奥州江刺郡「豊田館」考
★ 謎の「白山権現」
片岡常春を探しているうち、次第に義経と頼朝、そして秀衡の後を追ってきたが、もう一度時を百年さかのぼり、初代清衡の頃の「豊田館」の痕跡を探る本題に戻りたい。
★ 岩谷堂小学校 校長先生の一言
私の小学校の校長先生は菅野謙先生といい、さまざまにお世話になり、慈愛にみちた恩情で見守っていただいた。
いつのことだったか前後の情景は思い出せないが、謙先生の後ろについて校庭を歩いて行き、南西の片隅に建っていた神社を散策しながら話してくれたことが、脳裏に浮かんでくる。(下の写真が岩谷堂小学校 正門から見たところ。この左手に神社がある)
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「この神社だけは、どういうものか、全然わからないんだなあ」という、独り言のような、または私に言うようなお話であった。
この神社の由来が全く解らないというのは、自分が勤めている小学校の敷地の一角にある、古い神社の存在について説明できない弁解をしているように聞こえたし、何でも知っているはずの校長先生にも知らないことがあるんだな、というような思いで聞いていた気がする。
ごく最近、謙先生の御長男の菅野洋一先生にお目にかかる機会があり、そんな思い出話をしたところ、謙先生は実は大変な郷土史家であったと伺った。
奈良の方まで出かけて熱心に研究していたと聞かされ、あの一言は研究の裏付けの上でのことであったということを思い知らされた。
今考えれば、私に歴史への興味を植え付けてくれていたのかも知れない。別の機会に「藤原の経清さんという人が餅田の豊田の館に居て……」という話を初めて聞かせてくれたのも、この菅野謙先生だったのである。
その神社は「山の神」という名で呼ばれ、「江刺市史」にもそう記されていた。神社の名称がただ「山の神」というのもはなはだ不思議な呼び方ではある。場所は御館山全体から見れば最南端部分で、岩谷堂の町に突き出した台地の上にある。前に記した、幼い頃「といた」と聞いた地域の一角である。
現在は小学校が建っているが、それ以前は、大きな武家屋敷が並んでいたところであるという。校庭の中の西の校門寄りに巨木の枝垂れ桜があった。樹齢数百年という老木であったが、残念ながら知らぬ間に無くなっていた。校舎の前には日本庭園の池や石組み、樹木等がそのまま残されている。
おそらく小学校の建設にあたって、これらの庭園を破壊するのを惜しみ、学校の施設としてそのまま保存されたものと思われる。一角にあった神社もそのまま残されたのであろう。
その境内には「山神」「雷神 十二神」「主日麻神社」と刻まれた古い自然石が昔さながらに置かれ傾いており、お堂の左奥には大きな、比較的新しい「古峯神社」という石碑が建っている。時代によってそれぞれに崇拝する神々の名を石に刻んで奉納したと思われるが、神社そのものを示すものではないようである。菅野謙校長の言う通り、確かに正体不明の神社のように見える。 (写真 小学校校庭の南西角の神社)
この謎の神社にこそ、実は奥州藤原氏の初代清衡がここに住んでいた、「豊田館」がここにあった、という歴史の秘密が隠されている——。この主張でもって、謙先生の深い恩顧に報いることにしたいと思うのだが、果たして甘受してくださるかどうか。★ 片岡村の神社一覧
神社のことであるから、江戸時代に記録された江刺郡片岡村 の「風土記御用書出」を見れば、すぐに解るはずである。
まず神社の記載をもう一度見てみると、以下の通りである。それぞれに小さく記されていた肩書きを大きくし、説明文を省略して並べてみよう。書出しは2つある。
安永2年11月「肝入 次左衛門」 の書出
『 神社 12 』1〈杉 山〉 神 明 社
2〈稲荷坂〉 稲荷明神
3〈根 岸〉 八 幡 宮
4〈倉間田〉 稲荷明神
5〈鎮守宮元〉白山権現
6〈形志け〉 八龍権現
7〈白山澤〉 白山権現
8〈歌よみ〉 三竹権現
9〈日 影〉 熊野権現
10〈中曾根〉 愛 宕 宮
11〈一日市町〉秋葉山権現
12〈大 石〉 愛 宕 宮安永3年2月「江刺郡片岡村等伊達左兵衛在所書出」
『 神社 5 』
