ブラームスの生涯 没後100周年記念




生い立ち



1833年の5月7日、ヨハネス・ブラームスは、父ヨハン・ヤーコブ(1806-72)、母ヨハンナ・ヘンリーカ・クリスチアーネ(1789-1865)の間に生まれた。生家は、ハンブルクのシュペック通り60番地で、貧民窟の貧しいアパートの1部屋だった。



西ドイツ観光切手1973年発行

ハンブルク北ドイツにある港町でドイツ最大の国際貿易港で中世から栄えた。北海に面した陰鬱な気候であるが、人々の人情は地味で暖かい。地味で内面的なロマンに満ちたブラームスの作品の源流はここからやって来たのだろうか。                                            

青年時代



幼少の頃からピアノの才能を発揮したブラームスは、エドアルト・マルクスゼン(1806-87)の指導の元にピアノの名手として世に出た。貧乏暮らしで飲み屋のアルバイト等をしていた。1847年には、ハンブルクでの演奏会は大成功、ピアニストとしての道を歩みだした。彼のピアノ協奏曲第1番(1854-58)、第2番(1878-81)の演奏は、地味ではあるが管弦楽と互角に張り合える技量と体力が要求される。




若きピアノヴィルトゥオーソ時代 生誕150年 西ドイツ1983年発行


18歳の時にはスケルツォ変ホ長調、翌年のソナタ嬰ヘ短調等、初期の作品はこの時代に産まれた。ハンブルクを1853年4月に友人ヨアヒムと共に後にし、ハノーファ、ヴァイマールと旅に出た。





ブラームスの友人 ヨアヒム(1831-1907)は19世紀を代表するヴァイオリニストであった。
ブラームスとは晩年まで交流を持ち、「バイオリン協奏曲」(1878)、「バイオリンとチェロの為の協奏曲」(1887)は、
ヨアヒムの為に書かれた。


ブラームスとシューマン夫妻


1853年9月にブラームスはシューマン夫妻の家を訪問した。1850年初めてシューマン夫妻の演奏会を聴いてからと言うものの、心はシューマンの音楽から離れた事がなかった。作品もシューマンのロマン的な表現の影響を受ける事になる。シューマンは、自らが創刊した「新音楽時報」(1853年10月28日付け)でブラームスを「新しい道」の作曲家として楽壇に紹介した。

シューマン没後100年記念 東ドイツ1960年発行





西ドイツ 1986年発行

クララ・シューマン(1819-1896) は、シューマンが投身自殺後も演奏会を開き、子供達を育てた。ブラームスは、クララに愛を寄せていたが生涯告白される事はなかった。交響曲第1番のアルペンホルンの旋律はクララに捧げられた。


ベートーヴェンの後継者としての地位を確立した第1交響曲





第1交響曲の最終楽章の有名な愛の旋律
 生誕150年記念 東ドイツ発行

この演奏の導入部は、有名だが76年に書き加えられた。


第1交響曲の構想は、1857年にさかのぼる。最初のピアノスケッチも書き上げられ、クララと演奏したりしたが、一部は、ピアノ協奏曲第1番ニ短調やや、ドイツレクイエムに転用された。完成に向けて本格的に取り組み始めたのは、1876年の夏からで、「ベートーヴェンと言う巨人が背後から行進して来るのを聞くと、とても交響曲を書く気にならない。」かねがね話していたようで、ベートーヴェンの交響曲に匹敵する作品を完成するには、着想から20年近くも要したのだった。初演は、1876年11月4日にオットー・デッソフの指揮でカールスルーエ宮廷管弦楽団によって行われた。「暗黒から光明」への曲の展開はまさにベートーヴェンの第5交響曲「運命」を引き継ぐものであり、終楽章のテーマはベートーヴェンの第9のテーマに酷似している。表面的な模倣では、無く精神そのものを引き継いだもので、その意味では、ブラームスはベートーヴェンに最も近い作曲家となった。19世紀の大指揮者ハンス・フォン・ビューローは、この曲をベートーヴェンの「第10交響曲」と評した。


生誕200年記念 メキシオ 1970年

このベートーヴェン第9交響曲の合唱テーマを受け継ぐモチーフが第1交響曲には使用されている。まさに記念碑的な作品だ。



晩年のブラームス




 生誕150年記念 チェコスロバキア 1983年


晩年のブラームスの肖像画を見ると、若いときの美青年の面影も無い。1885年に完成された第4交響曲は、中世の教会音楽の手法を第2楽章に取り入れたり、最終楽章にバロック音楽の変奏曲シャコンヌの手法で書かれている。用いられている主題は、どれも伝統的なもので厳格な手法で展開される。ハンス・フォン・ビューローの指揮で初演された。彼に対峙するワーグナー陣営は、その創造性の欠如を指摘して非難した。しかし、非常に限定された音型を自由自在に変化させて行く作風は、のちのウェーベルン等の新ウィーン楽派の先駆とも言えるものだ。クララ・シューマンへの愛を秘めたまま、ひたすら古いスタイルの音楽を追い求めていった。最後の管弦楽作品は、1887年に完成されたバイオリンとチェロの為の協奏曲であり、彼の第5交響曲と言えるものだ。この他に晩年の作品として有名なものは、「クラリネット5重曲」、「クラリネット3重奏曲」でどれも寂しさと暖かさがあふれている。1896年にライバルのブルックナーが死去し、孤独感を味わう。「4つの厳粛な歌」「オルガンの為の11のコラールと前奏曲」が最後の作品となり、1897年4月3日の朝、息を引き取り ウィーン中央墓地に埋葬された。

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