「音楽と現代」シェーンベルク編

はじめに...

歳末の商店街を歩いていると実に色々な音が聞こえくる。

楽隊のクラリネット、クリスマスソング...CMソングゲームセンター の音楽、最初に近づいて来た楽隊が通り過ぎて行くに従って、騒音に紛れ て聞こえなくなった....

現代は、混沌とした音響の世界だ。この存在をもっとも早く認識したのは グスタフ・マーラー(1860ー1911年スイス・オーストリア切手図 鑑オーストリア編344を参照)で、彼の交響曲は、ウィーン古典派の枠 を離れ、それぞれの連続した要素を持つ声部が、独立して動く事が多くな り、時には離れた位置にヴァンダ(小楽隊)を配し、まったく異なった世 界が別々に存在するかの様に聞こえる「分裂感」を表現しようとした様に 思える。

統一した世界観を唄った様に見える交響曲第8番「千人の交響曲」や交響 曲第9番の断末魔の声を聞くと何か言いしれぬ現代の悲劇を感じる。

ユダヤ人の厳格な父親、常に虐待されている母親に溺愛されて育った彼は 分裂症に苦しみ、後には妻のアルマとの関係にも現れる。

カソリック改宗により救いを求めるが、その結果は...。 ユダヤ人への弾圧は彼の時代には一部で行われており、ゲットーも存在し たが、それでもナチスの台頭までには第一次世界大戦による欧州のブルジ ョア世界の破局と、悲劇と資本主義世界への反動による全体主義の台頭の 悲劇を経験する必要があった。

マーラーの晩年の時代には、既に次の時代の音楽に向けて着々と若い音楽 家が実力を蓄えつつあった。当時、貧乏学生であったシェーンベルク、ウ ェーベルン等新ウィーン学派への準備が始まりかけていた。

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(一言)現代史と音楽のテーマーをフィラテリーに活かそうと思えば相当 な困難がある事に気がつきます。既に座右の書と化している「切手が語る ナチスの諜略」(伊達仁郎編著)は素晴らしい本ですが、素材に使用され いる音楽関係の切手は、ワーグナーの楽劇をテーマにしたものやバイロイ ト祭を題材にした葉書等に限定されています。これから書いていくシェー ンベルクの切手がイスラエルから発行された事は喜ばしい事です。

特に先日亡くなった韓国の作曲家イサン・ユン氏やペンデレツキやヒンデ ミットやウェーベルン等の切手をどんどん発行して欲しいものです。ポピ ュラー音楽の分野ではウッドストック音楽祭等個々の音楽祭のアーティス トの切手を発行する国がある一方で、ドイツ、オーストリアでは20世紀 に活躍した音楽家の切手は数える程しかないのが現状です。だから、この テーマで切手展に出品可能なだけのコレクションを作るのは至難の技です。 今回を良い機会に題材になりうる収集マテリアルの掘り出しを試み、逐次 紹介出来ればと考えています。発見したマテリアルは画像化してインター ネットで紹介して行くつもりです。

音楽と現代その1

シェーンベルク(習作時代)

アルノルト・シェーンベルク(1874−1951)は、「音楽と現代」 を考える上で、忘れる事の出来ない作曲家です。代表的なユダヤ人音楽 家としてイスラエルから1995年に切手が発行されました。 シェーンベルクはウィーンでチェムリンスキーに師事し、間接的には晩年 のブラームスやドヴォルザークに学び、グスタフ・マーラー等の影響も相 当受けており、習作期には、後期ロマン派風の優れた作品を幾つも書いた し、のちにも、ブラームスのピアノ4重奏曲を管弦楽版にアレンジしたり している。

習作期の代表作は、「浄夜」でこの作品は、デーメルの詩集「女と世界」 Weib und Welt(1896年刊)におさめられているもので、身も知らぬ男に身を まかせて身ごもった女の罪の意識にあふれた告白と、男の力強いゆるし と浄化された二つの魂を歌った物語詩を題材に作曲された室内楽作品で、 後に管弦楽版に編曲された。

