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吉増剛造の力学

   1 マチエールの力学

 吉増剛造の詩は、疾走感を与える、「彫刻刀」「男根」といった運動体として読まれている。吉増は駆け抜け、それらの声がきらりと光る、あるいは、その言葉の速度で叩かれた言葉は、意味を表すのももどかしげに飛び去り、次の言葉を呼び出してくる。言葉に絡みついている意味を振り落とすように、純粋な音に凝縮始める。光の速度に近づく波動の質量を増してくることを想起させるフォルムを縮退させた物質として、私たちに飛び込んでくるのである。

 腐敗、残酷さ、肉体を切り刻み分解し物質にすることが死への通路であったので、死は存在への接岸に他ならず、吉増剛造は、根源的な存在への接岸をするための運動量を高めていたのである。ここで吉増剛造を限定するものは自分の速度でしかない。純粋な音、物質的な言葉である以上、内的なポテンシャルが無限に高まった核であり、土地から垂直に打ち上げられ、宇宙言語への変貌を遂げようとしている。

 吉増の力学を考えることができるとすれば、こうしたマチエールに近づく言葉を巡る力学である。言葉への激しいデフォルメは、確かに起源的な場所という中心を持ってはいる。しかし、吉増剛造自身、それらの言葉で貫かれていて、その全体を知ることはない。言葉の狭間で、いわば「傷」として血を流している。「傷」によって世界と言葉へ意志する、あるいはオペレートする。しかも、明晰な像が得られるためには、世界と言葉に直交しなければならない。物の固有値は直交系に初めて与えられるのであり、言葉と世界の内的秩序が見えてくるのだ。

 物への力の作用の種々の形態を吉増剛造の詩から読み取ることは可能であるし、「螺旋歌」に至る最近の作品では、ある種の力学(不思議の力学)の構築が試みられている。

 空、不吉なる卒塔婆
 空、黄金橋
 虹の曲線、黄金橋、海一滴!
 思惟を渡る黄金橋 
 死と殺人が平手打つ!
 沈黙、立ちあがる死体
 空に言語打ちこむ、立ちあがる死体
                   「黄金詩篇」より

 垂直への意志は、さまざまな雑音を取り除き、本質的な存在への通路になっている。この黄金詩篇でのシーツの純白さは、言葉に付随している意味の無効化、純白の意志しか表さない垂直の言葉を反復する。垂直への意志は、必然的に(中心への)向心力によって成り立つ円運動へと結びつく。円運動は質点の運動方向とは、つねに垂直に力が作用し、強い力を作用させる中心の存在が不可欠なのである。吉増の中心との間に力を作用させながらの運動は、吉増の速度によって決まっていて、もし、速度が低下すると中心に引き込まれてしまい、速度がしきい値を越えるえると飛び去ってしまうのである。

 たとえば、「死人」というのは、停止したときの意味に侵された重い感覚から「死人は未来です」と徐々に運動を始める光景であり、黄金詩篇は中心を振り切ってゆこうとするかのように見える。言葉が完全に縮退してしまっている中心と、無限の固有値が分離されている宇宙との間で、激しく揺れている。

 2 化石への意志

 少年の頃、化石ハンマーを持って一日中山を歩きまわり、手にした水成岩を一撃して、まっぷたつに割れ たその中心に巨大なウニの化石を発見したときの感激、 それがぼくにはいまだに謎だ。以来ぼくは、あの奇蹟を求めて、すべてを化石のように掌にのせてハンマー で割ろうとしてきたのか。唯一の正義がその行為にあるかのように、そこに輝く中心があるかのように‥‥‥世界を掌にのせて言葉の剣で斬る、それがぼくの希望の発生点とでもいおうか。   「中心志向」より

 水成岩という言葉をするどく叩くことで、根源的なものが現れた。しかも化石という内的な秩序の現前があったのだ。この体験を反復するように、あらゆるところに転がっている言葉を、言葉という剣で叩くのである。「空に言葉を打ちこむ、立ちあがる死体」。物が立ち上がり、声にならぬ声で語り始めるのである。私の存在の起源、宇宙の存在の起源を語るのは、現実に意識する私ではありえない。少なくとも、それにつながっているのは、古いものであるに違いない。沈黙していた石が、私の力の偶然の出会いで、内的な秩序を語ったという考古学的効果は、吉増剛造の起源とも響き合ながら、宇宙言語ともいうべき不在の言語に及ぶのである。

