固有名は、詩の時空の変化のなかで風化していくことではなく、ここにおいて固有名の痕跡性があらわにされているのである。固有名に附随するイメージが崩壊して、名付けるという行為が亡霊のように反復しているのである。

ひとりまたひとりと送り込まれて、──

(書記の痕跡の寺へ、急ぐ、あるいは寺の痕跡を、書記へ。急ぐ。あるいは痕跡を書記へ、寺へ。どうしたのだ、盛り上がる空無のなかにこそ、寺はひそんでいるのかもしれない)

‥‥

そして降り立つと、塗料のようなものを渡されて、それで書記の痕跡を塗りつぶせという、色? 色は忘れた、

‥‥

でもどうしょう、ぐずぐずしていると塗料が粉末になってしまう、さらさらした、ふわふわした粉になってしまう、そうなるまえにどれだけ書記の痕跡を消せるだろうか、といそしむうち、空間に光はみなぎり、寺そのものが希薄になってゆくかのようだ、さらさらした、ふわふわした、粉のような光はみなぎり、──

(『書記の痕跡の寺』より)

 「ひとりまたひとりと」送り込まれて、書記の痕跡を消す作業をする。そこでは書記の痕跡が寺として沈んでいる。痕跡を消すことは、かならずしも急いで行わねばならないことはなく、「急ぐ」というシフトが必要なのだ。この語によって小さいずれの運動が作動しているのである。非人称の呟きのように、あるいは亡霊の声に反響するように。この詩では、めずらしく書記の痕跡を消すという目的があきらかにされている。しかし、その目的は寺という痕跡が希薄化して消失しがちなので、宙に括られる。言葉のシフトは、不安定な塗料でなされ、痕跡をめぐる偽装を反復するのである。そうした運動は、光のような主体と対象の関係を明示するような直線的運動ではなく、粉末が光であるような、そして微弱であるが周囲に痕跡のように浮遊する光なのである。無限から降り立った光ではなく、有限にほうに彷徨する光、地上を水平に移動する光である。幽霊のようにふわふわしたもの、偽装された反復を真なるものとするさらさらしたものが、痕跡との接触によって再来する。それは浮遊する光であり、固有名であり、エイリアンであるが、いずれも記憶という回路を通過していわば向こう側から到来する、記憶を持ったものである。単に事物が想起されるのではなく、それらは痕跡によって、記憶を留めている。「固有名の崩壊の余韻」によってはじめて固有名が記憶を持ったものとして現れる。「碑」や「畝」という痕跡は、滅んでしまうことで、現前性の地平から消えることで、記憶をもったものとして再来するのである。それが「草」であり詩であると急いで付け加えねばならない。

5)正当性を欠落させた命題

 そのような再来に、主体の過剰性、現在という意識が被ってゆく傷を持続しているのが稲川方人である。稲川方人の詩は、中性的なものが、廃虚のようなところで、滅んでしまった者の記憶を産みつけているわけであるが、その詩は「悲歌」の形式を希求するだろう。なぜなら滅んでしまった者の記憶を探し求めるからである。その記憶は、つぎつぎに中性的なるものによって産みつけられる一方で、その記憶は起源からは隔てられ、しかもその起源は虚偽によって後から構成されたものであり、起源を滅ぼすこととその産みつけられた記憶を偽装された反復として生きることが有限の「悲歌」に見えるのである。

(四月の沼をたどると方法が消えて、歌の親和も

人間の比喩も、

うつろな救いとなった、四月の沼の

ひかりに伏せる韻律には無駄があり

わたしを解くよりもはやく無名の耽美に敗れて

人間の歌が群れていたのだ わたしはその歌の

触れやすい末端を削り落すよりも、四月の燕の

無援の不信をたたえていたのだったが

なおもあやうくなおも単調になるがいいと

なおも単調になおも過敏になるがいいと

過渡期の鳥は助言する われわれの不能の観念に

巣づくりのための灰色の迷宮をはこんでは

つぎつぎに死んでいく そのような

四月の沼をわたしはたどり、霧の晴れ間にただ

方法の生死をたずねていたのだったが、

                      (稲川方人『封印』より)

 ここでの「方法」は生死を問われるもので、言葉の自由とセットになっている主体の自然であり、ここではそれらの自由と自然によって補強されてきた詩は「四月の沼」という記憶を持つものを求めて彷徨するのである。しかし「四月の沼」は言葉の自由と主体の自然を滅ぼすべく作用するのである。「方法」はつぎつぎ死んでゆく鳥を受け入れることができない。死を潜ってきた記憶を持つものは、同一性の原理のもとで作動する主体の自然なるものを外部に連れ出すだけでなく、特異点から特異点への移動(偽装した反復)に変換して、主体の場を空虚と変えていくからである。「韻文系詩の主体は死者」でなければならないのは、書かれた言葉がその固有の起源に絶対的に隔たっているためなのである。「歌の親和」「人間の比喩」をもってしても「四月の沼」との距離は埋まらないし、その距離を生きるためには、過渡期の鳥のように「四月」によって偽装することしかないのである。

 偽装した反復は、死に介在されている。タナトスは、無機物になり自然の循環に回帰するという物質化の概念と理解すべきではなく、オリジナルとは何も関係をもたなく、浮遊するように反復される偽装を作動させる力(ピュイサンス)なのである。「つぎつぎに死んでいく」鳥は、そのようなタナトスであり、再来する亡霊なのである。「四月の沼をたどると方法が消えて」での「方法」とは、歌の可能性であり主体としての人間の詩学であり、タナトスによってそのような同一性の詩学は無効になり、偽装した反復が、仮面から仮面へ、亡霊から亡霊へと回転するのである。

詩学の円卓をゆすれば君の闘いはさみしくはじまる

「思潮の月日はとても短かいものさ」

魂のくずだよ

君は君の時代の戦火を指さす

君の時代の街は火炎の工場を封鎖したが、

性的な火だよ

ガラスのように君は歴史の感傷を信じている

魂のくずが詩の一編を書くんだよ

(『2000光年のコノテーション』より)

 魂のくずは、この開けられた水際から理解せねばならない。記憶を持ったもの(想起の過程でもある)は、「魂のくず」として偽装されている。したがって一度は忘却されたものが、再来することが詩であるという認識だけでなく、再来に対して絶対的に遅れてしか詩は実を結ばないのである。二重に遅れてあることの負荷が、敗北という状態でもある。書かれた言葉と概念が真なるものを含んでいるのではなく、その核心には虚偽しかなく、それを巡る言葉がアクチュアルなものである。したがって、それらは、構成され全体に収束する意味の系列であるような比喩ではなく、差異としての外部を隠蔽して個を延長させ、結果としての差異、静的な差異に従属するのでもなく、正当さを欠落させているが厳密な命題なのである。コノテーションは正当さを欠いているという意味に理解すべきだろう。正当さを欠くのは、「ことばの自由と主体の自然は、....なによりもみずからを抑圧するために詩を作動させるという悪夢」としての現在への闘争は、現前性としての詩からはぐれてゆき、あるいは川のゆるぎなき岸には行き着かないからである。ある意味で「歴史の感傷を信じている」ことが、概念の内包量を高めていると思われる。無限から有限へとシフトして、命題への問いが記憶を持つもの=アクチュアルなものを挿入することにもなっている。

 行き着くことがないこと、半月型の穴、そして傷。あらゆるところで非対称な関係が示唆されているが、主体とアクチュアルなものとの関係であり、その落差の持続が詩に賭けられている。