3 強度としての声
詩句の速度とそれへの意志との一瞬の共鳴のもとに詩が産出されていたのだが、「黄金詩篇」から「草書の川」に至る詩句は、いつしか大きくなってきた回転と回転力とのズレに徐々にその場所を見いだし始めている。回転力が弱まったり、回転に矛盾するようになっても、依然として回転し続ける力学の記述をする。ゆきつけてもゆきつけなくてもよいとする。遅れてゆく声の行方を詩句とするのである。
コマ駅は此のほうですか? コーマ駅は?
訊ねている私の聲は、気働車に乗って、八王子から、ハコネガサキを通り、大水の通った、乱聲のように跡を残す、中州に、私は分身を吊り下ろし、窓に左腕をかけて、いくつか、峠を下り終えると、ああ、ここも、小アルカディアだな、呟く町を幾つか見つけて来た。
私の聲、石の聲?
「唖の王」より
私の声が、声として、ここで典型的に出現する。つまり、私は立ち止まり、私の声に耳を傾けるのである。もはや私は言葉に対して透明ではない。私は私の声から遅れる。コマ駅は此の方ですか?コーマ駅は?との私の声は、すぐさま私ならざる声となって、歩行する声となって、中州の大水が切り刻んでいった滞留する地形となり、アルカディアを旋回するのである。声は聲に変容するのである。「赤壁に入って行って、出て来ていた。」私の声は、アルカディアのような古代につながる場所に引き込まれ、再び出てくるときには石の聲になっているのだ。「出発」のときのように、声の伝わる速度で言葉を打ち上げるのではなく、声に遅れることを逆手にとり、ひたすら耳を傾けるのである。私は旋回する声の間で「誰だろう、ネブカドネザル王?」「ハコネガサキのネカブ」というようにネの共鳴に耳をすますのである。それは吃音のように反響する。反響することでの時間的な滞留と遅れは、その言葉に不透明な地層として堆積してゆく。
石とはそうした物として理解すべきなのだ。声と物が交差する場所、内在する時間が露出する場所であり、吃音のように純粋な強度として振舞うのだ。意志力といった因果関係を前提とするものから溢れる音と逃走線。速度という量で特徴づけられる言葉の運動体はある力学的場に捉えられている。通常の因果関係から導かれる力学といった物ではなく、反発しつつ引き寄せられる純粋な強度の散乱、物たちが集まってくる様子は、ある力学的ヴィジョンを要請する。コマ駅は此の方ですか?という声は、吉増個人の行為である以上に、自律的な作品つまり力学的ヴィジョンから降りてくる出来事として聞こえやしないか?ということである。この力学の特徴は、量子力学で露出している。言葉という運動体が遅れることで、長く延長されて、もともと力を作用させた意志に回帰している。精神も、因果関係が崩れた力学の中に繰り込まれ、その力学的ヴィジョン、物の連鎖(ほとんど意味を失った)の一部として現れる。
コマ駅は此の方ですか? コーマ駅は?
だれかに訊ねられるべき形になりながら、この聲は、ただ発声され、あてどもなくさまよう。それゆえに、対話はここから始まる。石のような言葉があらゆる方向にむけて置かれた。いわば無償の行為なのである。対話を前提とした言葉は合理的な組立があり、揺るがしにできない体系としての意味に限定されている。原因と結果が分離されている。(実際こうした古典力学の成立は、フーコーのいうところの表象空間で特徴づけられる古典主義時代と正確に重なっている。)
コマ駅は此の方ですか?は対話的で、因果関係が明示されているが、コーマ駅は?と延長することで、たちまち対話という共時的な出来事からズレてしまうわけだ。光の多重反射のような意味空間に遅れることで、重く沈み、逃走する。重く沈むことで、バードストーンのように飛び立つわけである。対話ならざる対話。対話的な意味に収れんされがちなことを意識しながら、刀の上を滑るように、つまり狂気によって、語る無償の行為。ナンセンスは意味空間との格闘である。
コマとかハコネガサキといった地名は、単なる指示的な言語ではなく、個体の個体性、沈黙するとともに外国語でささやく。
これらの石のような言葉と意志のような石は、互いに反響しながら、唖の王が横たわる宇宙言語に流れてゆくのだ。それは、意志が自らに無限に回帰してゆくこと、環状列石がなわの目として立ち上がってゆくことを思わせる。コーマ駅は?という発話が滞留しながら石の声として反響すること。まわりから折り重なって、バードストーンとして、つぎつぎと力を繰り込んでゆく力学は、明らかに螺旋形として逃走の線を逃走する。