●●●小林弘明
岩成達也論補遺
悪癖からくる下降を特徴とする妄想

 岩成達也の詩は、製氷器や焔、筋肉の構造的な記述であったり、亡霊のような人物や船についての妄想であったりする。いわば形骸化されたされた事物の運動という観点で見ることが可能であることを、前回『肥大する形骸あるいは擬体という猥雑な光景』で述べた。
 形骸化された事物は時間の堆積を背負い、本来の自己---それがあるとして---あるいは機能を失い、いわば固まりのようなものである。もしくは教条的なものである。したがって、それらがもし運動をはじめるなら、起源との隔たりのなかで、自己ならざる自己を生産することになるだろう。分散的な運動であり、いわば複数化するように起源を反復する記号、自分の姿と自分の意味するところのへだたりに引き裂かれた記号(アレゴリー)の流れ---感覚的なものや自然からへだたるので様式的になる---を岩成達也の詩に読むこともできると述べようとした。
 ところで通常、アレゴリーは、ある意味を他の表現の意味で指し示すものである。そして、非現実へと向かうもの、つまり意味を越えようとするものが詩である以上、岩成達也の詩をアレゴリカルに読むのは無理があるとの指摘を二、三の人から受けた。前回の論稿ではアレゴリーをいくぶん本論からはずれるように扱ったため、不十分な説明で、誤解を招いた所もあり、補足するとともに、もう一度岩成達也の詩論との関連を含めて考えてみたい。

      ◇

 形骸とは生あるものが消滅した後の残骸、過去や不在の痕跡をとどめる空疎な形象という一面と、内部空間が消滅するときの皮膚病のような拡がり、あるいは燃焼が中断されたときの柱のような曖昧な塊であったりする非現実の生成であり、疑似的な生の運動への変容を表す。たとえば「あたし」が火の中に手をさしいれ、たちまち燃えて細い節くれだった棒になっていく場合、「あたし」は、形骸化したマリアを焚かれ黒ずんだ固 まりとして、自己疎外しながら二重化した「あたし」として生成する。それは、有機体的な世界像を目指すのではなく、断片の積み重ねとしての世界を広げてゆく。
 非現実的世界をさらに非現実化する運動がある。一般に詩においては、具体的な個体を描きはじめるにしても、その個体を突き抜けて抽象化された個体というか、種々の体系との関係のもとで再構築された事物ならぬ事物といった非現実を目指す。通常はこの過程は当然の事として、あるいは無意識のうちになされ、結果として非現実が現れることが多い。岩成達也の場合、意識的に非現実を取り込むことに留まらず、具体的な事物と非現実との行き来の過程を記述する。当然の事ながら、その過程の記述は自己言及的なところがあり、単に事物の再構成にとどまらず、カタストロフィックな自己溶解、形態の急激な消滅へと突入する。
 事物の形骸化はこの側面から理解するべきで、単に空疎な形象ではないのである。事物の燃焼の後の柱のような固まりであったり、構造的な内部や現実的な生が消滅するときの皮膚病の拡がりという非現実の噴き出し部であり、疑似的な生の運動を表している。
 デノテーション、コノテーションという言語の機能的分類においても同様な議論が可能であって、「ラングの構造の中で<意義=外示>を背負わされてしまっている個々の語の、まさにその既成性を逆手にとって新しい意味生産を行うコノテーション」という定義から、容易にデノテーションという既成性と形骸化との対応を見て取ることができる。形骸化なくしてはコノテーションという詩的関係はありえない。

    