 

 吉増剛造にとって、世界は広がりを持った空間なのではなく、あるいは、分節化された建築物でもなく、それ以前の沈黙する石のような強度なのである。ハンマーの一撃で、その強度は輝く中心を開くはずであり、ビッグバンの充満した無限の密度をもつ輝きなのである。

 中心に関しては、ひと世代まえの飯島耕一とは、具体的な体験の相違から、持つ意味が異なっている。/空は石を食ったように頭をかかえている/物思いにふけっている。/もう流れ出すこともなかったので、/血は空に/他人のようにめぐっている/

 覆いがたく露呈してくる空白感、足元から押し寄せてくる不在は、頭をかかえるように光を後退させ、ネガティブに存在をおしとどめた。世界と私は互いに影のように佇むのである。ここでの石は崩壊した瓦礫のように不毛であって、すくわれない記憶なのである。しかも、それは、戦争を通過してきたあまりに個人的で人間的な記憶なのである。

 吉増剛造は、「あの大戦争が終わるときに、意識が明るくなってそこで戦争が終わることによって僕の生は始まるのですよね。頭脳の柔らかいフィルムに無数の傷がつくようにして生まれてきて、それにこだわっているらしいです」。と語っているように、大戦争の終わりは、おそらく反転してビックバンのように白い輝きになっていて、吉増剛造自身は、白い輝きの傷、そこから疎外された物と意識されているのである。内部に輝く中心を隠しているかもしれない石は、吉増剛造自身である。輝く中心は始源的なもので、その傷であり痛みとして生がある。逆に傷であり痛みとして、輝く中心と繋がっている。したがって、「ジーナ・ロロブリジダと結婚する夢は消えた。/彼女はインポをきらうだろう」と書き始めることは、自分の存在のうすっぺらさ、無意味さ、傷という余計な附属物、女根的存在に対応している。男根的存在たる輝く中心から見れば、吉増の生は、腐敗した物であり、死骸として糾弾することで確認できうるものであった。吉増から受ける荒々しいものとは、余計な付随物たる女根から立ち上がる意志力なのである。輝く中心を志向する意志力なのである。付随物を死骸として放擲し、傷であり痛みを通路として輝く中心への運動なのである。(繰り返すようだが)言葉は実にこの運動体に他ならない。荒々しさの現れとしての言葉は、物質的なものとなっている。言葉と輝く中心とが求心的運動をしていて、入れ子状に関係し合っている。言葉を経て、輝く中心へと行き着こうとする、荒々しい言葉の奔流、脳髄の汗が流れるのである。

 それは、重量感を持ちつつ、ある方向への過剰な傾きにある。痛み、根源的な痛みの反復であり、しかも次々と疾走するために、質量を帯びるともに、同一性の引力を振り切る反復しえない反復なのである。つまり、吉増は、言葉の現れる先へ先へと走り続ける。それは、言葉が形成する力学系の包囲の速さとの関係を「ぐずぐずしていたら言葉の属性として終わってしまう」とし、言葉からさえも離れようとしていた。

 剣の上をツツッと走ったが、消えないぞ世界
                     「朝狂って」

 純粋な強度、あるいは大いなる軽さは、このきわどいバランスをこなして、世界の向こう側に跳躍するのである。その早急さは、死をくぐり抜けて、言葉を次々投擲してゆく機能として自らの存在を滑り込ませるのだ。そして、吉増剛造は、言葉に対して完全に透明になろうとするのである。「発光物質のように多声界が、肉のあらゆる空間を占領する」精神と声の肉への優位が「ああ言葉よ自殺したい」という死の欲望となり、言葉に対して不透明な肉体を截り落とし、無限の軽さと、無限の速度を得ようとする。 

