2.無意識という帝国での記号の習得

 「帝国は無意識の裾野に拡がる世界である。そこは懐しさに満ちみちている」という『忘れられた帝国』は、島田雅彦がまさに少年だったときの外の世界を、ひねくれた子供の目で見いだしたものである。「帝国は前世や来世も含む四次元の世界を流れる川のようなもので、ぼくは未生以前からそのほとりで遊んでいたのだ」という帝国を流れるTM川は、地理関係、洪水の話があるにもかかわらず、現実の多摩川からずれてしまうのは、ただ単に作者の思い入れのある回想であるためではなく、逆にそういった回想から除かれる不協和音である個人的で交換不可能な身体や事物が流れるのがTM川であり、トイレであり茶の間というわけなのだ。河原とか裏山、茶の間といった世の中に蔓延っていたイメージ---某友人はファシズムとよぶが---もはや古きイメージしか引き起こさないにしても---それゆえいっそう作者の無意識が権力関係に操作されがちなのであるが、つまり茶の間、裏山といった思考を停止させる何かであって、現実に霞をかける権力関係が与えるイメージなり意味と戦い、亀裂を与え、その差異を生きることが、結局無意識の裾野に拡がる世界であり、表象の平面を差異化するひとつの運動なのである。「なぜなら、ぼくの体も魂も帝国の一部なのだ」。この帝国とは、超越的シニフィアンの支配する無意識でありながら、ノマド的運動が発生している過渡的であり、政治的な帝国なのだ。 それゆえにイメージのなかに体と魂が見い出され、表象ならざるもの=現実の上で想像力が作動するという懐かしさに満ちみちているのである。

 イメージの等距離性を亀裂としての存在により過剰に引き寄せ、記号と身体との間で折り畳んでしまう。TM川の向こうには芸者がいて、黒竜江の向こうには敵がいて、そのあいだを行き来するものがいた。右岸と左岸を結ぶ船は、無意識の波間に消えることもあるのだった。危険な領域はトイレにもあったし、帝国の森にも学校にもあったのだ。ここにイメージは折り畳まれ、身体と記号が遭遇することになるのだ。

 島田雅彦の小説の登場人物は、着せ替え人形のように、表情を欠いている。身体的な誇張と妄想的な行動が、等距離性が捏造する表情という風景から逃走させるというべきであろう。「あの頃、ぼくたちが無邪気でいられたのは何もかもが始まったばかりだったからだ。何をするにも暗闇の中の手探りゆえの黄金時代だった。権力闘争のさなかで‥‥‥少しずつ帝国の掟や法則を学んできたが、全て自分の体を実験台に使ったのである。‥‥‥時間はうんざりするほどあり、その気になれば、やり直しも効いた」無意識という過剰な沃野で、無意識の掟を身体が学んでゆくのである。顔は無意識のざわめきに埋没して、まだ見いだされていない。身体の形成過程で、あるいは身体の傷=亀裂として言葉が行動している。だから無意識の学校のカリスマ的エミコの巨大なおっぱいに蹂躙されるのであり、幽霊屋敷でミナコは黙示録的な言葉をまとったりするのである。