話題の切手

オイゲン・ヨッフム生誕100年 ドイツ(2002年)

写真は、「パルジファルのオーケストラ練習をしているヨッフム(1971年、バイロイト音楽祭)」と、JPS音楽切手部会の松浦さんからご教示を戴きました。どうもありがとうございます。1971年のバイロイト音楽祭のパルシファルがどんな演奏だったか、今更興味が湧いて来ますね。

  オイゲン・ヨッフム(1902-1987)は、1902年、バイエルン州のバーベンハウゼンに生まれた。1925年からキール、リューベックで指揮者としての経歴を始め、フルトヴェングラーに認められ、マンハイムで彼の後任を務めた。1934年からハンブルク国立歌劇場とハンブルク・フィルハーモニーの常任を兼ね、ベルリンでも定期的に活躍した。1949年には、ミュンヘンに新設されたバイエルン放送交響楽団の初代音楽監督となり、1960年まで務めた後、1961年から3年間は、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、その後は、バンベルク交響楽団の常任指揮者を務めた。何度か来日し、1982年には、バンベルク交響楽団を率いて来日、1986年には、アムステルダム・コンセルトヘボウを率いて最後の来日公演を行った。

 老齢の為、腰掛けてのブルックナー交響曲第7番を演奏したが、その素晴らしい演奏を今でも記憶しているヒトは多いだろう。その音楽性は、南ドイツの明るさとカソリックの厳しさを兼ね備えており、特にドイツ・オーストリアの伝統的な音楽、すなわち、モーツアルト、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス等の音楽に本領を発揮する。

 若年の時は、むしろ第1次大戦後の新興ドイツを象徴する新進指揮者として、当時の前衛音楽を積極的に取り上げ、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」の初演者として名高く、1967年には、作曲者の監修の元で、この曲のレコーディングを行っているが、生き生きとしたリズム感、明快な色彩性を持って、中世の学生の歌を見事に再現している名盤として名高い。

 1960年代以降のレポートりーは、徐々にハイドンやベートーヴェン等の伝統的なレパートリーに傾斜して行った。この時期のヨッフムの演奏は、当時のスター指揮者達、すなわち、カラヤンやベーム等に見られた派手さは見られず、地味で演奏効果を狙わず、作品の本質に真摯に迫る「渋い」タイプの指揮者であった。クレンペラー等の芸風に近いとも言われるが、南ドイツ人の明るさ、柔軟性も兼ね備えており、独特に味わいをもたらせてくれる点で異なっている。

 この様な演奏の特質は、モーツアルトやブルックナーに適していると言えよう。ブルックナーの交響曲は、ベルリンフィルとバイエルン放送交響楽団を指揮した1960年代後半の最初の全集、1970年代後半に録音されたドレスデン国立管弦楽団の全集の2つを完成させているが、どれも完成度が高い。ベルリンフィルとの演奏では、交響曲8番、9番の演奏が傑出している。いわゆるインテンポの朝比奈の様な演奏スタイルでは無く、例えば、アダージョ楽章に置いては、楽想に応じて、特に頂点の部分にかけてアッチェルランドをかけて行くのは、フルトヴェングラーに類似しているが、演奏効果を狙ったものではなくて、作品に内在している心情を表面化する際に自然に生じるものと考えられる。しかし、ベルリンフィルとの演奏は、同オーケストラの色調が余りにドイツ的でほの暗さを持っている為に、ヨッフムの持つ柔軟性、明るさが十分発揮できず、他のドイツの指揮者に比べてややスケールが小さいのではとの印象も抱かせた。ドレスデン国立管弦楽団との演奏は、自由自在に振る舞っていて、柔軟なテンポの変化にオーケストラが十分に対応し、巨大なブルックナーの交響世界を構築する事に成功した。更に、この音楽に含まれるカトリシズムを南ドイツ的な陰影を持って表現している事は注目に値しよう。

 協奏曲の伴奏指揮者としても、優れており、記憶に残るところでは、ウォルフガング・シュナイダーハンとのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、エミール・ギレリスとのブラームスのピアノ協奏曲等の名演がある。特に、ベートーヴェンでは、シュナイダーハンの音楽性とヨッフムの音楽性が見事に和合している。ギレリスとのブラームスは、第1番のオケだけの前奏の部分からピアノが最初の主題を弾く、導入部の演奏が気合いが入っており、凄まじく、「疾風怒濤」の音楽となっている。第2楽章の枯れた雰囲気も素晴らしかった。