魂を貪るもの
其の八 蠢く闇
5.紛い物

 『ヴァルハラ』の総帥室に、ヘルセフィアスがちとせたちと交戦を始めようとしている光景が映し出されている。
 総帥室は世界樹の触手が張り巡らされている影響で、天井や壁の所々が崩れ落ちていた。
 すでに廃墟となったこの部屋に動いている者は、ただ一人。
 ミリア・レインバック。
 モニターに映し出されたシギュン・グラムの姿へ、ミリアはチラリと目をやった。
 シギュンは、ヘルセフィアスに操られた世界樹によって貫かれた背中と腹部から大量に出血して倒れていたが、胸が微かに上下している。
 ――死んではいない。
 それを見て、ミリアの眉が微かに跳ね上がった。
 夢魔セイレーンたるミリア・レインバックにとって、人間の多くは、下僕か、食事である精気の製造装置だった。
 時たま、興味を引かれるような人間もいるが、それはミリアから見て有能といえる人間だけだ。
 例えば、この『ヴァルハラ』のコンピュータ室の主任の女性。
 彼女は優秀に仕事をこなす部下の一人だった。
 命令に素直に従うだけでなく、命令の先にある情報まで理解している。
 彼女のように仕事のできる人間は、ミリアの好むところだった。
 そして、意外なことにミリアは、ただひたすら媚びるだけの人間は嫌いなのだ。
 媚びるしか能のない人間は、彼女の遊び道具となって死ぬ運命になる。
 コンピュータ管制室の主任の女性は、その点で、合格だった。
 有能で従順だが、決して考えることを放棄しない。
 ミリアの頭が沸騰している時に、彼女を冷ますことができるような、冷静な判断を根回しできるようになれば、完璧な補佐となるだろう。
 その主任も今はもう退去命令に従って『ヴァルハラ』を離れている。
 そういったミリアが興味を持った人間の中でも、もっとも彼女に影響を与えたものが、シギュン・グラムだっただろう。
 シギュンはミリアも及ばぬほどに気高く、美しく、強く、そして惨酷だった。
 そして、彼女は意見の対立があっても、間違いだと確信しなければ決して退くことをしない。
 誤った意見だったと気づけば、ミリアの案に堂々と従う。
 そうやって、ミリアは秘書として、シギュンは筆頭幹部として、ランディ・ウェルザーズの下で『ヴィーグリーズ』を率いて来たのだ。
 ミリア・レインバックは、モニターの前で、氷の入れられたオールド・ファッションド・グラスへボトルを傾け、北欧の蒸留酒(アクアビット)を注いでいた。
 淫靡でありながら知的でもある美しい顔には、微笑みを浮かべている。
 その傍らでは、ランディ・ウェルザーズが、ソファに腰掛けたまま、全身を世界樹に貫かれている。
 画面のアングルが変わり、シギュン・グラムの姿が消え、ちとせ、悠樹、ヘルセフィアスが映し出される。
「バカめ」
 ミリア・レインバックの唇が微笑みをたたえたまま、宛先不明の罵詈を紡いだ。
 それは、シギュン・グラムが気を失う前に呟いたのと同じ言葉。
「でも、それでよろしいですわ。わたくしの思うがままですもの」
 透明なグラスの中で溶けた氷が、ことりと音を立てる。
 蒸留酒(アクアビット)をオン・ザ・ロックにしたグラスは、確かに二つあった。