 ぼくの眼は千の黒点に裂けてしまえ
 古代の彫刻家
 魂の完全浮遊の熱望するこの声の根源を保証せよ
 ぼくの宇宙は命令形で武装した。

 魂の完全浮遊は、淀むことのない言葉の生産、なんらかの構築的な生産ではなく、純粋な強度量の生産の中で実現されるべき物である。その生産を行う吉増剛造の意志力とは、命令形に他ならない。命令すること自体で、詩が成り立ち、命令した結果は次々延期されてゆく。!で示されるように意志と言葉は一瞬にして炸裂し、千の黒点として、言葉の生産の無数の種子となる。こうした高速の回転、無数の!をあらゆる方向に放射しながらの高速の回転は、輝く中心の反復なのである。

 3 強度としての声 

 詩句の速度とそれへの意志との一瞬の共鳴のもとに詩が産出されていたのだが、「黄金詩篇」から「草書の川」に至る詩句は、いつしか大きくなってきた回転と回転力とのズレに徐々にその場所を見いだし始めている。回転力が弱まったり、回転に矛盾するようになっても、依然として回転し続ける力学の記述をする。ゆきつけてもゆきつけなくてもよいとする。遅れてゆく声の行方を詩句とするのである。

 コマ駅は此のほうですか? コーマ駅は?

 訊ねている私の聲は、気働車に乗って、八王子から、ハコネガサキを通り、大水の通った、乱聲のように跡を残す、中州に、私は分身を吊り下ろし、窓に左腕をかけて、いくつか、峠を下り終えると、ああ、ここも、小アルカディアだな、呟く町を幾つか見つけて来た。 

 私の聲、石の聲?
                  「唖の王」より

 私の声が、声として、ここで典型的に出現する。つまり、私は立ち止まり、私の声に耳を傾けるのである。もはや私は言葉に対して透明ではない。私は私の声から遅れる。コマ駅は此の方ですか?コーマ駅は?との私の声は、すぐさま私ならざる声となって、歩行する声となって、中州の大水が切り刻んでいった滞留する地形となり、アルカディアを旋回するのである。声は聲に変容するのである。「赤壁に入って行って、出て来ていた。」私の声は、アルカディアのような古代につながる場所に引き込まれ、再び出てくるときには石の聲になっているのだ。「出発」のときのように、声の伝わる速度で言葉を打ち上げるのではなく、声に遅れることを逆手にとり、ひたすら耳を傾けるのである。私は旋回する声の間で「誰だろう、ネブカドネザル王?」「ハコネガサキのネカブ」というようにネの共鳴に耳をすますのである。それは吃音のように反響する。反響することでの時間的な滞留と遅れは、その言葉に不透明な地層として堆積してゆく。

 石とはそうした物として理解すべきなのだ。声と物が交差する場所、内在する時間が露出する場所であり、吃音のように純粋な強度として振舞うのだ。意志力といった因果関係を前提とするものから溢れる音と逃走線。速度という量で特徴づけられる言葉の運動体はある力学的場に捉えられている。通常の因果関係から導かれる力学といった物ではなく、反発しつつ引き寄せられる純粋な強度の散乱、物たちが集まってくる様子は、ある力学的ヴィジョンを要請する。コマ駅は此の方ですか?という声は、吉増個人の行為である以上に、自律的な作品つまり力学的ヴィジョンから降りてくる出来事として聞こえやしないか?ということである。この力学の特徴は、量子力学で露出している。言葉という運動体が遅れることで、長く延長されて、もともと力を作用させた意志に回帰している。精神も、因果関係が崩れた力学の中に繰り込まれ、その力学的ヴィジョン、物の連鎖(ほとんど意味を失った)の一部として現れる。 

  コマ駅は此の方ですか? コーマ駅は? 

