小林 弘明
中間的領域のポリティクス

                  
1 レイ・チョウ

 「視覚的なものは、本質的にポルノグラフィックである」と言うF・ジェイムソンからレイ・チョウは、「見るという行為は、裸の肉体を投影することと切り離せない。見る行為を理論的に定義すれば、それは受動的な犠牲者として見られる位置に置かれた他者を、視覚によって貫くことだからだ」 というように、構築された主体と受動的な客体、あるいは西洋とネイティブというようなヘゲモニー関係をクローズアップする。たとえばオリエンタリズムは、西洋の視線による東洋の従属化であり、東洋というネイティブの言葉をオリエンタリズムという事物によって抑制する機制である。酒井 が指摘するように、東洋が東洋として成立するには西洋の受容なしにはありえなかったのであり、一方的な視線や主体的なネイティブの抑圧関係だけを指摘するのは手落ちがある。たしかに、ネイティブという声をもつことが困難な事情もあるかもしれない。レイ・チョウは、地域性を権力関係として見ながら、抑圧されているネイティブもしくは女性を、その関係との闘争として救い出そうとするのであるが、その思考はあまりにも性急かつ凡庸なような気がしてならない。本来ポリティクスはそのような場を形成してきたのであろうが、ここから結論されるのは文化への横断的な批評というより、それぞれのアイデンティティーの確認であり、政治の芸術化である。逆に闘争の平準化と巡りの悪い思考になっているのではないだろうか。いま政治化が横断的な強度となるのは、中間的領域ではないだろうか?中間的領域での闘争は硬直したものではありえず、まさに政治的戦略が要請されるであろうし、そこではコノテーションによる複数化の線分が張り巡らされるであろう。

2 ミクロポリティクス
 政治的なもの(ポリティクス)は、もともと都市国家(ポリス)から発生したもので、ポリスを作り上げる技術と方法であって、芸術との関連は等閑に付されがちであるが、ラクー・ラバルト によれば、政治的なものは、テクネーであり、本質的に虚構であって、造形芸術に属し、有機的(=器官的)である。政治的なものは、その発生において、造形芸術と結びついて、有機的な造形、つまりミメーシスとしてのギリシア的精神から来ている。真理ではなく、それの模倣なのであり、その意味で虚構であり、純粋なテクネーなのである。だから、共同体の神話がそこから導き出されることはないのである。ところが、政治的なものの有機性は、自然=真理=起源の補足という形で、自然=真理とテクネーとの同一化を行い、その結果現れる共同体(ネーション)を根拠づける。「ただたんに国家が「生きた全体」であると同時に作品としてとらえられることを意味しているだけではない。国家はまた過度に抽象的な概念、つまり過度に遊離した現実でもある。それは共同体の有機性である。......というのも、〈nation〉の概念は││言語(ランガージュ)を筆頭とするテクネーそのもの、すなわち芸術とは言わぬまでも││ある種のテクネーのみがそれだけで完成し開示することのできる、共同体の自然的または「肉体的」な規定の方をさし示しているからである。」つまり、彼はテクネーに含まれるミメーシス(虚構)の忘却による共同体の神話化はナチズムにその頂点をもつという認識を示す。政治的なものの有機性は、本質的にそのような危険性を孕んでいるわけである。