「虫が好かない?」
 ヘルセフィアス・ニーブルヘイムが、不思議な生き物でも見るような視線をちとせに浴びせる。
「それだけの理由で死に急ぐと言うのですか」
 ヘルセフィアスが不遜な笑みを浮かべると、それに呼応したように世界樹の触手が揺れた。
「大人しくしていれば、少なくともシギュン・グラムよりは長生きできるというのに」
「悪いけど、ちとせは、あなたのそういうところが気に入らないんだと思いますよ」
 悠樹が静かに言った。
 サラサラの前髪が風で流れる。
「気に入らなくて結構。勝つのは私であり、対峙した者は滅ぶ。それだけのことです」
「誰が滅ぶのよ!」
「あなたたちが滅ぶのです」
 顔にも血の気がだいぶ戻ってきているとは言え、シギュンとの戦いで消耗した体力は完全には回復していない。
 世界蛇、シギュン・グラム、そして、ヘルセフィアスと連戦続きでもある。
 だが、ちとせは、目の前の男に負ける気がしなかった。
「残念だけど、滅ぶのは、そっちだね!」
 神扇に霊気を収束して、ヘルセフィアスに向かって解き放った。
 しかし、その一撃がヘルセフィアスに届く前に、世界樹の触手から凄まじい電撃が迸り、霊気球を弾き飛ばしてしまった。
 のみならず、取り囲むように張り巡らされていた世界樹からも電撃弾が撒き散らされ、ちとせと悠樹を直撃した。
「きゃあああああっ!」
「うああああっ!」
 二人は感電して、地面に叩きつけられた。
「あぐっ、痺れた……よ! 悠樹。雷撃も使えるでしょっ? 何とかしてよ。世界蛇を倒した時みたいに」
「無理」
「あうっ、即答」
「ぼくの扱える電撃は風の力のおまけみたいなものだものだし、さすがに相手の電撃を操るなんてできないよ」
「わかってるよ。言ってみただけ」
 よろめきながらも痺れが残る身体で立ち上がるちとせと悠樹。
 軽口を叩き合っているが、ダメージは洒落にならないほど大きい。
 ちとせに女神の衣がなければ、そして悠樹に風の鎧がなければ、黒焦げになっていてもおかしくはない威力だった。
 そう、ヘルセフィアス・ニーブルヘイムの放つ攻撃の威力自体は高い。
 だが、恐ろしくはなかった。
 シギュン・グラムと対した時ほどの恐怖を、ヘルセフィアスには感じない。
「電撃の味は如何でしたか? もはや『世界』の力は私の物なのです。『世界』に勝てるものなど存在しない」
「くだらない。あなたに比べれば、シギュン・グラムの方が遥かにマシね。彼女は言っていたわ。世界制覇をくだらないってね」
 ちとせは、嘲るように笑うヘルセフィアスを一蹴した。
「あなた自身が『世界』? 強大な力を手に入れることを目的としているだけのあなたが? 何の冗談?」
「冗談だと?」
「力をもって『世界』を名乗ってもたかが知れてる。皆、あなたに恐れを抱き、そして、あなたは皆に恐れを抱く。信頼も友情も愛もない世界。力だけの世界。そんな世界を制して何になるの?」
 ちとせの口調は彼女らしからぬ淡々としたものだった。
 それだけに、空気に響いた。
 声の刃。
 それは何よりも鋭い。
 思ったことを思った通りに口に出せる。
 もしかしたら、それこそが、神扇や神降ろしなど比較にならぬほどのちとせのもっとも恐ろしい力なのかもしれなかった。
「小娘が」
 ヘルセフィアスは眉を跳ね上げた。
「小生意気な台詞を吐いたところで、おまえたちに私に勝つ術などないのだよ」
「やってみなけりゃ、わからないわよ!」
 ちとせと悠樹が左右に別れ、ヘルセフィアスの両側から跳んだ。
 両面からの挟撃。
「愚かな」
 ヘルセフィアスの両目が血のような真紅に光り輝く。
 同時に周囲を眩い閃光が包み込んだ。

「こ、これは……!?」
 避難所の一つに指定されている猫ヶ崎高校で、市民の保護に努めていた佐野倉マリアは、突然の地震に尻餅をついてしまった。
 相棒の麻宮刑事も地面に膝をついており、周りの他の人間も立ってはいられずに地面に手をついて倒れないように必至になっている。
 マリアはその中にただ一人だけ、しっかりと立っている少女を見つけた。
 傍らには黒猫が、これもまた驚くべきことに、この自然現象に微塵も取り乱すことなく付き添っている。
「あの娘は……」
 猫ヶ崎高校に入り込もうとする魔物を、先頭切って撃退していた少女だ。
 マリアも相棒の麻宮刑事とともに、彼女と連携を取って、化生のものを五匹屠っていた。
 少女はその倍以上を一人で、撃退している。
 名前は音無スーといったはずだ。
「音無さん!」
 スーに向かって声を投げた。
 その声にスーがマリアに気づいて駆け寄って来る。
 揺れなどまったく感じさせない走りだった。
「大丈夫?」
 スーがマリアに手を貸す。
「ええ。でも、この地震は一体?」
「大地が死ぬわ」
 スーが、マリアの手を握りながら呟いた。
「えっ?」
「見て」
 スーが視線を送る先を見て、マリアは彼女が言わんとしていることを理解した。
 森が枯れ、山が崩れ、草原は砂漠へと変わって行く。
 猫ヶ崎湾や、爪研川でも水が干上がるなりの現象が起きているに違いない。
 大地に突き刺さった世界樹の触手が、猫ヶ崎を構成する力を吸い上げているのだ。
 そのすべての力が『ヴァルハラ』の世界樹に流れ込んで行く。

