魂を貪るもの
其の五 流転
4.操り人形

 機密性を重視したために窓一つない『ナグルファル』の廊下を歩いていたシギュン・グラムの眉が微かに跳ね上がった。
 私室でくつろいでいた彼女のもとに、ランディ・ウェルザーズの召集命令をミリア・レインバックから伝えられたのは、ちょうどシルビア・スカジィルの姿が軟禁されている部屋から消えているとの報告を受け取った直後のことだった。
 次いで、ラーン・エギルセルの部屋のカメラが不調になっているとの報告が手許に寄せられた。
 シギュン・グラムは、ミリアにその事態を告げ、自らラーンの部屋へと赴いたところだった。
 ラーンの部屋から異様な雰囲気が漏れている。
 明らか内部で何かが起こっている。
 扉を開くと、脳を痺れさせるような濃厚過ぎる甘い香りが溢れ出てきた。
 シギュンの何も映さない狂眼に、魔手に捕らわれているラーン・エギルセルの姿が反射される。
 ラーンの全身は汗でぐっしょりと濡れており、青い長髪が額や首筋に張りつき、年齢以上の妖艶さを彼女に与えていた。
 さらに着ている衣服は散々に乱れ、全裸であるよりも背徳的な色香を醸し出している。
 意識は半ば混濁しているようで、眼は虚ろで焦点が定まっていない。
 半開きの唇の端から、朱色の線と銀色の雫が滴っていた。
 その半失神状態のラーンの太腿に跨り、悦楽の刺激を求めるように自らの腰を擦りつけている少女がいた。
 シルビア・スカジィルだった。
 光の灯っていない瞳でラーンを見つめながら、その首筋を淫靡な舌遣いで舐め上げている。
 快楽を求めるように腰を揺らしながら、ラーンの身体へ貪るように両手を這わせている。
 そして、もう一人。
 二人の正面に立ち、二人を無感情に見つめている黒髪の女性。
 すらりとした長身とその顔の造形にシギュンは見覚えがあった。
「シンマラ」
 その呟きに黒髪の女性が振り返るが、シギュンはすぐにその女性が彼女の知るシンマラではないことを確信した。
「いや、違うな」
 本物のシンマラに弟子を弄る趣味はないだろうことぐらいシギュンも知っている。
 何より、目の前の女はシンマラとまるで瞳が違う。
 いや、人間の瞳をしていない。
 何の感情もない黄金の瞳。
 人間の貌をしていない。
 酷く青白い整っただけの顔。
 姿形は人間だが、生気がなかった。
 人形が動いているだけのように見える。
 しかし、それは人形などではない。
 生気は朧だが、禍々しい妖気と重圧的な存在感が周囲へと自己主張している。
「運命神の末妹スクルドが具現化したとの報告はあったが」
 シギュンの言葉に、『シンマラ』の双眸が放つ妖しい金色の光を強める。
「我は"運命"なり。我は『レーヴァテイン』を欲したり」
 シギュンは冷やかに輝く前髪を指で払った。
 紺碧の色をしながら何の色も帯びていない瞳が、運命神の黄金眼を射抜き返した。
「その二人を餌にするつもりか」
「その通りだよ、"氷の魔狼"」
 かつて『ヴィーグリーズ』に所属していた黒髪の研究者の顔をした運命神が頷く。
 その声にはまるで感情がないにも関わらず、妖しく艶やかな響きを持っていた。
「それが、運命ぞ」
「シンマラ、貴様の弟子たちは本当に面倒をかけてくれるな」
 シギュンが目の前の偽者ではなく、本物のシンマラ――豊玉真冬――へと悪態を吐いた。
 "氷の魔狼"の右腕の義手から研ぎ澄まされた冷気が溢れ出し、運命神の黒髪が後ろへとなびく。
「シ、シギュン……さま……?」
 極寒の冷気に触れて、シルビアに弄られているラーンが微かに反応した。
 彼女の目にはまだ光が残っている。
「ラーンには理性が残っているか」
「運命に逆らうことはできない。すぐに消え失せる」
「……このまま見過ごすと思うか?」
「見過ごすも運命、見過ごさぬも運命」
 無表情のまま、『シンマラ』が無感情に嘲笑う。
 シギュンも空っぽの狂眼で運命神を嘲笑い返した。
「貴様の言葉も、貴様の用意した選択肢の結果も、どうでも良いのだよ。私にとって貴様など何の価値もないのだ」
 周囲の空間の温度が急激に下がっていく。