 「ポリティクスの新しい地平」 という対談で、目的性が政治性の核であり、さらに他人(政治的なリーダー)の決定がそのまま自分の目的性として自覚される機制を政治的なものとしてとらえ、そのような投影が可能なためには、絶対的な他者と内なる他者が必要であったと大澤の発言に対して、小林は、それはナショナリズムに退行するアイデンティティーの確認であり、現在の保守化にそのような現象をみることもできるが、基本的には19世紀の産物ではないかとの見解を示す。単独を隠蔽してのコミュニケーションや、管理社会の安定化に組みするリーダーとフォローワーの一体化にもとづくコミュニケーションではなく、単独性が分有できる出来事、目的性という中心を持たない内在的運動││モデルを持たないマイノリティー││レイ・チョウのカルチュラル・スタディーズはマイノリティーの擁護であり、政治的な姿勢であるが、それに拘泥するあまり。アイデンティティーポリティクスとして本来のマイノリティーの流動的な可能性を喪失している。││として開かれる。これをマスコミに回収されないコミュニケーションとするのは別の政治性が必要とされる。そこで松浦と浅田が持ち出すのがドゥルーズ=ガタリ的な戦略と行為が一致したミクロポリティクスで、投影という強い作用力、絶対的他者を背景に構成される垂直的モデル、仮想的他者に投影されるメディアでのコミュニケーションにたいして、弱い相互作用の場という対称性が保たれなく、非局在的でミクロなコミュニケーションが議論されている。中間領域とは、粒子の崩壊過程にある過剰さを内在していて、質量ゼロの物質すなわち光を放出する。あたかも強い相互作用の残滓のように現れる弱い相互作用の粒子は、次の一瞬には別の粒子に変わるのであるが、その線分こそが中間領域を特徴付けるものである。この安定さを欠いた一群の粒子と補足する光が、希薄に漂っているのである。光を記憶として、自らが差し引かれた場である。その消滅していった粒子に遡ること、亡霊のような粒子との遭遇、限り無く質量がゼロに近い粒子に付加された記号、これらの認識と出来事が同時に進行する言語遂行的なコミュニケーションが連鎖するのである。亀裂あるいは線分だけがあるのであって、主体と客体、シニフィエとシニフィアン、過去と未来という区分を横切り、無重力状態に置き換えたり、あるいはその布置を際立たせるのである。

 ドゥルーズ=ガタリの著作(特にミルプラトー)は、この有機性と国家の概念への撹乱と回避に費やされている。器官なき身体は、まさに有機的なるものとの闘争としてある、反=有機体というべき概念であり、戦争機械は、国家の外部に存在する国家を破壊するものとして描かれる。こうしたリゾームは、形や起源なるものから逸脱するものとしてあるだけでなく、模倣からのずれというべき奇形としてある。したがって反=自然、反=モルでハイパーリアルな生命体であり、概念なのである。リゾームは有機体との関係として、国家や社会の間を動き回るものであるから、本質的にポリティカルなものと言えよう。ただ反=造形芸術、反=有機体、反=神話であり、ドゥルーズが言うところのミクロポリティカルなのである。なぜなら、ポリティカルなものが、起源においてテクネーと真理=自然の同一化を行ったところで、ゼロ記号を導入するのである。

3 中間的領域とミメーシス
 中間的領域とは、反=有機的であり、言語の間に、あるいはテキストの間にあるゼロ記号によって刻印された運動体と同じなのである。ゼロ記号が現前化して、流動的な多孔質の表面が露呈しているのである。深さは表面の構造と置き換えられ、内面化による忘却はおそらく不可能であろう。なぜなら、その主体は、自らとひとつの孔との区別をする行為によって成り立つ概念なのである。中間的領域は、微細な襞で有機的構造に亀裂がいれられている。この可動的なゼロ記号が、人に単なる主体と客体の権力関係だけでなく、外部と外部を接続する空集合を散種し、権力なき権力の布置を行う。中間的領域は、さらには生成消滅演算子によって記述される場である。主体としての人は、それを観察したり、記述するだけでは十分ではない。ただ出来事として体験すべきなにかなのである。つまり主体が巻き込まれているため、欠落した意味による概念であるため、情報化されない。存在を含めた形態で、出来事の身体性をあらわにし得る形式として、ミメーシスが有効なのである。アドルノは、ミメーシスを主観と客観という構造以前の原始的な表現とし、「芸術は表現を通して、表現を貪欲に呑み下す対他存在に逆らい即時的に語る。これが芸術の模倣的行為にほかならない。芸術の表現とは、何かを表現することの逆であると言わなければならない。」 主観が対象化によって表現することに逆らって、主観が、対象化を経ることなく、内在的に体験することが模倣的行為である。合理性あるいは構造の対概念として模倣を芸術の源泉とすることは、芸術作品の神格化になったり、自己模倣を究極の芸術の模倣とみなすことに繋がる。現在においては、模倣(ミメーシス)という行為に、対象化と自己の解体というダブルバインド状態、その引き裂かれる身体性という倒錯した関係を読み取るべきだろう。そして、模倣することは、他者を自分の身をもって再現すること以上に、自己から他者への移行、分有という状態が見い出されるのである。これは真なるものが、行為としてしかありえないことを言っているだけでなく、その出来事として体験される真なるものがあることを前提としている。ところで、模倣は、自然に対する虚構なのである。つまり、真なるものから引き離されているというのではなく、この地点で真なるものが虚構として作られるのである。自然=真理と虚構=真理がすり変わっている。このすり変わりで成り立っているのが、芸術作品なのだ。アドルノは、模倣こそが芸術の原形としつつ、その虚構としての模倣行為は、真実を求める芸術にすり変わっているとしている。この結果、芸術は、自己を模倣するしかないところに追い込まれるのである。「非美的経験をもっとも深く作品のうちへ立ち入らせる表現は、文化の場合のように芸術におけるすべての虚構的なものの原型にほかならない」 は、虚偽と真理が等価であるのではなく、「うそ」という非美的経験によって、真なるものが形成されることを意味している。