 世界樹に収束した力の奔流は、そのままヘルセフィアスのものとなった。
 全身から稲妻が迸り、ヘルセフィアスの全身が邪悪な紅に輝く。
「さあ、塵に変えてあげましょう!」
 ヘルセフィアスの全身から轟音を伴って強大な邪悪な妖気が螺旋状に放射される。
 それは、空中から跳びかかろうとしていたちとせと悠樹を直撃した。
「きゃああああっ!」
「うあああああっ!」
 先程の電撃とは比べものにならないほどの凄まじいエネルギーの奔流が、二人を飲み込んだ。
 そして、大爆発。
 爆風で『ヴァルハラ』の階層の半分が吹き飛び、世界樹自身も大きく震えた。
 収束した力を放った反動のせいか、ヘルセフィアスを守っていた世界樹の触手も一瞬だけ脱力するが、すぐさま大地から新たな力を吸い上げ始める。
 再び、充填されて来る力にヘルセフィアスは満足そうに頷く。
 爆発による煙が晴れると、抉られた床に、ちとせと悠樹が倒れていた。
「くははっ、これが圧倒的な力の差というものです!」
 ちとせたちを見下ろして哄笑するヘルセフィアス。
「うぅっ……」
 ちとせは全身に走る痛みに呻き声を上げる。
 全身がバラバラになったような痛みだ。
「ちとせ、大丈夫?」
 隣に倒れている悠樹が、地面に這いつくばったまま、声をかけてきた。
「何とかね」
 不思議なことに、ちとせにはまだ余力があった。
 意識はしっかりしているし、瀕死にまでは至っていない。
「力が贋作だからだね」
 ちとせはヘルセフィアスの圧倒的な力に追い詰められているにも関わらず、死を意識することがなかった。
 その理由は、ヘルセフィアスの力が偽物だからだと、ちとせは思った。
 そう、偽物の力だ。
 世界樹は確かに大地から莫大な力を吸い上げている。
 だが、ちとせの吸い込まれるように大きな瞳は、その力がヘルセフィアスには流れ込んでいないのを見抜いていた。
 ヘルセフィアス・ニーブルヘイムという入れ物に注ぎ込まれているだけで、真の意味でヘルセフィアスという男の力にはなっていないのだ。
 大地から吸い上げられた力の大部分は、世界樹自体が取り込むそばから消費していってしまっているようにも見える。
 所詮、ヘルセフィアスは世界樹のおこぼれを漁っているだけだ。
 世界樹を制御できているなどというのは、まやかしだ。
 微々たる力を掠めとっているに過ぎない。
 前髪を微かに靡かせながら、悠樹が耳打ちして来た。
「攻撃を放った後だ」
 自然の流れに逆らった莫大な力を統べるための歪みが生んだ不自然な流れ。
 それを悠樹の風の流れは見抜いていた。
「今の攻撃の後、世界樹の触手が一瞬だけ脱力した」
「ホント?」
「きっと、収束したエネルギーを放った後の統制をすることができないんだ」
 悠樹は自信ありげだった。
「紛い物の誤算、もしくは付け焼刃のボロって感じ?」
「攻撃を放った後の一瞬の無防備状態が生まれる。そこを狙おう」
 冷静で慎重な彼がこれほどに断定的に言い切ることはほとんど無い。
 連戦によって知覚が飛躍的に上昇して、潜在的な力が前面に押し出されているように、ちとせには感じられていた。
 そして、その力の上昇を自分自身にも感じ取れている。
 神扇が、しっくりと馴染む。
 自分の心に重なっている女神が神降ろしの契約を結んだ時よりも、遥かに自身に溶け込んでいるのが実感としてある。
 女神の中で輝きを放つ陽光にも似た力が、全身を駆け巡っている。
 ちとせは全身に走る痛みを押さえつけ、よろめきながらも起き上がった。


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