 形骸化の過程は二つの形態に分けることができる。一つは『レオナルドの船に関する断片補足』でのマリアや箱舟といった亡霊的な表象に結びついた形骸化の運動、すなわち消滅の様式の導入であり、もう一つは中型製氷器での事物の細分化とその増殖が際限なく現れる場合である。前者は神話に結びつき現在とは隔たった表象によって、非現実の展開がはじまる。形態の消滅過程を記述することに重点がおかれる。亡霊が現実と非現実の境界で揺らぐように、形骸化の運動は境界的な様相を呈する。死をくぐるときに、はみ出してくる不定形な物を呼び込んでくるのである。後者は形骸が非現実的世界のなかで疑似的な生を受けて、緩やかに揺らぎ、細部を拡げはじめたり、断片を積み重ねはじめる肥大過程なのである。形骸化の運動はややもするとメタ的になりうるもので、次々とカタストロフィックな自己消滅が繰り返され、そのときにはみ出してくるものが肥大する形骸なのである。ともかく、マリアなり、フレベヴリイなりのフレームが到来して、形骸化と形骸の肥大がはじまるのである。
 岩成達也の詩に特徴的な概念として、「私達」に直接現れ、しかも「世界」が表象される擬体がある。擬体として把握されるマリアやフレベヴリイは単純に「世界」に含まれているものではなく、「私達」がなにかを認識するときに認識として、直接現れる身体的な像なのである。しかし、意識への現前性とは異なっている。まず、「私達」は身体性が付与された総体として見られた意識であり、源泉であって、中心としての意識とは異なっている。次に現前性には、意識の固定されたコード体系が暗黙に前提されているが、擬体という考え方には、無論こうした固定的なシステムも含み、さらに脱コード化の運動も含有することが重要である。
 擬体が介在することはある一つのコードの選択であり、それにしたがった認識で、ある一つの選択された私達であるわけである。
 もう一度、岩成達也の定義を復習すると、<<私達 擬体> 世界(非現実)>の関係において存在論的にとらえた詩的関係とは、<私達 擬体(言葉)>と世界が間接する場合、すなわちそれらの間でずれが生じている場合である。ずれを発生させるうちで見えてくる世界を非現実的非現実、つまり、非現実を分泌するようにして存在する擬体(言葉)に介在された非現実的世界としている。おおざっぱに言って、ずれ=差異化の運動として言語関係があるときを詩的関係としている。
 岩成達也はさらに、言語論的側面から<私達:擬体>世界>の詩的関係を、<<表現:内容>:内容>へと同型写像を行いコノテーションの関係としている。言語論的にとらえると、どうしても岩成達也の詩の物質的な側面を見落としがちになるに対し、擬体は便利な概念で、物質的な要因、露呈された肉体という因子がうまく取り込まれるのである。

    

 ここで、もう一度岩成達也と桑原徹を比較してみよう。
「鰓や外套膜という襞が海水とともにゆらめいているそばで、この管と大地の関係は中心を遠巻きにしながらアワビの存在を分泌し続けてきたのだ。まるで私たちに見られるための管の集合のような貝殻の中のぐったりした軟体。肉質はこの管を相互に関係づけるためのものである。水中でのヴィーナスの舞踏。ここまで進めば、肉質は管の関係の中心に見えてくる太った虚像だとさえ言える。いや、実際、貝の中心に重なって貝がそこに見ているものは自分自身の太った姿ではないか。どこまでも太ってゆく単純で美しいむき出しの管。」                    (『要素ィ 中心力』)
 岩成達也の詩の「私達」には露呈された肉体というべきものが付着しているに対し、桑原の詩ではアワビの生態と「私」とが互いに透明な調和を奏でている。岩成達也の詩では「私達」は思念に回収される世界の中心ではなく、事物との同一化は回避される。
「再びばらばらな状態のまま洗槽の中に放置されてある中型製氷器。‥‥‥上方の簡略化されたバルブを開く。水が、透き通った筋肉達がそこより静かに流れはじめる。はじめのうち透き通る筋肉達は声を立てない。製氷器の辺や連続する内側の機構、そういったものにそれは衝突し、砕け、小さく不規則な飛沫となってそのあたりをごく僅かだけ曖昧にする。それから、透き通る筋肉達の数が増え、飛沫は覆われる。やがて透き通る筋肉達は群をなして動きはじめる。」
   (『中型製氷器についての連続するメモ7』)
 貝の肉質とヴィーナスの舞踏が、アナロジカルな関係(メタファー)であると同様に、中型製氷器の内側と骨格、氷と筋肉はアナロジカルな連想であり、メタファーであると言えるのだが、岩成達也の場合アナロジカルな全体性に回収できないものが表面に析出しているのである。筋肉達はけっして氷あるいは本来の筋肉へとは解消されない非現実的な肉体(擬体)の強度を備えているのである。筋肉という表現が意味するところから隔たってあるとともに、その隔たりを疑似的な生として生きはじめる筋肉の断片の集積があるのだ。筋肉が擬人的な印象を与えるのも擬体の強度のためであろう。「私達」と筋肉が互いに重なり合うとともに、それぞれ等価な存在(主体化の運動の実質とでもいうべきもの)という入れ子状に絡み合った関係のなかで、中型製氷器や筋肉は、擬体的側面が強まり、擬体=言葉のレベルでは文字的な肉体を生きはじめる。それらが、擬体を実質として非現実的世界と、そして私達とも隔たり、オートポエーシス的に変容するために擬人的印象を与えるのである。
 <<私達 擬体>:世界>という図式は、元々存在論的な文脈定義されたものだが、作品の地平へと投影したとき、例えば桑原徹は、「私達」と「世界」が予定調和的であって、視線としての「私達」が消失する地点で世界が広がっている。非現実としての世界と<私達:擬体>が同一化する方向に書かれている。いわば、貝の形態の有機的成長の産物であり、主体と客体の合一化というシンボル特有の特徴を持っている。それに対して、岩成達也の場合、形骸化した機械状の物と実体を欠如した亡霊のような水と筋肉の断片の集積であって、非現実としての世界と<私達:擬体>が隔たり、さらに不安定になるように書かれる。主体としての私達が、中型製氷器や筋肉といった実体を欠如して、幻影を表象する擬体を媒介として非現実に向かうのではない。中型製氷器と筋肉は文字的な擬体を通して、疑似的な生あるいは疑似的な肉体を生きるのである。筋肉と中型製氷器は実際の機能から切りはなされて、固まりのようなものになる。一方で、それが様式性の網目を次々と移動しないかぎりは、あるいは皮膚病のような飛散をしないかぎりは詩的関係になりえない。
 容易に他者に類似して変容することと、あの隔たりの体験(他者の体験)とは矛盾しない。つまり、自己同一性の幻想からずれた反復なのである。そして、これらの運動は様式性を纒うように反復するのであり、アレゴリカルな様相を呈するのである。

