●●●小林弘明
分断された物語または細部の隣接

 『ノルウェイの森』とか『マディソン郡の橋』あるいは野島伸治の一連のドラマのような純愛物語がよく読まれた。ノルウェイの森はともかく、後者のほうはあまりに売れすぎて不気味ですらある。むろん愛のさまざまな意味を見いだし、その切実さを確認することも大切なことだろうし、他者とか外部への作用等の考察も興味ある内容であるが、ここでは差し控えて、物語がこれらの小説やドラマでどのように変形し、パターンやイメージとして機能しているように見えるかを簡単に考察してゆきたい。
 80年代の物語批判のように、私たちの知に遠隔的な磁場を及ぼす不可視の装置といった物語の機能を再び具体的に作り上げることも可能だし、どのような物語が私たちに希薄に共有されているかも幾分興味ある問題だが、物語と私たちの関係が表裏一体でもなければ、親しいものでもなくなっていることを、まず指摘すべきなのである。私たちがすでに共有している物語を再び確認して連帯を深めるといったある種の余裕がなくなってきていて、孤立感とか貧しさを伴った虚無感、あるいは抑え難い性急さによって信じてもいない物語に身をまかせたり、いたずらに子供じみた欲望の素朴な表現が純愛であるとか、真実の生きざまであるとか、人間性の回復などと取り違えられているのである。
 したがって、私たちはいわば物語から追放され、彷徨の人になっていることを、むしろ、問題にすべきではないだろうか? ばらばらになった物語の断片、そしてその類似物の断片が見分け難く混ざりあっているだけで、それらの一つから大文字の物語につながることや、それらを縫い合わせて歴史の代用物を言い立てることさえ滑稽であるだけの子供じみたふるまいなのである。意味を取り出そうとする性急さが、私たちの瞳を閉ざしているのである。その平板性に眼を凝らし、互いに似ることでかろじてイメージになっていることを身をもって認識すべきであろう。類似した誰かから類似した別の誰かへの悪循環にも似たジグザグ運動、物語からの追放を享受するいくぶん貧しい状態が真実と言うべきものである。

 今日の切迫感が、さまざまな物語を、あたかも大文字の物語を反映した部分であるかのごとく変形させ、私たちが飽きるまえに、また別のものをぞろ持ち出すというように物語を消費させ、そのインフレーションを引き起こすのである。別の何かに似ているという存在感を欠いたイメージが、いくぶんかは、私たちの欲望の新しい代理物であるかのように流通したり、偽りの起伏であることを知りながらも、真実の物語とのすり替えが起こってしまうのである。私たちは機能しあっている物語の断片たちのとりとめなさと平板さを、あっけなく忘れてしまって、ある種の必然性を作り出したり、過不足のない意味で、断片と断片との距離を埋めていって、平明な物語にすり替えてしまう。あるいはひそかに神の名をつぶやいてしまうのも物語の衰退に対する不安なのかもしれない。(カフカが言うところの性急さと投げやりさを回避するのが、いかに困難であるかを考えるべきだろう)

 私たちは、物語の成就にひたすら仕えるしかない虐げられた映像\\決して見られることのない映像、あるいは私たちの瞳をその成就に向けて欺き続ける映像への苛立ち、ひたすら先送りにすることで私たちから視力を奪ってしまう装置へのいきどおりを感じずにはいられない。それにもかかわらず、見てしまうのは、自己同一性を啓蒙してくれたり、終わりをもつことの平明さと爽快さに誘導する物語を必要としているというだけではなく、書き割りのような類似物、増殖するぺらぺらのイメージをその貧しさのもとで存在させることに対する期待からなのかもしれない。たとえば野島伸治の新しさはそうした類似物を類似物として描くシニカルさにあった。しかし、ごく小数の作品でしか、物語のインフレーションに耐えることができなかった。その後は、物語に身を委せて真実を取り違えて、共同体の喪失後の類似物の群れに与える意味の安易さが目につくのではないか? 愛と欲望の区別であるとか、物語によってはじめから要請されているに過ぎない意味を人間の赤裸な真実とすり替えたりといった醜くさえある安易さと抜きがたくある通俗性を出ることはない。

 ともかく、私たちはほとんど消滅した親しげな善意の連帯への荷担はできない相談であるし、ヒステリーじみた表現で補填された物語のなかで視力を失ってしまうわけにもいかない。となると物語のインフレーションに追随する果敢さを身につけるか(おのずと限度はあるが)、あるいは物語の断片のとりとめのなさと、それらを隔てる距離にこそ目を向けるべきであろう。誰にも似ていない誰か、類似物を欠いた体験を期待できるのではないだろうか。たとえば「穴巣」での私と出口との距離、私そのものである穴巣であるとか「世界の終わりと‥‥‥」で計算士の私がアリアドーネに導かれながら通過する暗闇で密着してくる蛭と水、つまり、闇という隔たりそのものが密着してくる意味とか類似物を欠いた出来事、ベンヤミンの「アウラを呼吸すること」での距離の体験を生きることが、物語の分断であり、磁場を撹乱する運動にほかならない。
 