 だれかに訊ねられるべき形になりながら、この聲は、ただ発声され、あてどもなくさまよう。それゆえに、対話はここから始まる。石のような言葉があらゆる方向にむけて置かれた。いわば無償の行為なのである。対話を前提とした言葉は合理的な組立があり、揺るがしにできない体系としての意味に限定されている。原因と結果が分離されている。(実際こうした古典力学の成立は、フーコーのいうところの表象空間で特徴づけられる古典主義時代と正確に重なっている。)

 コマ駅は此の方ですか?は対話的で、因果関係が明示されているが、コーマ駅は?と延長することで、たちまち対話という共時的な出来事からズレてしまうわけだ。光の多重反射のような意味空間に遅れることで、重く沈み、逃走する。重く沈むことで、バードストーンのように飛び立つわけである。対話ならざる対話。対話的な意味に収れんされがちなことを意識しながら、刀の上を滑るように、つまり狂気によって、語る無償の行為。ナンセンスは意味空間との格闘である。

 コマとかハコネガサキといった地名は、単なる指示的な言語ではなく、個体の個体性、沈黙するとともに外国語でささやく。

 これらの石のような言葉と意志のような石は、互いに反響しながら、唖の王が横たわる宇宙言語に流れてゆくのだ。それは、意志が自らに無限に回帰してゆくこと、環状列石がなわの目として立ち上がってゆくことを思わせる。コーマ駅は?という発話が滞留しながら石の声として反響すること。まわりから折り重なって、バードストーンとして、つぎつぎと力を繰り込んでゆく力学は、明らかに螺旋形として逃走の線を逃走する

4 螺旋機械 

 隠岐にゆく波が、あんなに自由にみえるのは、波が 島にとどかなくてよいと思っているからではないか。

 

絶対的であらゆる言葉のベクトルを決めていた根源的な輝く中心は変質している。ゆきつかなくてもよいという「不思議な滞留の場所」とはなんなのか。波があんなに自由にみえるのはというときの波は、「わたしは、葉が、‥‥‥きれて、」いうときの葉にたどり着いている。「螺旋歌」は、離れ、接岸、途切れるところで出会い、歩みつつ佇み、いたるところで閉じない円を描く。

 根源的な輝く中心という円は徐々に開かれてゆくのである。自己同一性に回帰しなくてもよいという葉の途切れは、「夏のほこりが周囲一面(しずかに)舞い立つ」多様体への変容なのである。 

 「私は、葉が、‥‥‥きれて、片道を、舞い下りていったとき、‥‥‥、林檎と木星、‥‥‥のかげが、 ‥‥‥、残った。ひとりごとがして、(‥‥‥、)、 白い、‥‥‥兎が、緑の葉裏にそって、歩いて行った。 (かがやく丘、‥‥‥)、月と、‥‥‥そのかげに隠 れた星が、葉が、‥‥‥きれたわたしが、細い、(隠 岐へ行く波の姿で?)、光る、ミチ、何処に、‥‥‥ はてるところ、何処にもない、ふかい、うた、いた、 (‥‥‥、)。
「夏のほこりが周囲一面(しずかに)舞い立っていた」

 わたしは、迷路のような多様体のひとつの部品になって、言葉を忘却する。多様体のささやきに耳を傾ける多様体のひとつの部品なのだ。舞い立つほこりの前に佇む、不思議な滞留の場所。遠くから運んできた言葉を捨て、そして、生まれることで傷つく。多様体の、自らを傷つける限りにおいて、わたしがある。傷がその多様体に「、」とか「‥‥‥」という分断をいれる。つまり、出口なのであり、多様体を(しずかに)舞い立てる。迷路の線のように接岸されたフェリーが離れるのである。

 

 (しかし、‥‥‥)(そして、‥‥‥)そこに、部屋があり、‥‥‥都市があり、‥‥‥盲目的に、あなたの言葉は、そこからの解放です。あなたのフェリー、 あなたの艫綱、あなたのボート、‥‥‥
「隠岐は僕の盲目の時間の下にある」

 

 逃走線は「光る、ミチ、何処に、‥‥‥はてるところ、何処にもない、ふかい、うた」であるような、島にとどかなくてもよいと思っている波としてのミチなのである。傷から道への変換、反復する変換を行う多様体は、螺旋機械なのである。

