5 子供たちの悲しみ

 子供の場合このような至福は、現実的にはフットワークの良さが災いして、すれ違うのである。マッチ売りの少女は、マッチ売りという労働から、マッチのDで暖をとることになる。それの繰り返しは単に悲しい物語ではなく、遊びの喜びの要素が入っているように思う。光によって子供の運動が照らし出されている。孤独であったり、帰る家を持たなかったり、すれ違ったりするのであるが、光の運動と子供が連動する限りは遊びという身体が悲しみを紛らすのである。

 とはいえ子供とは悲しみを生きるものとも言える。その認識が稲川方人に『2000光年のコノテーション』と『君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習』を書かせている。

 モンタナ 傷ついた青空
 ……
 君のポラロイドにはモンタナの青空が映らない
 青空、モンタナ、モンタナ、青空
 傷ついた想像力
 君のポラロイドにはなにも映らない
 モンタナ、死につかれた鉱脈の地上を打つ稲妻
 「光とは無限点の崩壊
 崩壊する永遠」

    (『2000光年のコノテーション』より)

光が病んでいるのである。松浦が黄昏と曉闇に夢想し生々しく感知する「あの世の微光」と言うべき静寂の光と比べるのは、この場合意味がないかもしれないが、ポラロイドに映らないという意味でより特殊であり、より観念的な光である。さらに瞬間的な運動である稲妻には不吉なイメージがつきまとっている。それは死を内在していて、重い意味と記憶によって灰と骨にすぐさま変質するのだ。光は他者なのだという晴れやかな定言が、亡霊のさみしい魂に吸収されるのである。光が病んでいるとは、魂の断片≠ュずが紛れ混いることをさす。稲川がいうところの「文語」に形式化されるのだ。魂は文語からできていて、不断に亡霊が悲しみをもたらす。そして、観念と詩句の悲劇を、物の表面に満ちる物質感で安易に超えるのを禁じている。主体は生者と死者の中間にあって、寄せ集められた「文語」にすぎないのである。この不幸な認識によってのみ悲歌が可能なのであり、不安な馬を鎮めることが可能なのである。

 日が暮れると、家々に
 君らは帰っていった
 あとに誰もいない草原で
 虫と亡霊がざわめく
 罪なく生活せよ、根源を見よ
 おだやかに、それがくりかえされて、やがて
 いつもぬかるんでいるヴァンサル・ヴィゴの坂道にいる
 流れ雲を威嚇する不安な馬を鎮める方法を知っている
 プリニウスの生まれ代わりだと称する爺さんが
 きっと君らの物語を伝承するだろう
 プリニウス爺さんは毎朝、馬にこう言っていた
 「人」は根源ではない
 それは寄せ集められた「文語」にすぎない

  (『君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習』より)

 子供たちに悲しみに深く捕らわれないようにと語られる。なぜなら子供の悲しみは、媒介された罪を生きることから来ている。媒介された罪は「人」特有のものであり、個として生きるならば、罪なく生きることができるだろう。しかし文語としての「人」から離脱するのであるから、あの松浦=ゴダール的な孤独に耐えていく必要がある。「君らの物語」とは孤独の歴史と同じなのだ。人は罪と孤独を忘れ去るように「言葉」と「物語」を互いに共有する。「殺されない女の子のように/あくまで、缶ジュースを飲みながら/あ 今日もリゾートしに行く「物語作者」」に搾取されているわけである。子供は確かにお話がとても好きだが、それは大人が希薄に共有する物語を互いに頷き合うように受け入れるのではなく、アナが『フランケンシュタイン』を観たあとで熱にうかされ、出会ってしまうように、現実の生々しい体験としているのである。そのような裸足の子供を通過することなしには悲歌が経験とならないという認識があるのだと思う。

 二〇〇年前の今日の日付けで僕はファクスされる
 罪なく生きよ
 ファクス用紙はそう印字する
 詩は自分の終わりを
 物理的に規則化しなければならない
 罪なく生きるとはそういうことだ
 ファクス機から強風が吹き出してきて、
 黴くさい時の堆積に、力はもうない
 露出した規則に反して、
 書き得ない言語だけが隠れる病理に
 二〇〇年後の今日がはじまる

 

罪なく生きるとは魂を消しさることだ。文字という痕跡に自らを紛れ込ませる道と、罪を生きて真相の「物語」を持続するという道が用意されていて、稲川方人は後者において、特定の人の言葉とその「文」に崩壊した光の断片″ーのくずを見い出すとともに、詩を現実のものとする。子供にとって「物語」はいつも真相の「物語」である限り、子供がそれを語る行為は、詩になっていくだろう。そしてそのことは、詩形式という不幸を生きなければならない詩を深く眠らせることにもなるのだ。