  4 ゼロ記号としての主体、そして虚偽の隠蔽
 スラヴォイ・ジジェク は、自己のもっとも深いところ、自己を支える母体が、虚偽を覆い隠すことで成り立っていることを論証しようとしている。彼は、不在であることで主体は指示されるものでしかないというラカンの理論を、ゲリラ的に展開している。たとえば大文字の他者による支配を特徴とする前近代から、罪を人間ひとりひとりが引き受けなければならないという近代的個の成立には、罪を引き受ける主体という実体があるのではなく、消える媒介者というべき、空虚が残され、その不在こそが主体なのだとする。そのような主体は、堪え難い苦痛をもたらす幻想=享楽、いわゆるトラウマ││精神分析で明らかになっても解消しない「現実界」││を持っていて、その放棄、つまり擬似的な象徴界へと産み落としてしまうことが余剰享楽を生み出し、 対象aという象徴界の中心たる大文字のAがあったところを占有する空虚が対象化されたものを他者として欲望することで釣り合いをとっている。つまり虚偽そのものが、象徴界の核となっているのである。
 模倣は真理から隔てられた虚構としてあるだけでなく、虚構それ自身を反復することで、芸術作品を生み出す。なぜならその隔たりは表象秩序を破壊する非合理的で身体的なものにほかならない。やがて美の生産におもむくその隔たりは、ラカンにおいては「現実界」、享楽、対象a、といった空虚でしかない欲望の対象として定義されるのである。なるほど両者ともにシニフィアンの専政からの脱離と浮遊を欲望しているのであるが、それ以上にその隔たりと亀裂に真理ではなく、誤謬と虚偽を読み取るべきであり、その過剰さに政治性を回復すべきだろう。空虚の回りに疑似的に構成される主体や、ミメーシスという主体と客体の関係に亀裂を入れることになる態度は、閉じた運動やメチエになるのではなく、その虚構性を複数化すべきなのである。中間的領域のミクロポリティカルが必要なのである。

 ミメーシスが不可避に虚偽の要因をもち、その虚偽によって主体が現れ、そしてミメーシスのゼロ記号が身体化と主体の成立を促す。つまり言語を有機化すると同時に、人は自らを主体として同一化する。この相互作用は、主体のまさに中心において、その同一化を崩すことになるゼロ記号=空集合を導入するのである。そして、複数化されたゼロ記号が、周辺に散在する場を中間的領域へと変容させ、そこから空虚によって記号化された虚構的な主体が亡霊のように現れるだろう。ミメーシスによる事物の記述という幾分奇妙な過剰さが詩の身体を構成する。散在する集積体は。まだ分節化されていない空間を夢見るのではなく、アルトーのエクリチュール のように象徴空間の亀裂を複数化するのである。

5 岩成達也の縁取り
 岩成達也の詩作品は、コノテーションを利用した構成的手法で記述的でありながら、言葉が事物を表象するのではなく模倣する││具体的には「私達」という身体。言葉の生成と消滅が書かれているのではなく、既知の言葉が形を求めて組織化されるその動きでの捻れや欠落に、オリジナルからの隔たりの認識と羞恥が反映しつつ、形へと行き着かない、つねに崩れているもの、あるいは揺らいでいるものを模倣しつつ、増幅しているのである。

