「音楽と現代」バルトーク編

 バルトークも第2次世界大戦の影響を直接受けた作曲家だ。没年が1945年と言うのも如何にも彼の生きた時代を象徴している。

既に、シェーンベルクは1936年頃には、アメリカに亡命しており、亡命先で最後の弦楽四重奏曲を書いていた。バルトークの作品への委嘱もアメリカの財団から行われる事が多くなった。この時期、ヨーロッパで「弦楽器、打楽器とチェレスタの為の音楽」を作曲した。

 バルトークの弦楽四重奏曲全6曲は絶対音楽作曲家としての最高傑作であると同時に、第6番は戦乱を避けて亡命する前年の1939年に作曲され、彼の「祖国別離の唄」となった。

 1940年10月29日、10日間の航海ののちに、バルトーク夫妻はニューヨーク埠頭に着いた。彼にとってはアメリカは永住の地ではなく、一時の亡命のつもりだったらしいが、このまま故国ハンガリーへ帰ることもなく、5年後にこの地で客死する運命にあったとは...。

 1942年の春には命取りとなる白血病の最初の兆候が現れた。1939年から1943年の春まで新作を一曲も書いていなかった彼は、ボストン交響楽団の音楽監督であったセルゲイ・クーセヴィツキーに作曲を依頼され1,000ドルの作曲料を前金でおいていった。他のストラヴィンスキー等の亡命音楽家とは違い、この地で冷遇され貧乏と病魔に苦しめられていた作曲家に取って本当に救いとなった。また、アメリカ作曲家・音楽執筆者・音楽出版協会は、バルトークの静養先での滞在費の援助を行った。やっと生活が安心出来る様になったバルトークは最後のレクイエムとでも言える「管弦楽の為の協奏曲」を55日を費やして1943年10月8日に完成した。アメリカでの唯一の完成作品となった。


バルトーク(1881-1945年) スロバキア 死去50年 1995年4月20日発行


バルトーク表題音楽の代表作「中国の不思議な作品」の舞台風景

この作品以降バルトークの作風は絶対音楽に向いて行く

モンゴル バルトーク生誕100年 1981年11月発行 

モンゴルとバルトークは関係ないと思われるかも知れないが、1901年のリスト生誕90年の音楽祭で、リストの「ロ短調ソナタ」を弾き、ラプソディー第1番をリストに捧げてから、自分の顔を捜す方向に向いて行った。つまり、東欧人としての自分のアイデンティティをハンガリー民族の血に探し求め、遥かユーラシア大陸のかなたのアジアにまでつながる。民謡の取材に録音機をもって各地をめぐり、民族的な素材を活かして独自の表題音楽を書いた。


晩年のバルトークの肖像と

ハンガリー バルトーク生誕100年 1981年3月発行)


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