    

 ポストロマン的状況では、シンボルに対するアレゴリーの復権がある(ベンヤミン=ド・マンの流れ)。従来、アレゴリーは特定の意味を指示するのみで、その暗示的潜在力をすぐさまなくしてしまう記号(デノテーション)として、コノテーションとしてのシンボリの優位が主張されてきた。シンボルは実体性に基礎をおくがゆえに、知覚作用と連動して豊かな意味を開示する一方で、外部の内面化が色濃く、観念的になって実体を失いやすい。共時的なロマンティックイメージに収れんしがちなのである。
 アレゴリーは非実体的なもの(先行する記号)に基礎をおくので、時間的な遅れを意識せざるをえない。その起源との隔たりを明らかにする限りで、自己が存在するわけである。「アレゴリカルな記号によって構成される意味はそれが決して一致することのできない先んずる記号の反復しえない反復にある」。アレゴリーは、自己が意味するところのものを回収できない。時間的に隔たった記号との関係で規定されるので、シンボルのように全体性を構成しえない。外部に晒されるままになって、それ自身の受肉を遂げるのである。
 したがって、起源との隔たりや外部での目的のない断片的成長は、アレゴリカルな記号を待ってはじめて可能なのである。そして、時間を無化して予定調和的に共感するシンボルのベールをとるのである。
 中型製氷器の枠組みが羽の付け根に、そこに満たされる水が筋肉と重なり、混濁する状況は、内面的な全体性に回収されず、それぞれが脈絡のない接合と分離であり、唯一時間的に隔たった出来事の反復として根拠をもつようなのである。シンボルとは異なり、「私達」と「世界」は擬体によって隔てられていて、擬体の物質性が安易な一体化の幻想にくさびを打つのである。
 アレゴリカルな生は、こうして多様で物質的な表面を露呈する。そして時間的な隔たりによって、罪を負った肉体へと下降するのである。

     

 岩成達也の詩では、上昇的なものと下降的なもの対比があって、それらが交差するところで疑似的な生の発生がある。たとえば、マリアと皮膚病、飛翔と鳥の骨組み、炎と黒く細まってゆくもの、コノテーションとデノテーション。上昇するものを精神もしくは神性として、下降するものを自然あるいは物質とするなら、岩成達也の場合それらは入れ子状になっているとはいえ、通常は相容れない二つの要素であり、特殊な条件下で交差する現場に居合わせることができるのである。上昇するものは部分を持たぬ全体性で、下降するものは全体性を奪われた断片的物質なのであり、それらの隔たりを擬体の上で反復するのである。