 凍った空気が割れ、氷点下の冷風が部屋の中を駆け巡る。
 シギュンの強烈な闘気を表す鋭い冷気の風に晒されながらも『シンマラ』は動かない。
 その一切の無表情は崩れない。
 代わりに動いたのは、運命神の手に落ちたシルビア・スカジィルだった。
 慰み者にしていた恋人を手放し、鮮やかな真紅のツインテールを揺らして、雪の伴わない吹雪の中を疾走する。
 愛剣フランベルジュの凶刃がシギュンの喉を狙って突き出される。
 この伏兵に対するシギュンの反応は冷静だった。
 義手でフランベルジュの流れを横に反らし、そして左拳を返す。
 頬を打たれて揺らめいたシルビアの腹に蹴りを突き刺し、体勢を崩す。
 だが、シギュンがさらに追撃を加えようとしたところで、シルビアが軽やかに舞った。
 スカートをひらめかせ、空中で下から上へ扇を描くように蹴りを放つ。
 シギュンは咄嗟に身を退いたが鋭い蹴りが掠め、髪の毛が数本空中を舞った。
 シルビアの動きはそれで止まらない。
 空中でさらに身を翻す。
 いつの間にか、その左の手のひらが青白い雷光を帯びていた。
 シギュンの視界が落雷の如き電撃によって閉ざされる。
「……!」
 電撃を浴びたシギュンの一瞬意識が焼けつき、わずかによろめく。
 シルビアは着地と同時に怒涛のラッシュを仕掛けてきた。
 その卓越した剣捌きは操り人形になっているとはいえ、さすがのものだった。
 直撃こそないもののシギュンのストライプスーツの其処彼処をフランベルジュが掠め、生地を切り裂く。
 しかし、"氷の魔狼"は動じずに空っぽの狂眼でシルビアの動きを追う。
 そして、神速の剣が攻め疲れた一瞬を見切り、義手でシルビアを打ち払った。
 まともに裏拳を顔面に食らった赤い髪の少女人形は、床で弾みながら『シンマラ』の足下まで吹き飛ばされる。
 だが、『シンマラ』は眉一つ動かさず、シルビアに目もやらない。
 シルビアも唇から血を流しながらも何事もなかったかのように起き上がり、パンッ、パンッとゴシックドレスのスカートに付いた埃を払う。
 一連の動作に生気のない不気味な光景だった。
「お、お嬢……」
 辛そうな表情で床に這いつくばっているラーンが、シルビアに弱弱しく声をかける。
 恋人の感情の込められていない非情の弄りと拷問のような暴力を受けながらも運命神の精神支配に抵抗し、自我を何とか保つことはできているものの、精神と肉体の消耗は著しかった。
「目を覚まして……」
 だが、シルビアからは何の反応もない。
 意志のない瞳で真正面を無表情に見つめている。
 代わりに『シンマラ』が、ラーンの青い髪を鷲掴みにして無理矢理に膝立ちにさせ、無情の言葉を浴せた。
「無駄だ。赤き髪の少女は思慕により支配されている。それは汝とて同じこと」
 ラーンにもそれは解かっている。
 自分では愛しいシルビアを救えなかった。
 ――もしお嬢を救える人間がいるとしたら、その答えは決まっている。
「すれ違った心は容易くは戻らぬぞ」
 答えを先回りするように『シンマラ』が残酷にラーンの耳に囁く。
 ラーンが呻いて目を伏せ、項垂れる。
 同時にシルビアが再びシギュンへと疾駆した。
 横薙ぎを放つが、シギュン・グラムは紙一重でそれを避け、シルビアの腹に膝蹴りを打ち込む。
「かふっ!」
 体重の軽いシルビアは衝撃で空中に押し上げられ、その背へと肘打ちが叩きつけられる。
 這いつくばらせられるが床に手を突き、跳び上がるようにしてシギュンの顎をブーツで蹴り上げた。
「ッ!」
 シギュンの唇からも血の霧が飛び散る。
 起き上がったシルビアの後ろ回し蹴りがシギュンの腹を狙う。
 だが、その蹴脚は軽がると受け止められた。
「返すぞ、貴様の人形」
 シギュンはそう言うやシルビアを『シンマラ』へと向かって投げ飛ばした。
 人間魚雷となったシルビアが『シンマラ』とラーンを巻き込んで部屋の奥まで転がっていき、壁に激突した。
 『シンマラ』の手から開放されたラーンが荒い息を吐きながら、顔を上げる。
 その後ろでは、『シンマラ』とシルビアが不恰好に絡み合って倒れており、表情一つ変えないままで起き上がろうともがいている。
