光/運動/身体   高柳誠試論

 光のポレミックさ、その困難さは、光を見ているのか、物を見ているのかの区別が判然としないということから来ているかのようである。光は、事物の認識のための媒介になっているので、光そのものの記述は厄介だということもある。光が現象と物質の中間に位置していることも、事情を難しいものにしている。さらにあの光とかこの光というように、光そのものが区別されることはないはずなのだが、私たちはいくつかの忘れがたい光を記憶している事情もある。しかしそれは光なのか、光という現象なのか疑ってみなければならないが、ともかく、忘れがたい光とは、意外に漠然とした光の印象であることが多いことに驚かされるのである。印象が薄いというのではなく、その場の事物に依存していて、光について費やすべき言葉は不足しがちで、正確なことばで語れないという意味である。それにしても、事物ではなく、どうして光が問題になるのだろうか?この答えはとりあえず用意されている。しかしそう答えることはおそらく誤っているのだ。「それでもなお、あえてそれをこれと名指したいと欲望し、この光について語るという企図に固執せずにはいられないのは、実のところそこで問題になるのがおのれ自身の信憑そのものだからなのだろうか。光の信憑。」松浦寿輝『青天有月』

 木漏れ日の美しさ、水面上での光の反射、夕暮れ時の微妙な光の変化、スペクトル、方解石、ビンの底についての言説は、光の直線性とそこからの揺らぎへと、ともかく因数分解できるかもしれない。光が反射したり、屈折したりする現象で、私たちは光の存在に気づき、きらきらしている光の運動にしばらく魅入ってしまうこともある。きらきらというのは実際光の直線性とそこからの揺らぎの身近な表現である。水面がきらきらしているのは水面の動きのためであるし、ビンの底がきらきらするのは目の位置が揺れているためである。あるいは木漏れ日は、葉っぱや枝の動きで光に対する透過率が結果として揺れ動くためである。だから運動しているのは光ではなく事物の方だと言えるかもしれない。光はそれらの運動を瞬時に伝達する媒介なのだというのも正しい。直線性あるいは直進性というのは、この機能を保証する特性である。実際電波のような長い波長のあまり直線性のない電磁波では、事物の運動を捕らえることは困難だろし、逆にもっとエネルギーが高く直進性が高い、紫外線やX線では事物の影を見ることはできない。もっとも光(可視光)に感応するようになっているのが視覚であると言えるかもしれないが。すくなくとも大雑把に言って、光が遮られるものが主要な事物であるという約束になっている。結局光は機能もしくは媒介であって、木漏れ日という現象は、光そのものの運動から来ているものではないということかもしれない。それでも木漏れ日という現象は、光なしにはありえないし、光と事物と視覚とがつくる空間であり、二次的な運動空間になっているように思える。
 光そのものを見たとき、太陽光線にしても、白熱電球の光にしても、その運動を感じることはないし、さほど私達の興味をひかないであろう。光は、質量を持たないこともあって物質的側面が希薄であり、物としてではなく現象として知られるものであり、それに対して運動を議論すること自体が無理がある。また一方光の速度がある限り、まぎれもなく運動しているのである。ところがその運動は、すべての運動のみならず時間の根拠となるものであり、唯一の不変常数である。そんな事情もあって、光は全体をあらわすものであったり、超越的な一であったりしがちなのである。明るみという空間を作る全体的な光、それは視線と深く関わり、物を秩序付ける。私達の視線はこの明るみなしにはあり得ないが、視線の優位が強調され光そのものの様相は議論されることは少ない。
 もうひとつは暗闇と密接に結びついた光線、少なくとも暗い背景によって明示され、より強度の高い光線である。これは光の一次的な性質をあらわにする。つまり直線性からくる光の力であり美しさであり、場合によっては神秘さである。しかし視覚的な現象である。これがかえって光の運動を見失わせる結果になる、少なくとも光の直線性から逸脱することはない。光を超越的な観念に安易に置き換えてしまうのである。そのような超越的な意味をもたらすものではなく、光は内部と外部の境界を宙に括ると同時に、もっと侠雑物を含んだうつろいやすいものなのだ。だから、物の像を私達にもたらす機能、投影機能の側面に付け加えるものとして、あるいはその機能を撹拌するものとしての光、物と見分けがたく到来する物質的な光なのであり、意味に運動を付け加え、自らを複数化すること、1+1の運動が見い出されるべきだろう。
 たとえば木漏れ日は、葉っぱや枝のこきざみな運動から誘発された、そしてそこに光がやってくることで発生する別の運動であり、別の光景である。木漏れ日の強度の微妙な変化、色合いは光の単なる直進性や葉っぱの存在だけでなく、光と葉っぱとの相互作用(直線性の揺らぎ)の結果である。光が葉っぱにとどまらず、事物への広範な作用は、光の戯れという複数化の運動なしには考えられない。一方、光の直線性が事物の関係を規定することにもなり、そういう意味で視覚の優位性を確立させる大きな要因である。つまり、光の直線性とそこからの揺らぎが、事物の秩序を明らかにさせるとともに、事物の固定関係を緩め、戯れという運動を導入するのである。もはや光の運動からのずれとして定義されるような運動こそが、光の欲望としてあらわれてくるのである。私達に条件反射的な運動なり行動あるいは知覚をとらせるのではなく、非決定の状態にとどめ、その断面に思考をはりめぐらせるのだ。
 黄昏は光の回り込み、光りの際限のない屈折であり、光の戯れである。太陽が沈み暗闇に没する前の大気の層を感じられる時間、大気の層は柔らかくかがよいている。時間は止まったように、光は一瞬の静止を通り過ぎようとしている。私たちは何を見ているのだろうか? その光はもはや事物を運ぼうとはしない。大気だとか湿度、温度、表面のようないつもは見ていない物質の効果を一瞬パノラマのように提示するのであろうか? 光はもはや視覚との共犯関係を結ぶことなく、したがって忘却に向けて組織されるような一瞬によって、私達の視覚という器官の空洞を拡げるのであろう。一から多にあるいは全体から多に砕けた光は、私達の身体を経由して、強度の場に変化する。光は流れとして、他と他を接続/分断して、私の身体の奥行きへの亀裂を通過して、記憶としての言葉が現実化されるのである。言葉は非人称化され、身体に刻まれるのである。

