4.「ねじまき鳥クロニクル」での暗示と反映

 「ねじまき鳥クロニクル」は鏡像関係の破綻後の物語であるととりあえずは言えるだろう。  岡田とおるは、「ピンボール」の「僕」に所有欲のなさと一風変わった物事へのこだわりは似ているものの、早急さと投げやりさを見せることのない、つまり過去に罪を犯していない人物と言えよう。したがってこの物語は受難の物語なのである。岡田とおるはマルタ、クレタ姉妹、シナモンといった人たちに夢読みの能力を気づかされる。他者の無意識を肩代わりできうる能力のために、満州蒙古国境での出来事を体験することになるのである。世界のおわりという幽閉された無意識の世界と現実の世界とが鏡像関係にあったのであるが、「ねじまき鳥」は同一の平面上で展開しているのである。もはや岡田とおるの鏡像は存在しない。彼の影の部分は、猫「わたやのぼる」や顔にできたシミとかに断片化されたのであろうか? 1938年満州国境から世田谷の露地裏までの一本の糸がつながっていて、彼は期せずして蒙古の井戸を影とせざるおえなかったのか? 構造化された言語が彼と鼠を表裏の関係に縫い合わせたことに対して、今までの作品の主題を反映した言説を繰り込む戦略的なリアリズムが、内容的には幾分錯綜しているにもかかわらず、均質な空間を構成しているのである。つまり彼とその影は超越的シニフィアンに吊り下げられて、まったく鏡像関係の揺らぎを失う一方で、効果的に同一平面に重ねられて投影されているのである。
 「物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ」と諦観した声こそが表面には現れぬ超越的シニフィアンなのである。これは村上春樹的ウィットが効いた悲しみなのかもしれない。しかし「そういうことだ」という悪意さえ感じられる断定こそが、鼠を死に追いやる悪い風を吹かせていたのである。そして、いままで出口がない行き止まりであった井戸が出口を持つにいたった「ねじまき鳥クロニクル」は、その予言の成就に向けて動かされているように見えるのである。予言とは、いつも社会の無意識なのである。理由予言の成就は神秘とか啓示といった機構ではなく、その新しさはおそらく反映という機構が入口と出口を持ちながら、その入口と出口の区別を持たないというを掘り起こしたことにあるのだ。