この後期ロマン派風の技法は後の大作「グレの歌」で大成する。 この曲は演奏時間は1時間半余り。編成は次の通り。

弦楽器 第1ヴァイオリン20、第2ヴァイオリン20、ヴィオラ16、

    チェロ16、コントラバス14

木管楽器ピッコロ4、フルート4、オーボエ3、イングリッシュホルン2

    クラリネットA管、B管3、BS管2、B管バスクラ2、ファゴ

    ット3、コントラファゴット2

  金管楽器ホルン10!、トランペット6、BS管バストラ1、アルトトロ

    ンボーン1、テナー・バストロンボーン4、BS管バストロンボ

    ーン1、コントラバストロンボーン1、チューバ1

打楽器 ティンパニ6 大型リュールトロンメール、シンバル、トライア

    ングル、グロッケンシュピール、大太鼓、小太鼓、タンバリン、

    木琴、ガラガラ、鉄の鎖、タムタム

その他 ハープ4チェレスタ

合唱 4声の男性合唱 3組、8声の混成合唱

独唱 テノール(ヴァルデマール)、ソプラノ(トーヴェ)、山鳩(メゾソ

   プラノ)、バス(農夫)、テノール(道化のクラウス)、語り手

合計156名と言う彼の作品では最大規模の作品だ。

中世デンマークのグレ城を題材にした作品で、城主ヴァルデマールは少女トー ヴェを溺愛するが、嫉妬した王妃がトーヴェを虐殺する。ヴァルデマールは 悲しみのあまり神をのろうが、死後も天罰により永遠にさまよう幽霊にされて しまう。 しかし、肉体を失ってもなおヴァルデマールを愛するトーヴェによって救済さ れる。

ワーグナーの「さまよえるオランダ人」の様に愛による救済をテーマとする、 ロマン主義的内容にどっぷり浸かった作品。

この作品は、「浄夜」完成後、歌曲の懸賞に応募しようとしてピアノ伴奏付き 歌曲として1899年に着手された。この歌曲を師の」チェムリンスキーに弾 いて聞かせるが、美しさと創意故に入選の見込みはないと言うのが共通の見解 で、歌曲を諦め、大規模な管弦楽と合唱、独唱作品の大作にする事を決心する。 この作品作曲の為に48段特製の楽譜用紙を注文した事は有名だ。

大作は1901年からオーケストレーションを開始したが、その間に交響詩 「ペリアスとメリザンド」や弦楽四重奏曲1〜2番、「管弦楽の為の5つの小 品」等後の12音技法に結び付く作品が次々に作曲され、「グレの歌」を追い こして行った。

作曲途中の「グレの歌」をR.シュトラウスに見せ援助を受けた彼はようやく 1911年に全曲を完成する事が出来た。初演は1913年で第1次大戦は目 前に迫っていた。長い作曲期間中に彼の作風が大きく変遷したので実際にこの 作品を第1〜3部と聴き進めて行くとその変化の様子を知る事が出来て興味深 い。

音楽と現代その2

シェーンベルク(12音技法完成まで)

シェーンベルクが12音技法に到達したのは、1923年に完成したピアノ曲 作品23の終曲とピアノ曲作品25の全曲にこの技法を適用し、1924年の 管弦楽曲作品26、26年の7重奏曲作品29、27年の弦楽四重奏曲第3番 作品30と発展させて行き、その頂点として「管弦楽のための変奏曲」作品3 1を完成する。作品は1926年にベルリンで着手され1928年9月20日 に完成した。楽器編成は4管編成。初演は、フルトヴェングラー指揮のベルリ ンフィルハーモニー。1928年12月2日に行われた初演の演奏会の妨害と 厳しい酷評は、のちの「弾圧」を予見するものであった。

現代音楽の先祖とも言えるこの曲は、のちに現代音楽の作曲家ノーノが「ダル ムシュタット・バイトラーゲ」と言う論文を発表しこの曲を分析している。 全体の構成は、序奏と主題、続いて9つの変奏、長大な終曲で成り立っている。 基礎音列は変ロ、変ヘ、変ト、変ホ、ヘ、イ、ニ、嬰ハ、ト、嬰ト、ロ、ハで、 変奏曲には変ロ、イ、ハ、ロ(BACH)のモティーフがトロンボーンによっ て現される。

1933年にはナチスの弾圧が始まり、シェーンベルクは芸術アカデミーを追 われてドイツから脱出し、パリ経由でニューヨークに亡命した。

音楽と現代その3

シェーンベルク(アメリカ亡命後の生活)

1938年4月16日、シェーンベルクは、コロンビア大学のダグラス・ムーア 教授に宛てて著書「作曲の基礎技法」の構想に関する手紙を送っている。

「作曲の基礎技法」は、シェーンベルクがUSC(南カリフォルニア大学)と、 UCLA(ロスアンジェルスのカリフォルニア州立大学)で分析と作曲法の単位 を取る学生に教えた事から生まれた。この本の執筆は1937年から1948年 まで断続的に続いた。彼が亡くなった時には、本文の大部分はすでに4回目の全 面的な改訂を終えていた。生前の執筆期間中、本文を例証する為に特別の譜例が 何百となく作られた。最終稿では、そのうちの多くの音楽作品から譜例の分析に 置き替えられ「和声の構造的機能」に移された。(作曲の基礎技法 音楽の友社 刊より)