それは裸体であろうか/いや/それは裸体でさえありはしない/むしろ/裸体を超えたところの/捨象された憂愁の皮膚/ことばの闇に耀う/肉体という光の繭//草露がしどけなく滴り落ち続け/鳥の形象も虫の音もなく/ただ/月光の粒子だけが/丸く刳り貫かれた視界一面に降りしきる//周囲は/明け切らぬ闇に同化するように/溶暗してゆく
(高柳誠『月光の遠近法』より)


ここでは光が肉体に集積してくるのである。肉体は、光が放射されるのと、吸収するのとの境界に位置して、揺れ動く光の輪郭をなぞっているかのようにも見えるのである。肉体は、言葉の空間と外光と事物に照らされる空間の境界から捉えられ、いわば光による肉体のイマージュの出現が語られている。光の投影的運動、イマージュのひとつの根拠となる機能と散乱した言葉に光をあてるという機能。一方で、言語の規則を逃れるなにか、理想的で自足的な構造をもつ身体の分身という存在でもあるのだ。肉体という光の繭として充ちている光は、「両岸の視差の内側にのみ存在し/表象という実在の枷を逃れた/無垢の繭にしか映らない」のであり、光の欲望に沿ったものである。均一で多様なものを孕む以前の光に読めるのはなぜだろうか?白色の光、運動におもむく直前の純粋な光であって、さまざまな記憶が到来して、光の欲望を分散し種々の物質に具体化する光ではないのだ。

 この痙攣する言語の闇に入るには、何よりも瞬間的な転写が必要だ。光から暴力的に身を凾ェし、環虫類の蠕動にのたうち関節のこわばりに震える言語の闇へと跛行する、突発的な舞踏が必要だ。光を身に帯びた形象たちは、天才的な不意の身ぶりによって、安住しきった光たちを瞬間的に振りほどく。それは出し抜けの行為。疑似行為を断固峻拒して、一瞬の隙をつくあと戻りのできない交媾。
(「光学機器(から)の遊離・独立による第五の箱」『触感の解析学』)