縁取り
おそらく裂け目を癒し あるいは際限のなさ(への不安) を宥めるために
しかし 縁取りになじむにつれて 私達は 縁取られたも のにではなく
縁取ることそのことの方に しばしば興味を奪われるだろ う 縁飾りそして文飾
・ ・・
いずれにしても クネオよ お前は 私の前に
縁取りに 装われながら 現れてきた
そして ふり向けば いまなお 常に 縁取りのただなか から
お前は 私へと 現れてこようとする
         『「鳥・風・月・花」抄』より「クネオ」
 縁取ること、曖昧に広がった光に対して縁取ることで、際限のなさを宥める。しかし、その行為は、縁取る以前にあるものを、縁取ることで、その輪郭をはっきりさせる効果を狙ったのではなく、あるいは縁取ることで、虚無に形を与えようとしたのでもない。事物を模倣するしかない私達の不安を沈めようとしたのである。私達の身体の曖昧さへの怯えが露呈しているのである。縁取る行為は、二重の縁取りなのであり、主観としての「私達」の縁取りを意識せざるをえない。

ク・ネ・オ 縁取りとしての (縁取られるものとしての) 私のいまここ

言葉でひき起こされるすべてのものは廃棄られよ

このようにして クネオ 二重の縁取り

 たしかに「いまここの私」の不安は宥められたのかもしれないが、(対象を認識するためには、縁取るということしかできないという諦念があって、対象との隔たりはかえって大きくなっているのである。) 名付けることで、対象を確定するということに留まっているのではない。「固有名でしか個体を指示できないというのは正しい。しかし、それは固有名が一つしかないものを指示するからではなく、「他なるもの」との関係においてのみ「他ならぬもの」としての一者を指示するからである。」 と柄谷が、クリプキの可能世界論に沿って、述べているように、クネオという固有名は、伝える人と聞く人によってその内容が異なってくる。非固有名は言語の差異化の体系によって決まってくるものであるに対し、つまり共同主観的なものであるが、固有名は他者との非対称なコミュニケーションという偶然性を孕んで、共同体の間の出来事であり、その批判に他ならない。確かに、固有名は詩の内圧を撹乱するが、言語のなかでの固有名と同じ機能ではないのだ。岩成達也が『詩的関係の基礎についての覚え書き』で述べているように、詩の機能であるコノテーションは、まさに共同主観的な言語に亀裂を与えるものであり、固有名の機能と同じものである。他なるものへの通路であり、現実というデノテーションとの関係から現れる非現実という現実である。詩的言語としての固有名は、本来固有名が持っている外部性を内在化することで、謎めいた幻想と強度もしくは過剰な享楽の身体となるのである。それは固有名の超越化とは違って、非対称なコミュニケーションという出来事性の体験であり、詩作品の身体に正確に重なる。そして、縁取りとは既存の形をなぞり、線を描くというきわめて身体的な行為で、応答することにほかならない。その両者のずれ(時間的にも、空間的にも)が、詩作品の強度を分裂させ、弱い相互作用を発生させ、松浦寿輝 のいうところの弱い超越性を帯びて固有名は漂い出すのである。クリプト化された固有名を複数の線分として取り出す操作なのである。この操作は、詩作品という固有の水準に加わる摂動と理解すべきもので、この摂動によって水準は分裂し、複数の状態が現れるのである。縁取りは、クネオの建物の稜線と胸壁が広場を縁取るように、囲み込みで閉じた空間を表現するだけではなく、その縁取りの線分が「猛禽の上半身」を虚空に広げている状態に変容する。模式図が動物や人の顔に似てしまうことを言っているのではなく、ミメーシス的な出来事であり、縁取ることのずれによる特異な線分の体験なのである。

