鏡像とネットワーク
小林弘明
1.HTMLと「蝟集空間」
HTMLはネットワーク(コンピュータ)上のさまざまな言語で書かれた無数のテキスト
と画像を相互に結びつけてハイパーテキストにする記述言語であり、コンピュータ間のコミ
ニュケーション手段である。
タグと呼ばれる記号だけで(括弧でくくる)、ハイパーテキストを作ることができるのは、
8BIT単線の通信から情報をパケットにして一気に送る階層化されたプロトコルの採用そしてブ
ラウザ(閲覧ソフト)という発想によっているのであり、この手軽さが端末のパソコンをワー
クステーションにまで持ち上げ、情報の流れを増殖させまさにWORLD WIDE WEBに変化させた。
これは、テキストとテキストを引用という概念で結んでいることで特徴づけられる。ひとつのテキストには別のテキストにつながる引用タグ(リンク)を反映している言葉があって、その言葉をクリックすることでその言葉に反映されている「引用」テキストへと一気に移動する。反映された言葉には特定のテキストの階層と場所を示す内容が付加されている。こうしてテキストとテキストは次々とリンクされ仮想空間をつくることになる。ネットワークではテキストからテキストへの流れが発生していると言えるかもしれない。パソコン通信が、いわば広場であってそこを通り過ぎるネット加入者の人と、その広場はそれらの人々が置いていった言葉で作られ、ホストコンピュータへと集まってゆく言葉の組織体と言えるならば、インターネットは気まぐれなリンクとテキストからテキストへの取り留めのない流れと言えるかも知れない。あるいはひとつのネットでの階層化ということと、階層を交差して、少なくとも垂直軸をなし崩す線分の発生との間で、それぞれが独立し区分されたテキストを撹乱し、テキストの部分と部分を連結して別のテキストに到るようにして、引用の織物というべきものに近いだろう。
さらに、ここで注目すべきことは、言葉にメタ言語的にタグが反映していることである。テキストモードでは言葉の間に引用符タグとコマンドが挿入されて、ブラウザで見るとタグで指定された書式とレイアウトに再構成されているのである。ブラウザを通すことでタグはテキストに反映される。ブラウザはまさに電脳プロジェクターであって、実際インターネットのWebのサイトを見ることは、端末のディスプレイにワークステーション上の画像を投影する手続きを行うのである。パソコン通信の電子掲示板や電子会議室はいわば大きなファイルであって、私達はそこを開いて読み込んだり、書き込んだりしているのである。私達はファイルという部屋の中から読み込んだり、そこに書き込んだりの作業ができるだけで、端末の私たちは、その部屋を大きくしたり、新たに作ったり、あるいは外との関係をいじるわけにはいかないのである。一方、インターネットのホームページはいろんな部屋を増殖させるようなもので、ほとんど制約を受けないで、つまりインスタントに私達は無数の部屋というより正確にはページ(すべて見ることができ、常に開かれうる---公的な場に私的なものが流れ込む境界にもなっている)の設計をすることができる。これがタグでありHTMLなのであり、これによって錯綜したページのアレンジメントに別のページを加え、別の通路や線分をひくことができるのである。ひとつのページから他のページへの移動コマンドである「リンク」を随時文字やイメージに反映させることができる。これらの設定とホームページが個人の端末でインスタントにできることが重要なのである。言語形態に与える要因は、文字とイメージを混在して扱えることで、---パソコン通信では文字記号しか扱えない---このことは、ただ単にページという概念をコンピュータ上で成立させただけでなく、あるいはフレームによって作られる仮想的な場所だけでもなく、文字のイメージ化を加速させているのである。
私達は、ワープロでディスプレイ上の文字には親しく接している。紙に書き付ける手の労働からキーボードでの作業になったり、カナ漢字変換が介在して、言葉は幾分私達から距離をとることになるが、そこには直接書かれた言葉の鏡像を認めている。その距離は皮膜で隔てられた、限りなく近い距離であるだろう。実際、原稿用紙に書くこと以上に言葉を個人的なファイルに封じる意味合いが強い。
ワープロでの文字が鏡像とするなら、インターネット上のそれは松浦寿輝のいう「蝟集空間」のイメージー---名前を失った群衆として機能する---なのである。そのイメージは再現性と等距離によって特徴づけられ、一回性を構成しない世俗と反復に属するものであり、イメージを送る人も、受け取る人も顔のない群衆であることを要請するのだ。オリジナルなきイメージの蔓延であるとか、べきぺらぺらしたイメージの遍在という表現で語られるべき世界なのである。したがって、「私」という概念は消耗してしてゆき、均一な距離のもとで見られ、松浦がいうような「それであってそれでない」イメージに、「私」が書いた言葉が脱色されるのである。言葉が記号から画像イメージのひとつになることは、象形文字的な身体を持つのではなく、あるいはイコン的な表徴となるのでもなく、言葉の熱気、つまり亀裂を出来させうる身体の喪失なのである。
一方もし「蝟集空間」での群衆として機能していることが、そこでのイメージの圧制のすぐ近傍で、身体の亀裂さえも遍在させる執拗さと仮想空間をもっているなら、もはやネットワークの問題ではなく、境界としての文学を形成することになる。そして間隙を覆って蔓延するイメージに対するゲリラ戦すなわち差異の流れは、等距離性のフレームを撹乱するだろう。