 機械とはなにか?出口と入口をもつすべてのものであり、その装置は、反復的に効果をもたらす、すなわち生産を行う。螺旋は逃走の線なのである。その機械は、ひかりかがやく丘へのミチを反復する。しかしその反復は少しずつずれていて、決して同一のものがもたらされるわけではない。機械は生産によって、その効果によって変化してゆくからである。

 「隠岐」、「宮古」、「平戸」といった地名は、音であり、意味作用から逃れている。波とかミチ、そしてわたしも音としての強度という無意味さであって、言語として定着される以前の物質性であり、ニーチェ的な軽さと脈絡もなく物が存在する滑稽さをあたえる。

 機械とは、構造ではなく、意味作用ではなく、強度の生産なのである。ドゥルーズは音において重要なのは強度だけであるとし「常におのれ自身の廃棄と関連している、強度の高い純粋な音のマチエール、非領域化した音楽的な音、意味作用・構成・歌・ことばを欠いた叫び声、あまりにも意味作用的な連鎖の束縛から脱するための、断絶状態の音響性である」。強度の生産としての音に耳をすますことは、おのれ主体の廃棄と繋がり、機械の部品として機能することなのである。隠岐に向かってゆく波、見るという行為ではなく、吸い込みあらゆる方向へと再び離れてゆく。主体と無関係でありながら、まったくの偶然性から巻き込まれている一連の過程、またそれゆえに主体の無意味さを露呈する一連の過程が横たわっている。つまり、耳をすますことは、それによって、はかばかしい成果や下心や権力的な中心としての主体が見えてくるのではなく、機械の効果を発生させる部品、すなわち出口になっている。

4 螺旋機械 

 隠岐にゆく波が、あんなに自由にみえるのは、波が 島にとどかなくてよいと思っているからではないか。

絶対的であらゆる言葉のベクトルを決めていた根源的な輝く中心は変質している。ゆきつかなくてもよいという「不思議な滞留の場所」とはなんなのか。波があんなに自由にみえるのはというときの波は、「わたしは、葉が、‥‥‥きれて、」いうときの葉にたどり着いている。「螺旋歌」は、離れ、接岸、途切れるところで出会い、歩みつつ佇み、いたるところで閉じない円を描く。

 根源的な輝く中心という円は徐々に開かれてゆくのである。自己同一性に回帰しなくてもよいという葉の途切れは、「夏のほこりが周囲一面(しずかに)舞い立つ」多様体への変容なのである。 

 「私は、葉が、‥‥‥きれて、片道を、舞い下りていったとき、‥‥‥、林檎と木星、‥‥‥のかげが、 ‥‥‥、残った。ひとりごとがして、(‥‥‥、)、 白い、‥‥‥兎が、緑の葉裏にそって、歩いて行った。 (かがやく丘、‥‥‥)、月と、‥‥‥そのかげに隠 れた星が、葉が、‥‥‥きれたわたしが、細い、(隠 岐へ行く波の姿で?)、光る、ミチ、何処に、‥‥‥ はてるところ、何処にもない、ふかい、うた、いた、 (‥‥‥、)。
「夏のほこりが周囲一面(しずかに)舞い立っていた」

 わたしは、迷路のような多様体のひとつの部品になって、言葉を忘却する。多様体のささやきに耳を傾ける多様体のひとつの部品なのだ。舞い立つほこりの前に佇む、不思議な滞留の場所。遠くから運んできた言葉を捨て、そして、生まれることで傷つく。多様体の、自らを傷つける限りにおいて、わたしがある。傷がその多様体に「、」とか「‥‥‥」という分断をいれる。つまり、出口なのであり、多様体を(しずかに)舞い立てる。迷路の線のように接岸されたフェリーが離れるのである。

 

 (しかし、‥‥‥)(そして、‥‥‥)そこに、部屋があり、‥‥‥都市があり、‥‥‥盲目的に、あなたの言葉は、そこからの解放です。あなたのフェリー、 あなたの艫綱、あなたのボート、‥‥‥
「隠岐は僕の盲目の時間の下にある」

 

 逃走線は「光る、ミチ、何処に、‥‥‥はてるところ、何処にもない、ふかい、うた」であるような、島にとどかなくてもよいと思っている波としてのミチなのである。傷から道への変換、反復する変換を行う多様体は、螺旋機械なのである。