 飛翔する拡がりが焔によって癒合されるが故に不浄であるのではなくて、その焔が離散に飛翔されるものの外見を与えるが故に不浄なのです。
           (『跋のための断片』)

 下降するもの(燃焼を中断せしめられた事物、魚、鳥あるいは羊の固まり)は、ロゴスという全体性=神性の外見を与えると同時に罪を帯びる。形骸化がはじまり、はじめて罪を負った肉体と神性との葛藤がはじまるのである。岩成達也は私達と事物が感応して合一化する方向や静的な世界像に停滞しない。岩成達也が全体性に向かうとき、その全体は神性というべきもので、「私達」とその「全体」は隔たり、しかも「私達」は罪を負った肉体として隔たる。フレベヴリイ・ヒツポポウタムスは「私達」の受肉化であると同時に、文字の身体性を生きて、「私達」という中心を次々にずらしてゆくのである。「私達」という全体性を捏造しがちな主体が、フレベヴリイ・ヒツポポウタムスという名のほうに下降し、拡がりを纏ってゆくのである。
 とりあえずフレベヴリイ・ヒツポポウタムスと名を呼ぶしかない、正体が漠然としていて、視野の端の陰りのようでもあるが、困ったことに「私達」の身体を寝取られたような生々しい存在感すなわち幾分罪深い肉体を押し付けてくる人物との疑似的な生活が『フレベヴリイ・ヒツポポウタムスの唄』であったわけである。ここでもすでに、「私達」あるいはフレベヴリイ・ヒツポポウタムスは妄想にふけりがちであった。しかし、フレベヴリイ・ヒツポポウタムスの奇妙な生々しさに、それは中断しがちであった。
 そして『フレベヴリイのいる街』では妄想に占拠され、妄想が作り上げた街が広がるのである。つまり直接的な実体を失った言葉(無意識のアレゴリー)が無目的に増殖するのである。いわば悪癖と言っていいカタストロフィックな下降に特徴づけられる妄想である。

      

おお フレベヴリイに似た男達よ 確かにここには
お前達の心を奪う 乱痴気騒ぎや 妄念の種にはこと 欠かないのだ
ならば ことのついでに いま少し さきほどの騙絵 にならい
「血湧き肉躍る」皿洗い譚を しかめつらしく 続け てみようか

ご覧 猪首なる第一の男 その前で いま大皿の一つ がうっとりと水に沈み
それを包んでざわざわと湧き起る泡 泡は汚れをおと しもするが またときに 
増やしもするのだ また長身の第二の男 その傍らの 傾けた皿の上を グリイジイ
脂状のものが幾筋か 徐々に徐々に下降する その不 規則な形と意味 怖るべし
‥‥‥
それから 突然 背の低い第五の男の目の前で 皿の 向うに 漆黒の闇が落ちる
漆黒の  そして多分 狂気こそは かつての男達が 唄の中で習ったように漆なのだ
とすれば 次の瞬間 ここにはいない第六の男に 漆 の中 一条の線刻が現われ
それに沿い 何十という小さいものの幻が吹きこぼれ たとしても不思議はないのだ
   (『皿を洗う男達』)