 そんな「あと戻りのできない交媾」が作用して、言語の闇へと跛行する場合、ふたつの形式があるように思う。第一の形式は、円環的に閉じた構造で光を反復運動へと回収し、薄暗いアレゴリーに充ちたものにする。あたかもわたしの内部にイマージュとしての事物が、不定形な触覚を核として言語に吸収され、光を振り払いつつ二次的な光のもとに疑似生命体に変容する過程である。内側からの物質の探究あるいは自らの身体の探索といってもいいかもしれない。結局空洞と化する身体の表面へのオブセッションが語られることになる。

 卵宇宙は、卵の中に存在する宇宙だと言っても、宇宙を発生しうる卵だと言うにしても、メビウスの輪に表と裏がないように‥‥‥つまり卵宇宙は、内部と外部が交換可能な世界なのだ。‥‥‥そこでは、わたしたちが木を見れば、木はわたしたちの内部に入ってくる。それは勿論、わたしたちが木の内部に入ることだと言っても、全く同じことなのだが........。
(『卵宇宙/水晶宮/博物誌』より卵宇宙4)


水晶宮の全体を見た者はかつて誰ひとりとしていないが、その中央歩廊の天井に非在としての物質だけを反射させる円形の鏡が十二張りめぐらされていることはよく知られている。そしてそこには、死者の顔がすべて投影されているという。
(『卵宇宙/水晶宮/博物誌』より水晶宮5)


 卵宇宙や水晶宮の内部を語る意図はいつしか宙に括られて、二次的な光によって、その表面に厚みを付与することになるのである。
 内部と外部が入れ子になっている架空の構造物が語られたり、非在としての水晶宮を非在として提示する欲望自体は特異なものではない。ここでは、過剰に積み重なる厚みを、光で構成しようとする倒錯を見るべきなのである。お伽話めいた語りと構造の水準が自己言及的にあまりにあっけなく閉じようとする場所で、黒々とした触覚の領域が言語に反作用を及ぼし、言語と光の関係を歪曲させることが高柳の詩の特異点なのである。すなわち独身者の長い物語であり、言葉と光の幸運な重なりからのずれとしての二次的な光、不透明な物質をまとう表象が、卵宇宙、水晶宮や塔の存在であり、不条理な風習、抽象的な船なのである。

 第二の形式では、内在的なイマージュと物質的な手触りを拮抗させる力学は無効になっている。光の飛び散る運動であって、飛び散った二次的な光を言葉と交換しているのである。言葉によって光は多義性の場に移されていると言うべきであって、空虚としての中心への求心的な運動を回避しているのである。すべてを囲んでいた巨大な闇は分断されて、子供達の手慰みとなって測定されるものになる。光も闇の分断によって分散的な運動に移行するのである。

序章はいつも驟雨だった 土埃の明るい旋律を浮き立たせて驟雨が突然背走する 湧出する甘やかな光の幕を二羽のアマツバメが鋭角に切り裂いた 空間の裂け目に虹が己を現像する キラキラひかるもの シュンシュン走るものの季節だ
等身大の鏡を翼にして庭師たちが降りてくる 光たちは色めきたって翼の迷路を逃げ惑う 意識の内部に巣くう無窮の青空 深さの欠けた距離の自乗 どこへ逃げ去ろうと 逃げた先が鏡の領域であることを 幽閉の前に光たちは知る由もない
(「鏡の庭師たち」『イマージュへのオマージュ』)


 鏡と光が交互に入れ替わりうるものであったとしても、外部と内部の図式は成り立ち得ない。非在そのものがここでは探究されていない。存在の連接が問題になっているのである。もっぱら認識者であった独身者は、ものへの運動と機能を担う庭師であり技師に変容する。彼等は道具や器械と連動することで機能するものであって、空虚としての中心、内在的なイメージに還元することなく、光を操る。「言語の闇」に拘泥せず、その表面に連動するのである。つまりカフカの城での測量技師のKのように、城/言語との距離を前にして眠り込んでしまう猥雑さあるいは闇を持っているのである。そのような外部性が光の運動と共犯関係をもち、庭師なり技師は複数化され、詩の遊戯的側面を加速する。
 眠り込むときに錯覚のように現れる光は、黄昏の物と物との間にたゆたう光に回帰するならば、表象=二次的な光を無効とすべく作動する時間をもう少し追ってみる必要がある。