6 不思議の力学

 カフカの「判決」で、ゲオルクが父に溺れ死を命じられ、家を飛び出し、橋の手すりをつかみ、ひらりと飛び越し、(不思議なことに)しばらくしっかりと手すりにぶらさがり、しだいに力が失せ、がなりたてる音の洪水のなか、「お父さん、お母さん、ぼくはいつもあなた方を愛していました」といって、手を放す。おそらく、ツェランもこの機械の残酷さを生きたのであろう。愛の諸機械はこの残酷な機械と組合わさっているものであり、つねに表裏の関係にある。「螺旋歌」はこの二つの機械の力のバランスとして螺旋運動を行うと見ることもできる。事実、円運動そして螺旋運動での向心力と遠心力は、その運動系の内部では、向心力と遠心力のバランスと見ることができる。そして円運動の中心のずれとしての螺旋運動は、接岸するとともに離れる愛の諸機械の効果であり、ズレという歌であり、新しい機械の生成が語られるのである。

 逃走の線と島=再土地化が交差すること、残酷さがすぐさま愛の諸機械に置き変わってしまう不思議さ、開かれていた空間が、メビウスの環のようなねじれた形で閉じる。力の作用が回帰し自らを変えてしまう螺旋機械、開かれていながら閉じているひとつの体系が、交差することで完成している。

 島への接岸によって、愛の諸機械は体系化とひとつの意味をもたらす。しかし、それは強度ゼロの器官なき身体の上であり、「歌」は、すぐさま残酷な機械の「きしみ」に吸収されてしまうであろう。

 不思議さは、夏のほこりが(静かに)舞う場所のように、生成の予感が語られること、不可視の外部であり、道なる外部の容認がある。しかし、そのときひとつの力学、あるいは力学的ビジョンの想定がすべりこんでいる。語ることは、結局この力学的ビジョンを多く語ることになるが、不思議さがはらみ隠蔽している残酷さの体験は、このビジョンなしには耐えられないのではないか。不思議さをぐらつかせ、またますます不可解にしてしまう不思議さという堂々めぐりは、残酷さの回避であり、不思議の力学として、断ち切るべきである。若い機械に接続する愛の諸機械の効果、あるいは「歌」の反響は、すでに「きしみ」が含まれて、力学として取り出すことで、ますますその不協和音は高くなるのである。