通過する子供たちの名前

 1 子供と光

 子供と光。どちらも、今ここにはないものとして、あるいは途上のものとして、未来においてあるいは過去のものとして語られてきている。いつもそれは負担であり、いつも出口をもとめている。その運動は、遊びでありひとつの物語なのだ。遊びと物語は出口をもとめている。出口はどこにでもあると同時に、どこにも到らない。しかし、ただ遊びは楽しかったりそうでなかったりするように、その割合に応じて遠くまで連れていってくれる。

 楽しい遊びは、おそらくもともとあった規則を改編しながら、人と人を結ぶ、単純な流れであるだろう。しかし光線のような過去から未来への、あるいは文のような一筋の運動ではなく、窪みから窪みへのゲリラ的な運動である。子供の遊びでは、単によく動き回るというだけでなく、遊びが形成する場で、子供は場の一つの網目を構成していて、その網目を自由に通過し、互いに身体を交換するのである。子供間でも、その戯れによって区分があいまいになって、個としての子供である以前に集団の運動のごときなっている。この歓喜と笑いの波であり、また気紛れな運動は、多分にして光の運動と連動し、どのような小さな空間を形成するか、あるいはどのような沈黙を通過するのだろうか。