1791年の最後の夏も終わり、最後の器楽曲であるクラリネット協奏曲K622を友人の
シュタードラーの為に書いたのが、その年の10月で、11月20日以降、モーツアルトは、病床についたままで、もはや快復の望みは全くなかった。12月4日の午後には、友人を招いてレクイエムの完成部分を試唱する。ラクリモサの部分に来るとモーツアルトは泣き崩れて、弟子のジュスマイヤーに完成方法について指示を与えたと言う。(背景の楽譜は、ラクリモサの絶筆の部分。
「罪ある人、裁きを受けるために塵より蘇る日、それは涙の日....」
「魔笛」をもう一度みたいなどと駄々を弟子たちにこねる内に昏睡状態となり1791年12月5日午前0時55分享年35歳で息を引き取った。
モーツアルトの葬送はあまりにも無惨でなぐさめの無いものだった。葬儀は、一番金がかからない3等葬儀だった。遺骸は共同の墓穴に埋葬され、十字架も立てられなかった。
レクイエムの中から「ラクリモサ」の楽譜 セントヴィンセント・グラナディンバキア