 物語の断片のとりとめのなさとは、結局、置きかえられることのできない沈黙した細部のことであり、そこにおいて、誰にも似ていない誰かが生起し始めるのである。細部は、主題が占めている前景の周辺であり、かといってまったくの地でもない。いわば主題と地の密接な共犯関係、あるいは鏡像関係に入る亀裂である。主題に偏差を与え、深刻な地滑りを引き起こすのは、あるかなきかの間隙ではなかろうか? 地という主題を可能ならしめる場から区別される細部こそが、物語に回収されることなく、他者と連動して類似性の編目をつらぬく強度的な身体になるのではないか。イメージとして見られた物語は、繰り返すようだが類似性にしたがって増殖してゆくのに対して、物語の細部は隣接性によって反復するのである。細部と細部は鏡像関係を崩して、絶対的な差異であると言うべきで、もちろん互いに似ていない。nから1を引くことでの多数性の生成と重なるだろう。
 松浦寿輝の『平面論』ではひびの入った鏡像を、無限に再現するイメージ(像)に対して、鏡像という自己に密着するイメージに絶対的な不在が刻印されているという意味で〈貌〉と名付けている。 「〈貌〉とは、何の「イメージ」でもない、ただの「イメージ」である。ただ単なる「イメージ」それ自体である。「正確なイメージ」ではなく、「ただ単に、イメージ」とゴダールは言う。「ただ単に」そこにあるだけのイメージ。それは何ものにも似ていない。それが「表象」しているはずのもともとの実体にも、むろん似ていない。つまり〈貌〉は、相同性や同型性の体現者としての「同類」から絶対的にはみ出しており、そのはみ出した分だけ「想像界」からも隔たってしまっている。
 絶対的にはみ出している部分が、おそらく強度≠Oの器官なき身体を起点とする隣接性による身体なのである。細部の意味に還元しえない物質性は、「単なるイメージ」、「なにものにも似ていないイメージ」の表面そのものであり、表面とそこへの何者かの到来である刻印で成り立つ身体なのだから、「密着した不在」があらゆる細部に刻まれているというのである。到来した者とは〈貌〉であって、誰でもない誰か、生きられた死♀官なき身体なのである。そして、強度としての差異の受苦を担いながらの反復を細部としているのである。
 
 笙野頼子の『レストレス・ドリーム』『二百回忌』は、ワープロのなかの存在感を欠いた文字が、小説の枠組みの慎みを振り切って、氾濫してゆく物語と片付けてしまうことはできないだろう。死者(ゾンビ)と私との、平板化した終わりなき戦いがワープロのコードを肉体として悪夢のように続く『レストレスドリーム』であるとか、生者と死者の垣根を崩してフラクタルのように湧きだしてくる先祖達の荒唐無形に繰り広げられる『二百回忌』は、確かに子供じみた言葉の洪水と見えるが、けっして実体に結び付くことのない記号が、速度の遅いパソコンで画面が粘り付いて、生々しく蝕知していまうCPU時間に連動しているのである。等距離性とか再現性を等閑視して瓦轢と化した物語に奥行きと機能を延長させて、あてがわれた意味にますます視力を失っていくのでもなく、互いに似ることでかろじてイメージ=物語になっている貧しさという消耗され、希薄に共有される類似物を繰り返しているのでもない。まさにイメージの生産の原理そのものとして、不気味なまでの増殖を繰り返す再現性に関わりながら、持ち込まれる隣接性によって、変換時間を引き延ばすようにして等距離性を窒息させている。高橋源一郎のような気の効いた語りで、言葉が流通する別の経路を開いてゆくこと、あるいは小林恭二のように荒唐無形な言葉による倒立した世界像を呈示といった、いわば言語の物語での技術的な達成でもあり、弱点でもあるイメージの広がりを殺しているのである。あくまでも平板的で無機質的なスプラッタシティーでの粘りは、作家の文体というものではなく、隣接性と密着性から要請された強度なのである。あらゆる部分と部分が接続されていて、細部のあからさまな露呈によって、物語は見る影もなく粉々になっている。終わりなき戦い、しかもコードを欠いた単なる戦いが展開するばかりなのだが、文字が平面上に到来するときの息苦しい密着性が、再現性と等距離性のイメージ=物語と象徴界から絶対的にはみ出している貌を癒着させているのである。その際の戦い、細部と細部の移動による終わりなき戦いの記録(ドキュメンタリー)なのである。