アメリカに亡命後のシェーンベルクは、この「作曲の基礎技法に見られる様に大 学での教鞭を中心に生計を立てていた。彼の作風はアメリカでもそれ程理解され なかったようで、作曲家としての評価は控え目なものであったようだ。

作曲活動もベルリン時代の様に華々しいものではなかったようで、ブラームスの ピアノ四重奏曲ト短調作品25のオーケストラ版の編曲(1937年5〜9月) にかけて行っているが、63歳のシェーンベルクが何を考えて編曲を行ったのか 非常に興味がある所だ。

「まず第1に私はこの曲が好きであるということ。なぜかこの曲が演奏される 機会が少ないという事。つまり私は全部の楽器がきちんと聴こえると言うような 演奏を望みたい訳で、この願いを達成させる為にきちんと編曲を試みたのである。 編曲に際しては、ブラームスのスタイルを崩す事なく忠実に守り、仮にブラー ムスが今生きていたとして、彼自身が行ったであろうと想像される以上のことは しないようにした。」と述べている。シェーンベルクはその著書「音楽の様式と 思想」の中で、「革新主義者ブラームス」と言うタイトルのエッセーを書いてい るが、彼のブラームス感は私たちの常識である「保守主義者」ととはだいぶ異な るようだ。彼は、大学での講義の準備として1900年まで書かれたあらゆる作 品を分析をしなおしたようだが、従来の調声音楽の外の世界に旅したものとして 新しい視点で西洋音楽の構造を洗いなおして見たかったのかも知れない。

「作曲の基礎技法」の冒頭に彼は著書の目的として

と記している。19世紀のロマン主義を伝えた伝統的な欧州の音楽文化は2度の 世界大戦で滅び去ったが、それを全く伝統とは切り放されたアメリカの後輩に伝 える為には本当に「基礎技法」から出発しなければならなかったのだろう。

残念ながらアメリカで新ウィーン主義の流れを汲んだ作曲家は育たなかったが、 彼の後輩に当たるウェーベルンは後のブーレーズ等に影響を与え、現代音楽につ ながっている。

音楽と現代その4

シェーンベルク(晩年の生活)

シェーンベルクの12音技法以降の作品で音楽様式的に最後の変化を示すのは、 1946年から1951年の彼の最後の年の5年間だろう。 作品はすべて単一楽章となり無駄の無い極めて切り詰められた傾向となる。

次第にアメリカでも業績が認められるようになり、1947年には「米国芸術 協会」がシェーンベルクの業績を表彰して千ドルの賞金を与え、1949年彼 の75歳の誕生日にはロサンゼルスで祝賀演奏会が開かれた。

彼の故郷のウィーン市からも名誉市民の称号が送られた。

それでも経済的には不遇で1944年にはカリフォルニア大学の音楽教授の職 を定年退職したが、8年間も勤めたのに恩給はほんの僅かで、収入の道も絶た れた。喘息発作も始まり健康も衰えていった。

アメリカで晩年の余生を送っていたシェーンベルクの身辺を揺るがすような事件 が起こったと言うか伝えられた。ナチスのユダヤ人虐殺が直接、彼の仲間のユダ ヤ人音楽家から伝えられたのである。 虐殺の犠牲者の中には彼の親戚も含まれていた。

1942年に彼と同様にヨーロッパを追われて来た作曲の師であるチェムリンス キーが異国の地アメリカで寂しく生涯を閉じた年に、彼は激しいヒットラーへの 抗議の意味を込めて「ナポレオンオード」を作曲している。

「ワルソーの生き残り」(作品46)は1947年に作曲された。彼の作品の理解 者であるレイボヴィッツによれば、「ワルソーのゲットーから実際に生き延びた 一人がシェーンベルクを訪れ、その模様を話したことに基づいてこの作品がかかれ た。」と言う。

語り手、男性合唱、管弦楽の構成を持つこの作品は、この曲はガス室に送り込まれ る人の語りという形をとっており、最後にユダヤ人達が突如として「聞けユダヤ人 の民よ」を一斉に歌いだす。

また、晩年にはヘブライ語をテキストにした無伴奏混声合唱曲「深き淵より」詩編 130番が作曲されイスラエル共和国に献呈された。 晩年のこれらの作品は、初期の「グレの歌」を思い出させるような具体的なテーマ を題材にしているが、これを晩年の作曲家にはもはや若い頃のような希望に満ちた 輝きは消えていたようだ。

    −− シェーンベルクの稿終わり −−


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