 機械とはなにか?出口と入口をもつすべてのものであり、その装置は、反復的に効果をもたらす、すなわち生産を行う。螺旋は逃走の線なのである。その機械は、ひかりかがやく丘へのミチを反復する。しかしその反復は少しずつずれていて、決して同一のものがもたらされるわけではない。機械は生産によって、その効果によって変化してゆくからである。

 「隠岐」、「宮古」、「平戸」といった地名は、音であり、意味作用から逃れている。波とかミチ、そしてわたしも音としての強度という無意味さであって、言語として定着される以前の物質性であり、ニーチェ的な軽さと脈絡もなく物が存在する滑稽さをあたえる。

 機械とは、構造ではなく、意味作用ではなく、強度の生産なのである。ドゥルーズは音において重要なのは強度だけであるとし「常におのれ自身の廃棄と関連している、強度の高い純粋な音のマチエール、非領域化した音楽的な音、意味作用・構成・歌・ことばを欠いた叫び声、あまりにも意味作用的な連鎖の束縛から脱するための、断絶状態の音響性である」。強度の生産としての音に耳をすますことは、おのれ主体の廃棄と繋がり、機械の部品として機能することなのである。隠岐に向かってゆく波、見るという行為ではなく、吸い込みあらゆる方向へと再び離れてゆく。主体と無関係でありながら、まったくの偶然性から巻き込まれている一連の過程、またそれゆえに主体の無意味さを露呈する一連の過程が横たわっている。つまり、耳をすますことは、それによって、はかばかしい成果や下心や権力的な中心としての主体が見えてくるのではなく、機械の効果を発生させる部品、すなわち出口になっている。

   6 不思議の力学 

 カフカの「判決」で、ゲオルクが父に溺れ死を命じられ、家を飛び出し、橋の手すりをつかみ、ひらりと飛び越し、(不思議なことに)しばらくしっかりと手すりにぶらさがり、しだいに力が失せ、がなりたてる音の洪水のなか、「お父さん、お母さん、ぼくはいつもあなた方を愛していました」といって、手を放す。おそらく、ツェランもこの機械の残酷さを生きたのであろう。愛の諸機械はこの残酷な機械と組合わさっているものであり、つねに表裏の関係にある。「螺旋歌」はこの二つの機械の力のバランスとして螺旋運動を行うと見ることもできる。事実、円運動そして螺旋運動での向心力と遠心力は、その運動系の内部では、向心力と遠心力のバランスと見ることができる。そして円運動の中心のずれとしての螺旋運動は、接岸するとともに離れる愛の諸機械の効果であり、ズレという歌であり、新しい機械の生成が語られるのである。

 逃走の線と島=再土地化が交差すること、残酷さがすぐさま愛の諸機械に置き変わってしまう不思議さ、開かれていた空間が、メビウスの環のようなねじれた形で閉じる。力の作用が回帰し自らを変えてしまう螺旋機械、開かれていながら閉じているひとつの体系が、交差することで完成している。

 島への接岸によって、愛の諸機械は体系化とひとつの意味をもたらす。しかし、それは強度ゼロの器官なき身体の上であり、「歌」は、すぐさま残酷な機械の「きしみ」に吸収されてしまうであろう。

 不思議さは、夏のほこりが(静かに)舞う場所のように、生成の予感が語られること、不可視の外部であり、道なる外部の容認がある。しかし、そのときひとつの力学、あるいは力学的ビジョンの想定がすべりこんでいる。語ることは、結局この力学的ビジョンを多く語ることになるが、不思議さがはらみ隠蔽している残酷さの体験は、このビジョンなしには耐えられないのではないか。不思議さをぐらつかせ、またますます不可解にしてしまう不思議さという堂々めぐりは、残酷さの回避であり、不思議の力学として、断ち切るべきである。若い機械に接続する愛の諸機械の効果、あるいは「歌」の反響は、すでに「きしみ」が含まれて、力学として取り出すことで、ますますその不協和音は高くなるのである。



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