稲城の鎌倉街道近辺の史跡の紹介
稲城の古道探索-史跡
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稲城市の古道を語るにあたり、その古道筋にある史跡を幾つか紹介してみます。紹介する史跡はあまり知られたものではないかも知れませんが、それでも興味を持って接すればそれぞれに味わい深いものがあります。もちろんここで紹介したもの以外にも魅力ある史跡は稲城市にはまだまだ沢山ありますので、興味を待たれた方は調べてみて下さい。

大丸城跡に建つ説明版
説明版に乗っている発掘当時の写真

上の写真左は稲城市大丸にある大丸遺跡地に建つ大丸城跡の説明版です。JR南武線の南多摩駅の南300メートル付近にあり、この大丸遺跡(多摩ニュータウンNo.513遺跡)の発掘調査が行われた周辺は現在では住宅が建ち並び城跡を伝えるものはこの説明版しかありません。上右の写真はその説明版に載っている遺跡の発掘当時の上空からの写真です。

説明版には次のように書かれています。
大丸城跡は、多摩ニュータウンの造成工事に先立って、昭和55年から61年にかけて三次の発掘調査が行われました。この調査により、縄文時代から江戸時代にかけての大規模な複合遺跡であることが判明しています。なかでも中世の城郭跡と武蔵国分寺や国府とも関係の深い奈良時代の瓦窯跡が発見され、貴重な成果が得られた。

中世の城郭跡
中世に築かれた大丸城跡は山頂部に主郭を置き、主格上には小建物跡と柵列跡あり、その周囲には深さ2メートルから3メートルの空壕と土塁状の腰曲輪が確認されています。それらの結果、ここは見張り台程度の規模の山城で、南北朝時代から戦国時代頃に使われたことが明らかになっているようです。稲城市内に築かれた小沢城(矢野口)や長沼城(東長沼)とほぼ同時期のものと考えられているようです。

中世の経塚・墓跡、板碑群
遺跡の東斜面からは経塚・墓跡・板碑群という中世の遺構が集中して発見されています。板碑群は他所から運ばれて再配置されたもので、三カ所から計83枚が見つかっています。経塚・墓跡は3基発見され、蔵骨器(常滑系三筋壺と渥美壺)、経筒などが出土しているそうです。

奈良時代の瓦窯跡
瓦窯跡は東・西・北の三斜面から計15基発見されています。最も古いものは奈良時代前半に瓦と須恵器を焼いた東斜面の4基で、次いで国府や多摩川中流域の寺院(川崎市寺尾台廃寺など)の瓦を焼いた北斜面3基、そして奈良時代中頃に国分寺創建期の瓦(主に国分寺七重塔と北院建物)を焼いた西斜面の8基に分けられ使用されていたものと考えられています。

その他の遺構として縄文時代の陥し穴土坑、集石土坑、古墳時代の横穴墓、奈良時代の竪穴住居跡、中世の地下式横穴、近世の神社跡などが発見されています。

これらの発見から奈良時代の瓦窯跡と中世山城跡が中心的な役割を果たした遺跡であることから、この付近はかなり古い時代から開かれた土地であったと思われるのです。そして見張り台の山城だったということはこの近くに街道があったことが十分に考えられます。

またこの稲城市の大丸には瓦谷戸窯跡という江戸時代から知られた窯跡群があり、やはり武蔵国分寺などに瓦を供給していたことから、ここ稲城市の多摩川南岸の丘陵斜面は古代瓦の一大生産地であり武蔵国府・国分寺との密接な関係があったことがうかがえるわけです。

左の写真は大丸遺跡の東方の丘陵斜面に東を向いて鎮座している大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)です。延喜式内社との伝承があります。延喜式の大麻止乃豆乃天神社は青梅市の武蔵御獄神社がそれにあたるとも考えられていますが、両社ともそれを裏付ける決定的資料が今のところは無いようです。

祭神は櫛真知命(くしまちのみこと)で、境内には津島神社、白山神社、稲荷神社、秋葉神社が祀られています。江戸時代の地誌には「丸宮社」とあります。地名の大丸はこの神社からきているとも考えられ、『武蔵名勝図会』には昔は大円と書いてオオマドと読んでいたとあります。

