「音楽と現代」ストラヴィンスキー編

 イゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)は今世紀を代表する作曲家の一人であるが、やはり第2次世界大戦の影響でヨーロッパからアメリカ合衆国に移住した音楽家の一人でもある。アメリカ合衆国では、かれの切手も発行されている位で合衆国での地位も相当高いものであった事が伺える。1960年以降の高度成長時代まで生き延びた彼は日本にも来日しており、武満徹等日本を代表する現代音楽の作曲への影響も相当与えた。

 

 1913年5月29日に代表作「春の祭典」がピエール・モントゥーによって初演され、スキャンダルを起こした様に彼の作品は前衛的なものであったが、第2次世界大戦の戦火を逃れアメリカ合衆国に逃れた以降に作曲された、「交響曲ハ調」「3楽章の交響曲」と作風は「新古典主義」に傾いていった。虚無的なまでの形式感と背後の不協和和音の不安感はなにかを暗示しているのようだ。

 1939年はストラヴィンスキーにとっては最悪の年だった。当時彼は57歳であったが、3月2日に妻カテリンが57歳で亡くなり、「交響曲ハ調」の第2楽章の構想はこの頃練られた。8月10日には母親が85歳で死去した。この事が亡命を決心させたようで、9月30日には戦時下のヨーロッパを離れてニューヨークに到着した。

 10月にはハーヴァート大学での講義を開始し、講義録は1942年に「音楽の詩学」と言う題で出版された。当時の日本の都新聞には「巴里から大分世界的なな名家達が合衆国へ本拠を移したが、例の「火の鳥」で売り出したイゴール・ストラヴィンスキーも今楽季は弗(ドル)の国で指揮者、洋琴家、作曲家の3重の資格で三面六轡の観音の様な活躍を始めた」と紹介されている。


1982年11月8日モナコ発行


1980−1985年 アメリカ合衆国Great Americansシリーズ


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