 台所での様子は中型製氷器で詳細に展開された内容であって、形あるものが水と火に出会うことで、カタストロフィックな下降を行い、つまり形骸化の過程があちこちで発生する。フレベヴリイ・ヒツポポウタムスは「私達」と「非現実」との間の隔たりとしての擬体である。二十年前に現れた皮膚病のマリアが下降し続けた残骸、あるいは再生された箱船からついに見えぬ亡霊が立ち上がり、気がつけばなに喰わぬ顔で私と同じような生活をしていた擬体である。だから、ヒツポポウタムスはコノテーションの構造が安定しないように、「私達」と重なったり、いくつかの場所を移動したり、不安定に揺らぐのである。
 『フレベヴリイのいる街』でのフレベヴリイに似た男達が十二人とか十五人とか現れるのも、一つはコノテーションの不安定さに起因している。もう一つは、『中型製氷器ついての連続するメモ』での擬体としての筋肉の様式性を纒った運動をフレベヴリイに似た男達の群れへの形骸化として理解すべきである。なぜなら皮膚病のマリアそして揺れ動く筋肉達という起源からの時間的な隔たりの増大(エントロピーの増大)は、それ自身で充足することができない空洞の肥大化なのである。アレゴリーにおける時間的空洞への負い目とコノテーションの不安定さ(充足しないこと)は片方の軸上では一致するのである。
 ともかくフレベヴリイに似た男達が、無節操に---十二という数はあるにしても---「フレベヴリイ・ヒツポポウタムス」というとりあえずの起源との隔たりを広げて、そして罪を負った肉体を反復するのである。
 岩成達也の思考の周辺に取り残されていた不安定な繊維質のものや、あるいは羽の付け根の部分が、瞬く間にフラクタル的増殖をしてしまったり、同義語反復とかクリシエの構造を反復してしまうことは、アレゴリーにおける空洞の肥大化と同型なのだ。こうして全体性への回帰を断たれ、断片化した言葉は、空洞の肥大化と連動して---外部の導入によって---文字の肉体性へと変容する。この意味でも、内省と対立する妄想が無目的に増殖する。しかも内省のときの私の特権性は分断されて、言葉の肉体性をほとんど唯一の強度とする妄想が展開するのである。したがって数え唄のようにカタストロフィックな下降に特徴づけられる妄想になってゆく。
 「ならば ことのついでに いま少し さきほどの騙絵にならい/「血湧き肉躍る」皿洗い譚を しかめつらしく 続けてみようか」こうしたアイロニカルな言い回しに、岩成的悪癖を読み取ることは、妄想の性格からいっても奇妙なことではない。実際、ベンヤミンが書いているように、アレゴリーの物質的側面には悪徳への居直りがある。岩成達也の場合は、物質の悪魔的本性、悪徳といった教条的に固着してしまったものではないにしても、虚構的で空洞の不安定さを生きる妄想が続くのであり、悪癖の生理的側面が妄想に生々しさを与えている。あるいは、有機的な構造へと安定しない隔たりの運動である妄想は、真理への意図とは相反する純粋な知的好奇心や同義語反復やクリシエやファンタムへのオブセッションという岩成的悪癖の産物とも言えるのである。

    

もう一人のあの男が正しく指摘したように 食べ過ぎな いためには 何よりも
幅広の帯などで腹を(頸ではなくて) おもいきり締め つけてやるのが一番だから

だが その前に お前にとって私にとっても(多くの死 者達とても同じこと)
「睡眠時こそが不断の常態 覚醒時とはそれの異常に ほかならぬ」とするならば
おお おお フレベヴリイ・ヒッポポウタムス 広帯 を調えるとき
接続詞の次に 心安らぐものこそは感歎詞 この二つ で身を固めれば あとは
恥しらずの跳んだり跳ねたり 腰を捩る悲歎にも 心 の騒ぐことはない
(「カスミ草の唄」)

 
 『唄』ではごくありふれた日常に接地して、そこからの偏差を生きるといった紋切型を装う擬体が横切る光景が見られたが、『フレベヴリイのいる街』では、日常から切断されたクリシエ(紋切型)の慎みのない反復がある。『唄』で適切に効いていた抑制、あるいは実体へのリファレンスは分断されている。そして、「私」と「フレベヴリイ」との重なり合いと共鳴現象に到る過程の記述というより、共鳴現象として現れる映像が語られ、カタストロフィックな言葉の洪水となっている。三部構成を取る『フレベヴリイのいる街』の最後に置かれた「カスミ草の唄」は、慎みについて弁明をしているのである。
 帯で腹を締めつけること、接続詞と感歎詞という取り合わせによって、恥しらずの跳ねたり跳んだりでも、身を捩る悲歎でも取り乱すことはないとしている。なるほど、感情が一点に集中して、にっちもさっちもゆかなくなることを、接続詞と感歎詞はずらしてくれる。それらは、言葉と言葉の間にあって、接続と切断を反復する。それらは、主語述語関係といったサンタグム関係を分断して、言葉の断片性と並置性を明らかにする。この意味で、起源との隔たりとしての空洞の肥大化とつながっている。ややもすると単調な反復に過ぎなくなってしまったり、教条的に固着してしまう悪癖は、言葉の断片性、並置性と触れ合うことで、複数の運動へと分裂しはじめるのである。また、断片化された言葉は岩成的悪癖に通底していて、断片性と並置性の特性のもとで妄想を氾濫させるのである。したがって『フレベヴリイのいる街』に言葉の運動への戯れを読む場合でも、幅広の帯で腹を締めつけるという異形の慎みを表明する装置を忘れるべきではないのだ。