 シギュン・グラムが唇から滴る血を拭って、ゆっくりと三人へと近づいていく。
 彼女の月色の髪は、透き通った冷気の中で静かに輝いている。
 "氷の魔狼"の美貌が、それを見上げるラーンに運命神の無表情よりも寒気を感じさせた。
 彼女の大切な恋人は今、運命神に操られているとはいえ、この恐ろしい美貌を持った"氷の魔狼"と刃を交えているのだ。
 ラーンは怯えた。
「シ、シギュンさま」
「今のおまえは戦力にならん。そこで寝ていろ」
 ラーンは力なく首を横に振った。
「お嬢を……お嬢を……」
 ――助けてください。
 シギュン・グラムにそう言っても何の意味もなさないことは、ラーンも理解している。
 だから、懇願するように言った。
「殺さないでください」
 ちらりとラーンに絶対零度の視線を向けただけで、シギュンは首を縦にも横にも振らなかった。
 ラーンは絶望を覚えた。
 運命神からシルビアを救えないでいる自分に。
 そして、"氷の魔狼"からもシルビアを守れないでいる自分に。
 ――お嬢が殺されてしまうかもしれないのに、私には何もできない。
 床で無力感に身を震わせるラーンの後ろで、黒髪の運命神と赤い髪の少女が立ち上がる。
 『シンマラ』がコキッコキッと首を鳴らし、まるで焦点を合わせるようにシギュンを無感情に睥睨する。
「"氷の魔狼"よ、青髪の少女もすでに我の人形ぞ」
「私には貴様の言葉など無価値だと言ったぞ」
「それはどうかな」
 『シンマラの』の黄金の瞳の虹彩が針のように細まる。
 シギュン・グラムが構えた。
 だが、『シンマラ』は動かない。
 シルビアも動かなかった。
 異変が起きたのは、運命神と"氷の魔狼"の間の床に転がっているラーン・エギルセルだった。
 その姿が、黄金の光に包まれ、そして、忽然と消えた。
「ラーン・エギルセルの心には十分に絶望を植えつけた」
 黒髪の運命神はいつの間にか、成人した『シンマラ』の姿から、黒き甲冑を纏った幼き少女の姿へと戻っていた。
 だが、シルビアは、変貌したスクルドにも牙をむくことなく、その横で人形のように立ち尽くしている。
 シギュンも今更、運命神がどのような姿に変わろうと驚く必要もないとでもいうように眉一つ動かさなかった。
「……なるほどな。その絶望が餌となるか」
 シギュンはスクルドの思惑をあらかた察した。
 自分の力ではシルビアを救えぬと絶望したラーンが頼れるのはただ一人。
 ――本物のシンマラだけだろう。
 そして、本物のシンマラは消耗したラーンの姿を見て、受け入れぬ女ではない。
「意志を奪えぬなら奪わぬも運命。奪わずとも餌は餌となる」
 スクルドの声は相変わらず平板だったが、その黄金の瞳には微かな嘲笑が混じっている。
 本物のシンマラは、罠と知っても、知らなくても、シルビアを救うために運命神のもとに赴くだろう。
 スクルドの手許には、完全に支配下に置かれているシルビアがいる。
 そのシルビアを交渉の道具として、『レーヴァテイン』の封印を解かせるつもりなのだろう。
「我が廻らせた糸からは逃れられぬのだよ」
 スクルドはそう宣言し、シルビアの手を取った。
 先程ラーンを包んだ黄金の光が、今度は二人を囲むように現れる。
 シギュン・グラムは手を出そうとはしなかった。
 懐から煙草を取り出し、マッチで火を点ける。
「その程度の糸などで絡め取れるとは思わないことだな。私のことも、シンマラのことも」
 スクルドの罠によって、シンマラが危機に陥ったとして、その時には彼女の弟子がその場に勢揃いしていることだろう。
 ラーンとシルビアはもちろん、神代ちとせも八神悠樹も居合わせていることは間違いがない。
 ――運命(ノルン)よ、果たしてその場を貴様の思惑通りに進めることができるかな?
 シギュン・グラムは心の中だけでそう呟き、目の前から消えゆく黒髪の運命神(スクルド)に紫煙を吐きかけた。


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