稲城の鎌倉街道・その地域の歴史的背景
稲城の古道探索-歴史
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稲城の鎌倉街道と歴史を語るにあたり、忘れてならないものがあります。現在の京王稲城駅の辺りはかって亀山(きざん)と呼ばれる尾根が張り出していて、その尾根上には長沼城と呼ばれる中世の城跡があったことです。明治時代前期の地誌図を見てみると南山スポーツ広場を含み、現在稲城のグランドキャニオンと称する崖状の山までその尾根が延びていたことがわかります。左の写真は三沢川の亀山橋前に建つ「長沼城・報恩寺跡地」と記された石碑で、平成2年に建てられたものです。
稲城駅の北西、三沢川の亀山橋前に建つ城跡碑

上の写真の碑には次のように書かれています。

「この地はその昔、源頼朝に仕えた武将、長沼五郎宗政一族の館(城跡)のあった所といわれ『新編武蔵風土記稿』、また江戸時代中期に建立され、明治の末年廃寺となった報恩寺の跡地でもある。」

実際、長沼城に関しては詳しいことはわかっていないようです。長沼五郎宗政の館といっても立証する物は何もないようです。また『武蔵名勝図解』には「往昔長沼二郎大夫職任という武蔵七党の内の西の党より出たる人、当所に住す。村内報恩寺の境内は長沼氏の子孫の住したる屋敷跡なり。城地といふにあらず」というようにあります。

城跡に建てられたという報恩寺は黄檗宗の寺で大亀山光明院と号していたといい、本尊は千手観音で明治30年に廃寺となったそうです。東長沼にある太子堂は報恩寺のお堂を移したものといいます。

以上、稲城駅付近にあった城跡に触れましたが、何れにしても長沼城跡のあった尾根は今はなく、長沼城そのものが幻の中世山城となってしまったわけですが、鎌倉街道を語るには十分な装飾材料であることは間違いありません。

さてこの亀山と呼ばれた尾根は現在何故なくなってしまったのでしょう。資料が少なく詳しいことはわかりませんが、稲城の文化財という資料には昭和38年頃までは台地状の小丘陵であったと書かれています。その後土砂採掘により小丘陵もろごと持っていかれてしまって、右の写真のような山肌がえぐられた崖が残ったということのようです。そして今またこの崖状の山も土地開発により、崩され掛けようとしているわけなのです。
南山スポーツ広場より見る崖山

明治時代の地誌図を見ると長沼城のあった尾根と妙見尊のある妙見山の間には深い谷があって、その谷の出口方向は武蔵国府のあった府中方面を向いています。そしてこの谷を抜け出るところは正しく「出口」と呼ばれる地名があたようです。現在、百村入谷戸児童公園がある辺りが二つの尾根に挟まれた谷底部であったと思われるのです。

多摩丘陵の鎌倉街道に詳しい古道研究家はこの谷を故意に堀狭めた人工谷遺構と見ておられるようです。確かに細く長く真っ直ぐに伸びた谷は地図上でも人工的なものを感じます。実際に現在残っている谷の最奥部には不思議な切り岸状の壁が見られると「多摩丘陵古街道探索会」の資料には載っています。

そしてこの人工的な谷底の途中から南へ丘陵へと上っていく古道があったと考えられていて、このルートを「多摩丘陵古街道探索会」の資料では「大道ルート」と呼んでいます。

妙見尊のある妙見山は長沼城と隣接した砦山ではないかとも考えられているようです。そうすると深い人工的な谷は城と砦に挟まれた幹線路という見方も確かにできそうです。

妙見山南西側にある山道(古道でない)。緑が美しく東京都とは思えない。

さて、稲城を南北に通っていたと考えられる鎌倉街道は本当に存在したのでしょうか。それを実証できる文献資料などは私はまだ見つけられていません。それはまた、このルートを街道として研究していた歴史専門家の方もあまりいなかったということが言えるのかも知れません。

街道が通っていたからには、このルート上に中世史に関する何かがなくてはなりません。歴史に係る話が何もないということでは専門家も取り上げることも無いでしょう。そこで少ない資料と推定古道ルート上に存在する史跡などを少しだけ見ていきたいと思います。

まずルート全体を大ざっぱではありますが辿ってみたいと思います。
「是政道」と称するこのルートは北側の基点が武蔵国府にあると考えられています。武蔵国府を通る鎌倉街道は上道がまずその代表格として上げられます。上道は武蔵国府からやや西側へルートを逸らすコースを取っています。次に実際に地図上に武蔵国府と鎌倉を線で結んでみます。直線であるわけですから最短のルートということですが、これが正に多摩川の是政橋を渡り稲城の丘陵を越える古道ルート線上に乗ってくるのです。

