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 ローリング・ストーン・マガジン 2008年5月 マッドクラッチ
Tom Petty Reunites Mudcrutch :
Pre-Heartbreakers band cuts killer comeback album and tours California
by Gavin Edwards



 「ぼくが素敵に違いないと思ってやり始めた事は、すごくクレイジーだったかも知れない。」トム・ペティは言う。1975年に解散したかつてのバンド,マッドクラッチの話だ。二人のマッドクラッチ・メンバー ― ギタリストのマイク・キャンベルとキーボーディストのベンモント・テンチはそのままハートブレイカーズへと連なり、一方他の二人,ギタリストのトム・リードンとドラマーのランダル・マーシュは、この数十年音楽業界からは離れていた。
 ペティは言う。「ただぼくは、連中といっしょにやってみたかったんだ。」
 今まさに、その通りの事となった。マッドクラッチの5人は、ロサンゼルス,サン・フェルナンド・ヴァレーにあるペティのリハーサル・スペースにたむろし、カリフォルニアでのツアーのための調整を行っている。
 部屋の外側から見ればどれも同じようなシンダーブロックの白い壁だが、内側にはありとあらゆる種類のギターが並べられ、オリエンタルなラグが敷かれ、ロバート・ジョンソンからフォガットまで、多くのミュージシャンの写真が飾られている。

 フロリダ州ゲインズヴィルで過ごした十代のころ、ペティとリードンは親友同士で、ペティの父親はこの二人を「トムトム」と呼んでいた。リードンはこう回想している。
 「あいつにガールフレンドが居た時 ― いつも居るんだけど ― シャイな私には一人も居なかった。あいつはデートの時、いつも私を一緒に連れて行ったんだ。三人で映画を見に行ったよ。」
 二人はジ・エピックスというバンドでのパートナーだった。これがマッドクラッチとなる。
 「バンドを始めたとき、ゲインズヴィルで一番のバンドを目指していた。」リードンは言った。それを達成すると、マッドクラッチは1974年にハリウッドに移ったが、ファースト・アルバムになるはずだったレコーディング・セッションは惨憺たる物だった。レコード会社はペティを前面に出す事を望んだため、彼はソロを選んでバンドを抜けた。
 ペティの脱退による行き詰まりの後、マーシュはコード・ブルーというバンドを結成し、その後カリフォルニア州オージェイに移った。そこでマーシュはドラムの教えながら出来得る限りの仕事 ― キャンベルのデモから、子供向け舞台作品「くまのプーさん」まで、ありとあらゆる仕事をした。
 一方リードンは、リンダ・ロンシュタットと演奏活動を行い、モータウンのベーシスト,ジェイムズ・ジェマーソンとイーグルスの曲を書いたりした(彼の兄バーニー・リードンはイーグルスの結成メンバーだった)。学校に戻った後は、電気工学の学位を取り、17年間にわたってテネシー州ブレントウッドのジャン・ウィリアムズ・スクールでギターを教えていた。

 近年では、ペティとリードンは疎遠になっていた。ペティを困らせたくなかったのだと、リードンは言っている。「彼の周囲には保護膜みたいのがあったんだ。そういうのは必要だからね。あまり頻繁には話さなかった。何年かに一度会っていたよ。」
 
 去年の、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ・ドキュメンタリー映画 ”Runnin’ down a dream” が、ペティのマッドクラッチに対する興味を刺激した。監督のピーター・ボグダノヴィッチを使者として、ペティはリードンとマーシュにまた一緒にバンドを組みたいと伝えた。
 「まるで雷にでも打たれたような気分だった。」リードンは言う。
 かくして、去年の8月。5人はこのヴァレー・リハーサル・スペースに集った。プラグを差込み、ペティは30前以来のベースに復帰し、なんだかイマイチな高校の同窓会のような緊張感が漂ったことだろう。
 「最初の一音からたやすく、自然な感じだったよ。」テンチが語った。「あれほど楽しかったレコーディングは、両親の家のリビングルーム以来だ。」 ― それは1973年にマッドクラッチが最初のデモを録音したときのことだった。ペティも言っている。「何年も音楽をやって来た中で、最高のものの一つだったね。」
 
 アルバム[ Mudcrutch ] はこの部屋で10日で録音された14曲で構成されている。中には、かつてバンドがカバーしていた曲もある。ザ・バーズの “ The Lover of Bayou” や、インストゥルメンタルの “ June Apple “ など。そしてマーシュ以外の全員が作曲したオリジナル曲だ。ペティはセッションの間じゅう、毎晩新しい曲作りに費やした。
 「10時に家に帰ると3時まで仕事。それからインクも乾かないうちに、ここへそいつを持ってくる。そして録音。」
 「いつも、最初にぼくらが鳴らしたコードでキマった。」とは、テンチの弁。

 アルバムには、カントリー・ロック・サウンドのリラックスした雰囲気がある。そこには、マッドクラッチが初期に影響を受けたザ・フライング・ブリトー・ブラザーズや、ジ・オールマン・ブラザーズなどが聞き取れる。2008年にトム・ペティから聞かれるとは、思いもよらなかった事だろう。
 夢見るような、くつろぎの曲 “ Crystal River “ は9分以上あり、ペティがこれまでスタジオ録音したどの曲よりも長い。
 ペティ曰く、「これしかないんだよ。短くするとか、なんとかは出来なかった。」
 
 今回のメンバーのマッドクラッチは、かつて一度も存在していなかった。テンチは元々、リードンの後釜としてバンドに入ったのだ。しかし、彼らは何十年ものあいだ、お互いによく知っていたし、旧交を温めることをとても楽しんでいる。特に昔話などをはじめると、その友情は気楽な雰囲気になる。
 彼らは、ある観客が狩猟ナイフをペティに突きつけて、散髪してやろうかと脅した話や、トップレス・バーでのギグ、ゲインズヴィルにあったマッドクラッチ・ファーム裏でのリハーサルの事などを色々語った。
 「ぼくの交通手段は全然駄目だった。」ペティは言う。「毎朝起きると、どうやってマッドクラッチ・ファームに行くかを考えなきゃならなかった。ヒッチハイクしたり、自転車こいだり。コート・ハンガーでやっとつながってるみたいな、悲惨で小さなフォードのCortinaを持っていて、こいつを使う事もあった。
 テンチが回想した。「ランドルだけが、メンバーの中で車を持っていた。それで全員が乗り込み、どこかへ行く。その途中でガス欠になると、ランドルは車を停めて、『よし、全員ガス代25セント出せ』。だれか、25セントを持ってない奴が居れば、『よし、降りろ』、だ。」
 「だれもすすんで金を出そうとしなかったぞ。」と、マーシュが抗議した。「けっこう赤が出た。」

 楽器をセットすると、しばしやっかいなフィードバック音を鎮めた後、5人は曲目を一通り演奏し始めた。日の光が降り注ぐようなカリフォルニア版 “ Topanga Cowgirl “ をリハした時こそが、このアルバムのハイライトだ。
 キャンベルがやすやすとエレガントなソロを演奏した。最後に、彼は彼自身の指が紡ぎだしたものに驚いたように、眉を上げた。
 グループはぼんやりとした結末にむかってよろめきつつも、歌は沈み込むように終わった。ペティはキャメルに火を点けて、バンド仲間に示唆した。
 「俺たちがこれを一旦はじめたら、俺が止めるまでは誰も止められないだろうな。」



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