1〈居館本丸之内〉 八 幡
2〈銭井町之内〉 愛 宕
3〈同町之内大石〉 愛 宕
4〈重染寺山から沢〉 伊 勢 宮
5〈かたしけ〉 八 龍 権 現
後の方の伊達の殿さまの支配地部分の書出しは、村からの書出しを補うものとして出されているが、追加されているのは居館本丸の「八幡」と重染寺山から沢の「伊勢宮」の2か所で、残りの3か所は同じである。村から出された書出しの最初の「杉山 神明社」の杉山というのは、居館本丸を指していると思われるが、その内にある神明社(伊勢神宮を祀る社)を欠いている。村方の書出しにあるので省略したものか。
これらの神社は現在もそのまま存続し続けていると考えられる。建物そのものは建て替えられたり、なにかの都合で場所を移したりしたとしても、その地に昔のまま存在しているとして、ほぼ間違いないと思われる。
この安永2年の風土記書出しの神社を、私が撮影できた御館山周辺の神社の写真で紹介してみよう。
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@杉山 神明社 右 鳥居の奥が八幡神社 A稲荷坂 稲荷明神
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Eかたじけ 八龍権現 F白山澤 白山権現
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I中曽根 愛宕神社 K男石 愛宕神社
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重染寺 伊勢宮
ここに掲げたほかのB〈根岸〉八幡宮、G〈歌よみ〉三竹権現、H〈日影〉熊野権現、J〈一日市町〉秋葉山権現はそれぞれ実在し、地図でも確かめることができる。(歌読の「三竹権現」は御嶽神社となっていると思われる)
Cの「〈倉間田〉稲荷明神」は、倉間田という地名がどこなのか解らないので、ご存知の方に是非教えていただきたいと願い、ネットのBBSでたずねてみた。
早速親切に教えてくださる方々があり、光明寺の東の方に蓮九寺があり、そのすぐ近くに稲荷神社がある。その地域が「鞍馬田」と呼ばれているという。さらにその地区に「くらまだ子供会」というのがあったという情報であった。
「倉間田」は「くらまだ」と読み、現在では「鞍馬田」という表記に変わっているが、間違いなく安永の風土記書出と一致していると思われる。長いことあれやこれやと考えあぐねていたことが、あっという間に氷解してしまった。ネット時代の有難さ、快く情報を提供して下さった方々に感謝するばかりである。
片岡村の風土記書出の終りの方に屋鋪名が記録されており、その中に「倉間田 屋鋪」とあるので、倉間田というのは地名というより屋号を言っているのかも知れない。倉間田屋鋪の稲荷明神ということであろう。それが昔のままに存在していることが明らかとなった。
そして最後に残るのはDの「〈鎮守宮元〉白山権現」である。これに該当する神社こそ、先に述べた岩谷堂小学校の校庭の南西角に鎮座する、現在の「山ノ神」のことであることは、誰が見ても明らかである。
明治以降にでも創建されたなら由来が解らないはずはないし、古い昔からこの場所にあって、片岡村の人々に無視されたはずもない。まして「鎮守」という、村の中心的役割の神社である。
江刺平野に突き出した岬の灯台のように、御館山の南端の台地に建っている神社は、その立地からして鎮守の名にふさはしい。この神社は名もない山の神などではなく、れっきとした「白山権現」=「白山神社」であることは疑いないと考える。
★江刺郡の総鎮守
「江刺郡志」には次のように記されている。
白山権現社は「字(あざ)宮元にあり」と言っているが、結論は不明としている。“宮元”というのを地名の字としているので、そのような字名が伝わっていなかったので、「明ならず」としたと思われる。実際に「みやもと」という地名は今も思い浮かぶところは無い。○白山権現社
字宮元にあり、古くは江刺郡の総鎮守なりと伝ふるも明ならず。
