*****運動と怪物
倒錯した独身者の「私」をさしまねき、誘惑する謎めいた記号を受容して、その記号に
盲目的に身をさしだす危険を犯すことが遊戯には賭けられている。倒錯した規則に翻弄さ
れながら、その規則を理解して、規則の作動に連動するアリスのように、「私」を遊戯の
場---ナンセンスで肉体を無視した知の場であるが---に変容させ、規則を乗り越えて反復
する規則、「私」の出方で刻々変わってゆくナンセンスな規則を相手にするようになる。
ミクロコスモスの戯画的な怪物、近代の究極的な独身者である論理の自己増殖ぶりに接す
ることになる。直接存在の重さを負わないぺらぺらのイメージでありながら、その根拠の
不透明さと実体から遊離した記号そのものの悪夢めいたリアリズムが、論理の自己増殖に
付随して、私たちをさらなる遊戯に誘うわけである。
F 鷲頭有翼獅子
1ハンバート・ハンバートは靴下留めのコレクターである。
2うちの使用人は皆、そろいもそろって主人の行状を秘密の日記に書きつけている
3学寮長のお宅で奉公した者でないと、トリニティ・コレッジの紋章がグリフォンであることは知るまい。
4ハンバート・ハンバートを除いて、主人の行状を秘密の日記に記しているような使用人はいない。
5よそさまの使用人は皆、大年増でギスギスしている。
6学寮長のお宅で仕込まれた使用人は、決して靴下留めを溜めこんだりしない
∴若くてピチピチした使用人にとっては、トリニティ・コレッジの紋章なんか知ったこっちゃない。
「キャロル式三段論法十番勝負」
この詩篇にはもはや謎めいた独身者の姿はなく、天使的な軽快な運動が表明されているよ
うに見える。しかし表題が示すように、この詩篇はルイス・キャロルの論理ゲームのレトロ
な実践になっている。ルイス・キャロルの論理ゲームはいくつかの仮定から正しい命題が自
動的に引き出せるものであるが、こうしたゲームでの文章は、現実にはありえないナンセン
スな命題になっていてもかまわない。そこでの言葉は別の記号を引き出す記号でしかないわ
けである。ゲームの規則にしたがっていることが、そうでないケースに比べても圧倒的に言
葉のナンセンス化と無重力化を効果的に実現しているのである。この詩篇では行から行への
飛び方の効果が、規則と意味の間での微妙なバランスによってもたらされている。そしてい
わば二重に倒錯するように規則=論理を差し引くことが、この遊戯であり、詩形式の危険さ
をかいま見せてくれる。つまりこの詩篇の最後の「ああ、おもしろかった。きょうはこれで
おしまい」は額面通りに取ることもできるが、この言語ゲームから導かれる結論なのではと
か、遊戯であることを念を押している、あるいはルイス・キャロルが幾分下心ありげに作っ
ていることとの対比なのか‥‥‥と想像してしまうことは、遊戯での言葉の機能が要請する
際限のない巻き込み---論理ゲームのひとつのおもしろさであり、言葉の悪夢でもあるのだ
---であり、罠なのである。天使的な運動とはこのトートロジーに加担しながらも、表象の
不透明な表層をかいま見せるものであり、反復する過剰さへの驚きなのだ。そのことは詩形
式を渡ってゆく危機意識と連動して、ミクロコスモスの怪物との闘いを加速するだろう。