 最初の詩集『レオナルドの船に関する断片補足』でのマリアも謎めいている。この最初の詩集から縁取るという操作が感じられる。その縁取る操作によってマリアの謎めいた姿が浮かびあがるのである。マリアは、おそらく超越的な存在であるにしても、有限であり、極めて物質的であり、交換可能ななにかであるのだ。また過剰な享楽であり、絶対的な外部(現実界)を指し示しながら、それは複数の線分の一つに過ぎないのだ。言語による有機体を目指しながら、そこからの欠落(紙片の焦げた部分)を、その中心において持っているかのようなのだ。(ここにミクロポリティクスを読めると思う)『目を閉じて…』で、閉じた目の深みに現れた視覚の残像現象とある種のリズムによって「至福のとき」に近付いてゆく過程と言葉によるその妨害もしくは覚醒を記述している。「至福のとき」そのものは取り立てて特殊なものではない。また言葉が、そこへの行程を妨害することも、驚くべきことではないだろう。注目すべきは、目を閉じた状態で現れた赫黝い光芒の拡がりが、弱い超越性を帯びたものであり、マリアという過剰な享楽に似た物質になっていることである。
 こうしてマリア-中型製氷器-箱舟-ヒツポポウタムス-赫黝い光(焦げた紙片)という一つの系譜を想定できるのである。これら弱い相互作用で漂う幻想は、言語でありながら、物質と直接していて(ミメーシス)、過剰な享楽であり、「至福のとき」につながる系譜なのである。つまり、亀裂と幻想と対になるように秘かに要請されている癒しの主題なのである。ただし、ここでの癒しは、苦しんでいる主体の救いとしてあるものではなく、さらには主体の維持を目的になされるようなものでもない。さらには、傷を直したり、代用物で埋め合わしたり、忘却したりすることからも一定の距離をとるものである。

6 ロゴスの罠
 言葉のもたらした焦げた紙片、いや言葉が焦がしたその紙片は、焦がされることによって、元の赫黝い拡がりがもっていた多くの性質││例えば密度の集散というような││を失っており、かくて細部の変質というか、細部の外側化、硬直化、更なる脆弱化がそこを支配する。ではどうすればこの裂け目は癒されるのか。しかもここでは、いわば裂け目を裂け目のままで癒すことが求められているのである。
 言葉が焦がした紙片は、その部分において柔軟性を失って、細部が縮退している状態である。(もしお望みなら、レオナルドの船で、マリアが火に手をさしいれて、桑の木のように節くれだち、硬くおそろしく脆いものに細まっていったことを思い起こせばよい) 言葉は、自然の細部を「破局」に追いやる一方で、細部を視覚化=細部の外側化するのである。これは、一見複雑そうであるが、脆く醜いものなのである。詩作品は、いったん言葉で亀裂が入った基底を、いわば廃虚になった世界を、ミメーシス的態度で流動化させることなのである。「私の体の疼きが光景から言葉を少しひき離すことに、いったんは成功する。」はこのことを言っているのである。しかし、ミメーシス的態度でも燃焼が自らの言語体に転移すると、つまり「強烈な反作用を私の上で炸裂させる」状態になると、打つ手は「言葉の配列則(ロゴス)」を現実に対置させることしかないと岩成は述べている。これはアルトーが被った言語的危機なのかもしれない。しかし、亀裂を亀裂として遭遇するだけでなく、亀裂さえも言語的自然として回収が可能なのだろうか? 自然なるもの(有機体)に、少なくとも詩作品は批判的であるべきで、また引き裂かれた状態を逆にゲリラ化すべきだろう。なぜならミメーシスの母体である自然(ピュシス)に回帰することは、まさに「ロゴスの罠」にほかならないからである。 そして、中間領域とはたしかに、危機的な状況であることをここで強調すべきだろう。しかし、「私」がさらに高速に流動すれば、世界の硬直化は阻止できるはずである。むろんその断定には、思考への物質的なリアリティーを含んでいるのである。
「かくて、言葉で引き裂かれたものが言葉(ロゴス)によって、引き裂かれた状態のまま癒されているのだ。いや、それだけではない。このことによって、同じ時、赫黝いものとその上を漂う様々な形、昼と夜、あるいは疼きでさえも、一挙に、それぞれの場所を占めてしまうのである。身動きができないということ。言い換えれば、こうして「我にもあらず」、一つの作品の枠組みがここで固定されてしまう。おそらく、「ロゴスの罠」というその後の呟きは、残された余地を求めてのささやかなあがきである。」

レイ・チョウ『ディアスポラの知識人』青土社P53
酒井直樹『日本思想という問題』岩波書店
ラクー・ラバルト『虚構としての政治』藤原書店p137
ルプレザンタシオン第5号筑摩書房p15
テオドール・ ・アドルノ『美の理論』河出書房新社p191
テオドール・ ・アドルノ『美の理論』p189
スラヴォイ・ジジェク『仮想化しきれない残余』青土社
スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』批評空間
アルトー/デリダ『デッサンと肖像』
柄谷行人『探究』講談社p52
松浦寿輝『ゴダール』筑摩書房p165