大麻止乃豆乃天神社

左の写真は百村の妙見寺参道と妙見尊の鳥居です。妙見寺は天台宗の古刹で神王山観音院と号します。『妙見寺記録』によると、妙見宮の別当であった修験者東光院から、延宝5年(1677)に観音院にかわったことが記されていて、『寺院明細帳』には宝永年中に観音院を寺格に引き直して妙見寺としたとあります。このように妙見尊との神仏混合を今日に伝えている寺なのです。境内は妙見山の尾根に囲まれていていますが落ち着いた雰囲気があります。
妙見尊入口の鳥居と奥に見える門は妙見寺

上の写真の鳥居の石段を上っていくと一度平場に出ます。そこにはまた鳥居がありますが、鳥居の前左右に石柱があります。この空間は毎年行われる東京都指定文化財の「蛇より行事」や「神化まつり」が行われるところです。

「蛇より行事」は寛文2年(1662)の諸国に疫病が流行したときより行われている民族行事で妙見尊が青龍に乗ってこの地に現れたことによるものと伝えられています。行事のさい、萱で造られた大蛇は長さが50〜100メートルにもなるそうです。

妙見尊の社殿横には筆塚があり、江戸時代後期の文人書家であった百瀬雲元という人の功績を称えて建てられたものです。

妙見尊の社殿

左の写真は京王稲城駅のすぐ北側にある常楽寺を撮影したものです。山門の奥に見えるのは駅前のマンションでしょうか。図書館で見た稲城市の文化財の本には長沼城があった亀山の尾根の前に建つ昭和17年頃と書かれた常楽寺の写真が載っていましたが、その写真の寺と現在の寺が同じ寺とは思えないほどの違いがあります。昭和の始めから現在まで日本の街の風景というのは全く変わってしまったようです。何百年と続いた日本の原風景というのはどこへ行ってしまったのか。なぜ変わらなくてはならなかったのか・・・。
常楽寺山門

東長沼の常楽寺は天台宗で、樹光山浄土院と号します。永禄元年(1558)に比叡山で修行した僧良順が再興したと伝えられます。昭和49年に改築された阿弥陀堂には東京都指定文化財の阿弥陀如来と両脇侍像があります。三体とも寄木造りで、藤原時代末期の製作と思われている大変古いものです。また同じく東京都指定文化財の閻魔王像は元禄12年(1669)の墨書があり巧みな技法でつくられた像です。左の写真は境内にある地蔵菩薩像で寛文4年(1664)の造立で、「念仏供養想衆十人庚申供養想衆七人」という銘文から当時農村に広がりつつあった庚申信仰と結びついたもので庚申像としては最も古く地蔵と庚申の両信仰を兼ねた資料で貴重なものだそうです。
常楽寺境内にある市指定文化財の地蔵像

左の写真は稲城市内では比較的名の知られている「ありがた山」と呼ばれる石造物群のあるところを撮影したものです。妙覚寺墓地最奥にあるこの石造物群に関しては以外と資料が少なく詳しいことはわかりませんが、一般的には昭和10年代の後半頃に都内の駒込あたりの寺院にあった無縁仏を、ある宗教団体がここに集めて供養したものと伝えられているようです。どんな宗教団体だったのか、またなぜこの場所が選ばれたのかはわかりませんでした。いずれにせよ古道とは関係するものではないようですが、丘陵散策の折りには寄ってみたいところです。北の眺めが素晴らしいことと、石造仏が並ぶ斜面中間部の両脇に清水が湧いているのが印象的でした。「ありがた山」の名前の由来など、興味のある方は調べてみるのも面白いかも知れませんよ。
ありがた山の石仏群

左の写真は京王よみうりランド駅近くにある妙覚寺境内にある稲城市指定文化財の板碑です。妙覚寺は足利義晴候の開山で鎌倉建長寺の末寺として建立されたと伝えています。観音堂石段の脇に市指定文化財の筆塚があり、この地の学業の指導者の功績と徳をたたえて建てられたものであるといい、碑の表面には指導者であった角田すず女の辞世の歌が刻まれています。板碑は阿弥陀三尊の種子で享徳3年(1454)の秋彼岸の中日に道秀という人物が逆修供養のために建てたことが刻まれています。『江戸名所図会』には妙覚寺境内周辺が小沢小太郎の居宅の旧地で馬場や蔵跡と言い伝えていることが記されています。
妙覚寺にある市指定文化財の板碑

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