それは「倉間田」と同じく屋鋪名で、風土記書出にある「宮本 屋鋪」を指していたと思われる。「宮元」は「宮本」と同じと考えられるので、白山権現は、宮本屋敷の中に建っていた神社であったと言える。では宮本屋敷はどこにあったのか、となると、昔の絵図でもあればいいのであるが、今の小学校の所と想像するしかない。なにやら現代の“イラクの自衛隊の非戦闘地域”のような理屈になってしまう。
いや、むしろ、屋敷が出来る前から神社のお宮があって、そこに屋敷が作られたので、「宮元の屋敷」と呼ばれるようになったということであろう。神社の方がそれよりずっと以前から建っていたというのが正解と思われる。
ただこの「宮本屋敷」の4つ前に記されている「道口(とうのくち)」という言葉は、小さい頃聞いた言葉で、館山から本町へ下るあたりを指していたと記憶している。この白山権現の近隣である。
ところで、「江刺郡志」の記事で重要なのは、「古くは江刺郡の総鎮守なりと伝うる」ということである。この白山権現は村の鎮守などというものではなく、江刺郡全体の総鎮守だったのである。それはもっと大きな歴史的意味を含んでいることになるのである。
「江刺郡志」の記事は田邊希文の「封内風土記」に準拠していると思われる。その「片岡邑」の項に次のように記されている。神社凡八。この「封内風土記」の神社の記録の筆頭に、白山権現が「本郡の総鎮守」であると記され、その他の由来は不詳とされている。仙台藩の中枢で、片岡村の神社のトップに白山権現社という江刺郡の総鎮守があると認識されていたのである。いわばそれほど有名な神社だったということである。
白山権現社。本郡総鎮守。不詳何時勧請。
稲荷社。不詳何時勧請。
神明宮。同上。
八幡宮二。共同上。
愛宕神社二。共同上。其一舊在栗原郡大鳥邑。後水尾帝。元和八年。移于本邑。
秋葉権現社。同上。或称八龍権現。
この封内風土記の記録は、それ以外のことはほとんど不詳ということで、秋葉権現社と八龍権現を混同するなど、誤った記述も見られる。古い文書などを元にした机上の編纂だったことがうかがわれる。
それにしても、片岡村の神社の代表的な存在として「白山権現社」が江刺郡の総鎮守であったという記録は重要な意味を持つと考えられる。
★「白山神社」を総鎮守とした人
実はこの神社が江刺総鎮守だということを、私は小さい頃祖父から教えられた記憶がある。
小学校入学前のことだから5、6歳であったと思う。終戦前の元朝参り、つまり初詣でに祖父庄太郎に連れて行かれた。いつも汲んでいる隣の家の井戸から若水を手桶に汲み、白米を持って雪の降り積もった道を歩き、小学校の校庭脇のその神社にお参りした。その時「この神さまはこのあたり全部の大元だから、お参りは必ずここから始めるのだ」と教えられたのだった。
それからもう一度引き返して館山の上の八幡神社と伊勢の天照大神の社、大銀杏の根本のお堂を回り、山の中を下って、稲荷明神に行った。梯子段を昇りお稲荷さんの祠に手を打った…。
それからあちこち連れて行かれたことが夢のように覚えている。実際に祖父の背中で寝ていたのかも知れない。
それは文書の上の記録ではなく現実に人の口から口へ言い伝えられた、江刺の総鎮守の言い伝えであったのである。私がこの神社が「白山権現社」すなわち「白山神社」であると主張するのは、祖先から伝えられたこの記憶の裏付けがあるからこそである。
ではなぜ、どうして「江刺郡総鎮守」なのか。
ここに「白山神社」を建立し、郡の総鎮守とすることが出来た人—それは、いにしえの江刺郡を統括した人物、すなわち藤原清衡、あるいはその父・藤原経清しかいない。
その昔の輝かしい記憶が、「江刺郡総鎮守」という語句の奥に込められて、人々の口に言い伝えられたのである。
総鎮守として「白山神社」を勧請し、奥六郡を統治して産業を発展させた奥州藤原氏の始祖が、この御館山の地に居館を構えていた明らかな証拠が、この「謎の白山権現」だったのである。
やがて新たな平泉に移り、中尊寺の造営を始め、その最初に鎮守「白山神社」を建立したことは周知の事実であるが、その原型が、ここにあるということができるのではないだろうか。
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