是政道は武蔵国府から南の是政橋付近で多摩川を渡り稲城の大丸に進みます。その後長沼城付近から丘陵に上り川崎市麻生区の細山へと出ます。稲城市と川崎市の境付近はこの丘陵の最も高所と思われ、この辺りに七国峠という峠があったようです。その先は麻生区の千代が丘と金程の境を南下し現在の新百合ヶ丘駅付近の万福寺へと進みます。 更に現在の小田急線の東側の上麻生の尾根に向かい常安寺(推定で源義経の四天王の一人と伝えられる亀井六郎の館跡付近)付近の鶴見川へ出ます。ここから先は鶴見川沿いの東岸と西岸を更に南進して市ヶ尾ないし青砥付近で鎌倉街道中道と合流したものと思われます。

以上がこのルートを大ざっぱに辿ってみたものです。一見、上道と中道の連絡路のようにも思えますが、始めに上げたように武蔵国府と鎌倉を最も直線で結んでいるルートという事柄から単なる連絡路と考えるには安易すぎるようにも感じられます。

地味ではありますがこのルート上には城跡や砦跡などが多く見られるようです。またこのルートの東には矢野口経由の足利尊氏ルートと称する道がありその道筋には有名な小沢城跡があります。中世の武蔵国の数々の戦場として多摩川は大きな意味を持った防衛線であったことは言うまでもありません。

とすると多摩川を渡る中世の道は上道だけが幹線路と見るよりも、幾つかの軍事的な意味を持った重要な街道が存在したと考える方が自然なようにも感じます。

続いてこのルート上に存在する史跡などから街道存在の裏付けや歴史的意味あいを考えて見たいと思います。

先にも書いたようにこのルート上には城跡や砦跡と思われる遺構が多く存在しているようです。まず多摩川の是政橋を渡ってすぐに大丸城跡があります。ここは昭和の終わり頃に発掘調査が行われていて中世城跡と共に古代の瓦窯跡などが発見されています。そして市の中心には亀山の長沼城跡があります。また大丸城跡の調査では東側斜面から計83基の板碑が発見されています。それ以外にもこのルートに隣接した付近には板碑が多く出土しているようなのです。

常楽寺境内にあるかっての阿弥陀堂跡地

是政道から東に逸れますが、矢野口には小沢城跡があります。鎌倉時代初期の源頼朝に仕えた有力武士、稲毛三郎重成とその子小沢二郎(小太郎)重政の居城と伝えられる城です。この城は南北朝時代に足利直義が入り足利尊氏と戦った(観応の擾乱)と伝えられていて、足利尊氏が多用した道が今のよみうりランドの中にあって足利尊氏道と呼ばれていたといいます。

更に太平記に記されている足利尊氏と新田義興・義宗の戦いでは是政道付近は戦場となったものと思われます。また浄瑠璃「神霊矢口渡」の舞台は大田区矢口が有力候補ですが、ここ稲城市矢野口とする説もあるようです。

時代は下って享禄3年(1530)に上杉朝興と北条氏康は多摩川南の是政道付近で関東の覇権をめぐって戦をしています。「小沢原合戦」と呼ばれ、このとき北条氏康は初陣であった言われますが、上杉勢を川越城まで退かせ勝利したと伝えます。

ここまで見てみると是政道に関連した歴史的な伝承はけっこうあるんだと実感できます。

最後にこの是政道のルート付近にある古代の史跡について少しだけ触れておきます。この稲城の鎌倉街道はその前身は古代道ではないかとも考えられているのです。多摩川の是政橋を渡って稲城市に入ったところは大丸と呼ばれる地名のところですが、ここには先に紹介した中世の城跡である大丸城跡が確認されています。城跡の調査では古代の瓦窯跡が発見されていますが、ここで焼かれた瓦は武蔵国分寺や国府の建物に使用されたことがわかっています。
大丸の大麻止乃豆乃天神社

稲城市大丸には大丸城跡以外にも瓦谷戸窯跡という瓦窯跡群が知られていてこの大丸一帯は古代武蔵国府や国分寺の瓦の大生産地であったわけです。

更に古代に関連する史跡はないかと探してみると平安時代の延喜式神名帳に名のある神社3座が稲城にはあることがわかりました。一つは大丸城跡東南にある大麻止乃豆乃天神社です。もう一つが東長沼にある青渭神社です。そして矢野口の小沢城跡近くの穴澤天神社があります。大麻止乃豆乃天神社と青渭神社は複数候補社のある神社ですが、武蔵国44座中3社がここに集中していたことを考えると古代から稲城は開かれていたところと考えられなくもありません。

芳賀善次郎氏が万葉歌に登場する阿須の地形と稲城の崖山とを重ねて解説されていたことは、この稲城の地が古代の人達には歌の舞台としての身近な親しみのあるところと考えられたからなのではないでしょうか。

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