3 裸足の子供
空にたゆたう光、物の間に遍在する光、直線性から逸脱した光、私たちに何かの存在を伝えたり、同じことだが視線に従属する光を離脱させ光そのもののを夢想すること。本当は私たちは光などは見ていないのだという認識から光そのものを考えること。そのようなオブセッションは一般的な光からくるのではなく、今ではなくといって過去と言い切れるわけではない特殊な体験からきていて、それはありていに言えば記憶なのだろうが、あまりに生々しすぎるという事情もある。単なる光にどうして言葉を費やさざるをえないのかという訝りが『ン天有月』という一冊の本になったように見える。たとえば「昔の光」、皮膚によって感じられる光、幼少時の眠りに落ちるときの光の記憶、そして地球規模での光の記憶というべきなオウム貝の痕跡、これらが一つの系列として置かれることが単なる郷愁に留まらない普遍性になっているのかもしれない。しかし、この系列はちょっとした思いつきなのであって、微弱な光とその痕跡を均質な時間と光から分離しようとする試みがより貴重と言うべきなのだ。郷愁という薄められて共有されている感情と物理的時間の流れのそれぞれの亀裂=昔の光に固執して、別の物の系列や、別の物語の系列を分散しようという思考なのだ。小さな物語、小さな旅、弱い光、大文字ではなく小文字、といった主題の変奏であって、この脆さと危うさの体験であって、共有された言葉やイメージに回収されない、孤独が波打っている。
「貧しい光」で書かれているように、子供とは不断にこの孤独を生きているのかもしれない。甘美さと残酷さの狭間で立ちずさんでいる。なんのためか? この幸福さは、真実という言葉の到来によっているか? 物質を身体のレベルで知ることが真実に値するのだ。動物や物になるというのでは十分ではない。ある意味ではそれは思考を放棄すれば済むことで、同時に孤独と真実も隠蔽することになる。それらは認識されるものであるから痛む身体のその痛みを生きる倒錯した身ぶりが必要なのである。思考は孤独の甘美さと残酷さを身体に刻むものなのである。逆にそのことで、ほんの少し身体との距離が開き、その距離を超える思考こそが求められているのである。それは松浦がいうところの弱い超越性なのだ。大気圏外にいって神なるものになるのではなく、地上1万メートルへの一時的な離陸なのであるが、それは地上からの不幸な距離を代償に、瞳と身体との分離とその思考の孤独を得ることになる。たとえば郷愁のような今ここにないものを指し示したり、今露呈している物語以外はもたらさない。瞳に映し出される現実の肯定と孤独の甘美さと残酷さの享受なのである。ン天有月では手足は括られたり、凍えたり、亡霊のように縮退している。それに対して瞳が巨大化している。その瞳は視線を発する目ではなく、『天文台の時\恋人たち』のような唇なのである。だからその瞳はまさぐる。あたかもマッチ売りの少女の裸足が直接冷たい地上につながり凍えながら、至福感に震えたように、瞳は直接物質に接しその豊穣さと貧しさに震えるのである。